甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

夜汽車の向こうに

2021年02月13日 10時54分42秒 | わたしたち、家族

 幼稚園に通ってた12月、父方の祖父が亡くなった。それまでにこの人に会ったのかどうか、たぶん、カゴシマで会ったはずなんだろうけど、まるで記憶はなかった。幼稚園以前にカゴシマに行ったことがあったのかどうか。

 夏のカラカラの道路沿いを歩いて、ヘロヘロになりながら、泣き言もたくさん言って歩いたのは、もっと大きくなってからだったのか。

 その道は、駅から祖父の家につながる道ではあったので、あそこを歩いていたのは、何か理由があったのだろう。そこで祖父と会ったのか、記憶はない。弟もいたはずだが、もちろんどうだか、わからない。

 お葬式は、祖父の家で行われたのではなくて、伯父の家で行われた。というのも、祖父は自分の子どもたちの家を転々と渡り歩いていたからである。

 祖父は、お酒が好きな人となっていて、田畑はみな焼酎に変わったという親戚の人たちの話であった。豪快というのか、お酒に弱かったというのか、それほどに好きだったらしい。

 母方の祖父母は、母が幼い時になくしていたので、私につながる祖父母は、このおじいさんだけであった。母はおばあさんとも会ったという話は聞いたことがあったし、一緒に暮らしたこともあったように聞いているが、どんな人だったのか、あまり語られることはなかった。


 幼稚園の時に亡くした祖父が最後のお年寄りで、それ以来、私どもの家族はずっと核家族で、親戚は父の兄弟がたくさんいたので、それなりの付き合いはあったが、祖父を亡くしてからお年寄りとの関わりは一切なかった。

 私の家は、気づいた時には大阪にあった。幼稚園も当然そこにあったのだ。

 何もかも記憶を放り投げている私ではあるが、幼稚園の頃といえば、歩いて幼稚園まで行ったこと、幼稚園に一緒に通う中でのりちゃんという幼なじみを得たこと、幼稚園の軒下で土団子を作り、そこに一晩寝かした土団子は強かったこと、学芸会で袴を着せられて、いやいや踊ったこと、同じクラスにおかっぱの女の子がいたこと、その子とは別に「ハルミちゃん」という女の子が好きだったこと、変なエプロンかけた園服だったこと、くらいだろうか。

 もっと昔なら、人とのリアルなドラマも記憶していたのかもしれないが、今となってはドラマはそぎ落とされてしまった。


 お葬式がどのように行われたのか、その記憶はない。ただ、冬の日に照らされた中で親戚一同と撮った写真があるので、そこに私はたぶんいたはずなのである。

 何日か滞在して、やがて大阪に帰る夕方がやってきて、汽車に乗り込む時が来て、汽車に乗り込んだはずで、外は暗くなっていた。冬の日はすぐに落ちただろうから、夜ではなかったのかもしれない。でも、窓の外は暗くて、見送りに来てくれた親戚との別れの辛さもあったはずなのに、そんなに悲しい気分もなく、大阪に帰れば、また幼稚園に通えて、そうしたらまたハルミちゃんに会えて、楽しい日々が戻る、そういう甘い考えに満たされていたような気がする。

 葬式に参加して楽しい経験をするなんていうことが本来あり得ないことではあったのだが、突然にカゴシマに連れて行かれた落ち着かなさが、大阪に帰りたい気持ちを大きくさせていたのかもしれない。

 

 夜行列車に家族で乗り、大阪に帰ったはずだが、その記憶も全くなく、当たり前のように幼稚園生活をつづけたのだろう。小さい頃というのは、普通の生活が一番で、イレギュラーなものは受け付けない。そんな頑なさが誰にもあるのだろう。

 祖父は、私たち家族が大阪で生きていくのを見送り、自らはお酒をたくさん飲んで、まわりからいい気な爺さんという目で見られていたけれど、どこにも自分の生活の場が見つけられず、それを確かめたくて、あれこれと模索したのかもしれない。

 まわりの人は、祖父の気持ちも分からず、酒癖の悪さ(?)と落ち着きのなさを話題にし、「困ったジサンだ」というレッテルだけを貼ってくれていた。

 私がどれくらいちゃんとしゃべれたとしても、「お酒は良くないよ」とか、「おじいちゃん、何でフラフラしてるの?」とか、まわりの意見に沿ったことしか言えなかっただろうな。

 今、どれくらいのことが言えるだろう。それも怪しい。とにかく、思い出し、時々は実家の仏壇にお参りしなくてはと思う。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。