先日書いたタルコフスキーさんの映画に「鏡」ってありました。ビデオに録画もしたのに、なかなか落ち着いて映画を見ようという気になれなくて、VHSのテープはたぶんのびのびになっているでしょう。それさえ確認できないくらいに古くなってしまっているのかも……。
ついこの間という気分だけど、たぶん、ものすごく昔です。ひょっとしたら、DVD録画もあるかもしれない。それさえどこにあるのか、わかりません。タルコフスキーさんの自伝的な要素のある作品ということですが、そんなに単純なものではないと思います。必死になって見なくちゃいけないはずです。
なかなか余裕ないんですね。果たしていつ余裕が出るのか、うちのVHSテープ群がなくなる日は来るのか、気が遠くなります。余裕あるから見ようとか思っても、VHSテープを動かせる機械もなくなりそうです。そうしたら、膨大なゴミになりますよ。何をやってんだか。
表紙は、アルヴォ・ペルトという作曲家の二枚組ベストです。ネットだか、古本屋だか、どこかでゲットして、そんなに聞いてないけど、わざわざ買ったのは、ものすごく好きな曲があるからでした。
「鏡の中の鏡」Spigel im Spigel という8分ほどのピアノ作品です。淡々と音を刻んでいくだけで、とくにメロディらしいメロディはないんです。ピアノだけかと思ってたら、クレジットにあるようにバイオリンも入っていましたね。ゆったりとしたピアノの流れをサッとかすめるように過ぎ去っていくバイオリンもまた不思議な感覚でした。
音楽によって、「鏡の中の鏡」を表現するって、どういうことなんでしょう。考えてみればわからないですね。でも、そんな、理解しようとかじゃなくて、何か好きなんだから、まあ、それでいいんです。
そして、テレビ番組などで自省的な場面にひっそりと流されてる時もあるから、この音楽を聞く人たちが、とりあえず、この音楽によって自分の中のもう一つの自分に向き合えそうな、そんな気持ちになるんでしょう。
村上春樹さんの初期の短編でも「鏡」という作品がありました。
若者たちが集まって、それぞれ何かのテーマを決めてとっておきの話をしているようでした。この時のテーマは「怖い話」でした。
私だったら、そんなの語れないです。怖い体験なんて、何にもないです。怖い人間はたまに見るけれど、その怖い人間にもあまりまともに向き合っていないし、霊的な体験というのは、全くないですね。
私が鬼太郎くんみたいに瞬時に霊気を感じられる人だったら、私もまた違う人生を送ってただろうけど、霊気は感じられなくて、怖い人間がいたら、スゴスゴと逃げるばかりで、「怖い話」に乗れないなあ。
自分のボンクラさ加減が浮き立つばかりです。ああ、無理だ。
というんで、小説の中の「僕」も、困り果てて、60年代後半、大学紛争に明け暮れていた時代に、大学に進学もせずに、各地をバイトなどして放浪していた話を取り上げます。
その秋に、僕は中学校の夜警(宿直)の仕事を引き受けたそうです。よくもまあ、そんな風来坊みたいな人に学校の管理を任せたなあと思うけれど、とにかく、そういうバイトをしていたそうです。
風の強い夜、午前3時の巡回に出かけます。でも、校舎の中だけだから、外に怪しい気配がなければ、すべて回ったら、すぐにまた寝られるはずでした。
玄関のわきに大きな鏡を見つけます。昨日の巡回には見つけられなかったけれど、知らない間に設置されたんだなと、鏡を見ながらタバコを吸います。
そんな危なっかしいことをするから、邪気がやって来るんだと私なんかは思いますが、とにかくタバコを吸っていた。
すると、鏡の中の自分が、現実の自分を支配しようとしているよう感じられたそうです。そして、向こうはこちらの僕に対して深い憎しみを抱いているように感じた。癒すことのできない憎しみだったというのです。
僕は鏡に持っていた木刀をぶつけ、鏡は割れて、僕は宿直室に逃げて、カギ閉めて寝た。
翌日には、何もなってなくて、もちろん鏡もなかった。けれども、その十年ほど前の体験を語る僕は、「自分ほど恐ろしいものはない」と教訓して、小説は終わるのでした。
私は、人間だれしもが抱える自己矛盾を、そういう形で表現したのかもしれないし、60年代の若者は、「これでいいのか」「これが本当に自分たちの求めていたものか」という存在に対する疑問を持っていたのだ、というような解釈もしてみました……。
でも、さっき考えたんですけど、自己矛盾は、60年代の若者だけが持っていたものではなくて、人間は日々更新していく生き物であり、古い表皮をぼろ布のように投げ捨てて、新しい自分に進化したと思いたがる生き物ではないのかな、と思ったんです。
オッサンだって同じで、今までやれてたこと、考えてたことをどんどん捨てて、「そんなの今の私には何の役にも立たない」なんて思って、コテコテのオッサン然としたものを喜々として受け入れるってこと、なかったかなあと思いました。本人の中では「新しいもの」なんだけど、はたから見てるとコテコテの古いものだったりするんです。
みんなが、新しい自分になるのだ、古い皮・カラ・仮面は捨てて、新しくなるのだと必死になってやってる。他人が見ると、たいした変化はないんだけど、本人の中では「ものすごい変化だ」とか何とか、そんなこと思いつつ更新・進化をしてるんじゃなかったかな。
そういう人間の営みの中で、鏡の中の自分も、現実の自分を憎らしく思っていたのではないの? とか思いました。まあ、私の勝手な感想でしたね。
さあ、鏡で自分を見てみましょう! 午前2時からあとは鏡見てはダメなんだよ、っていうの、昔みんなでワイワイ言いながら、ウソかマコトかで、言い合ったりしてました。懐かしいねえ。