★ ヨーロッパの遺産
若いころ、私はその(ゴシックの尖塔)のようなヨーロッパにあこがれた。石造りの壮大な建造物の立ちならぶ風景こそ文明のあかしだと考えていた。そしてせっせと勉強して、その偉大さを知ろうとした。
しかし、現在の自分には、同じそのものが巨大な死物としか思えない。そこにしみ通った、永続するものへの信仰がわずらわしい。立ちならぶ建造物は、それが巨大であればあるほど、力に対する欲望が露骨にあらわれているようで、むしろ野蛮で、愚かなものに感じられる。奇怪な壁だけをのこした聖堂の残骸は、むしろその野蛮さのしるしとして、のこしておいていいのではあるまいか。
あこがれのヨーロッパ。いつか行きたいと思いつつ、まったく行けていないところ。でも、近い将来、行ってみようとは思っています。断固として。
何に憧れるのかというと、人もそうだけど、街並みです。古代から中世にかけてのいろんなものが残っていて、それを自分の目で見てみたい、その程度の憧れですか……。
もっと絵を学びにとか、いろんな人と芸術交流するとか、何かを学びにとか、そういうものではないんですね。二回目の新婚旅行みたいなものかな。いや、二回目といわず、三回目、四回目でもいいから、海外旅行したいです。飛行機に乗るのはイヤですけど……。
それで、そのあこがれのヨーロッパ、ドイツ文学がご専門の池内先生に言わせると、それは負の遺産というのか、そんなにありがたがるものではない感じで書いておられて、何だか意外な気がしてメモしておきました。
★ 小鳥たち
毎日ながめていると、いろいろ気がつくものである。小鳥がこんなにもデリケートな生きものだとは知らなかった。
よろこび、怒り、悲しみがはげしい。うれしいときは、舞い下りてくるときの勢いがちがう。地面をはねるときのはね方がちがう。ジャマ者がくると騒ぎ立てる。意地悪をされると、わざとらしくソッポを向く。人を見分けるし、好き嫌いがはっきりしている。甘えたり、すねたりする。おどされると、飛びはなれるが、不安がないとわかると、すぐにもどってくる。そして小首をかしげて、こちらを見ている。
ただ愛らしいイメージの鳥たち。彼らがカンシャク持ちであり、うちにやってくるヒヨさんなんかは、それはもう意地悪で、つまらないもの(枝にさしたミカン)を必死に守る姿を見ていると、あさましいとか思ってしまいます。
でも、そのあさましさ・意地悪さは私たちが持っているものであり、もっとみんなで分け合ってみたらという思いを持ちつつ、またミカンをさしたりするんです。
とはいうものの、小鳥たちはとても素直で、ピュアーです。人間みたいに自分の気持ちを隠したり、言いたいことを言わないとかはありません。言いたいことは言い、恋しい相手には熱烈なラブコールをする。そこは見習いたいと常々思うのでした。
★ チェーホフとサハリン
(チェーホフは)新聞に旅行記を書く約束があって、そのための旅行ということになっているが、単にそれだけの理由とも思えない。チェーホフはすでに結核を発病していた。当時、死の病といわれた結核がいかなるものか、正確に知っていた。にもかかわらず出かけていった。
サハリンぱそのころロシアにとって流刑の島だった。まさにその一点に立って、いろいろ考えてみたいことがあったのだろう。友人への手紙に書いている。「断言します。サハリン島は興味深く、知る必要のあるところです」
(チェーホフは)サハリンに三ヶ月滞在した。そして丹念に聞き取り調査をした。一軒一軒を訪ね、一人一人と話をした。そのときのカードが残っている。この島で自分と話さなかったような人は一人もいないと、少し誇らしげに友人に報告している。
チェーホフとサハリン。これも私の好きなものでした。というのか、あこがれです。なかなか勉強不足でそこまで手が回らないけれど、サハリンにはいつか行きたいと思うのです。
これは叶わない願いかもしれないから、あこがれとしては持っておきたいものです。
賢治さんだって訪れています。私は、サハリンにも行かず、ヨーロッパにも行っていない。でも、目標としては掲げておきます。それが何になるのかはわからないけれど、夢、あこがれとして保持していきたいのです。