仁徳天皇というと、5世紀前半の天皇なんだそうです。応神天皇の息子さんで、お子さんには履中・反正・允恭と3人の天皇さんがおられるそうです。
お墓とかまどの話と、それくらいしか知らなかったけれど、この方の作品が『新古今和歌集』に載ってたなんて、これは最近知りました。しかも、芭蕉さんと関係があったなんて!
まず、ビックリしたのは、新古今で、昔から変なアンソロジーだなとは思ってたんです。
スタッフの一人である定家さんが、百人一首も作ったはずだから、時代も変わっていくことだし、今までの日本の和歌の流れから、撰者たちそれぞれが、「これは」というものを時代を越えて集めてみようとしたのかもしれない。
そして、少しくらいアレンジしてもいいから、今の雰囲気に合うものにしてしまえ、という意気込みで作った、というのは感じていました。
百人一首の一番・天智天皇の作品は、『万葉集』では、作者不明の歌として載っているそうです。それが何百年かが経過して、平安初期には天智天皇の歌とされるようになっていて、すでに「天智天皇御製」ということで勅撰和歌集には採られていたそうです。
秋の田んぼの小屋で番をしているボクの服は、夜露に濡れているよ、なんていう天皇様としては非現実的な歌なのに、貴族のみなさんは、そういうふうに庶民の暮らしを思ってあげている有り難い歌だと解釈してた、というんです。
万葉集の「秋田かる仮屋(かりや)をつくりわが居れば衣手さむく露ぞ置きける」はストレートでいいですね。「「かりほの庵(いほ)のとまをあらみ」なんていう変な技巧なんていらないよ、という感じ(それはボクです。最近捨て鉢になってますね?)。
とにかく、数百年の和歌の歴史を概観するアンソロジーを作ろうとした。そして、第7巻「賀歌」の冒頭に仁徳天皇様の歌があります。
貢物許されて国富めるを御覧じて
高き屋にのぼりて見れば煙立つ民の竈(かまど)はにぎはひにけり
有名なエピソードで、かまどの煙が立ってないから、人々はあまり煮炊きしてないし、ちゃんとゴハンを食べてないのだろうと判断されて、貢物(税金)を3年間猶予された。そうして人々は復活して、普通に煮炊きしてゴハンが食べられるようになったのを実感され、よかったなあとお思いになられたという歌でした。
有り難い天皇様のお心で、今の天皇家の流れにつながる大事な歌になっています。いつも人々の暮らしがどうなのか、敏感に感じていただいている、そういう歌でした。
それはいいんだけど、何も数百年後の鎌倉時代の歌集に取り入れなくてもいいんじゃないの? と、私は思うけど、撰者のみなさんたちは、もっと遠大な構想があったんでしょうね。
そこからまた数百年、われらが芭蕉さんはこんな句を詠みます。
叡慮(えいりょ)にて賑(にぎわ)ふ民(たみ)の庭竈(にわかまど)
天皇の思し召しにより、民の暮らしもにぎわい、家々では庭竈を囲む団らんが行われています。という天皇の短歌を踏まえた作品になっています。
俳句の世界では、土地や人に対する挨拶の句というのがあるから、これもそういう季節だったのか、かまどから炊きたてのゴハンをもらったのか、そういうのを感謝する意味と、過去の作品とのつながりを引き寄せる作品ということになるんでしょうか。元禄元年の芭蕉さん四十四歳の作品だそうです。
もう大先生だから、いろんな状況の中で、どんなふうにしたら喜ばれるのか、そういうことも判断したうえでの作品であり、社会的な作品です。
芭蕉さんはプロなんだから、みんなに面白がってもらわなきゃいけないから、日記的な俳句なんて書いてられないんですよね。プロは大変です。ボクは、ヘボ五七五しか書けないから、日記みたいなのしか書いてないですけど。