甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

西行さんのムクの木 千鳥ケ瀬

2015年11月11日 21時42分31秒 | 三重・熊野さんぽ
 この藤のトンネルは大好きでした。よくぞこんな形でのこっているものだと思っていました。丹生大師の方へお買い物に行ったり、勢和の図書館に出かけたり、彼岸花を撮りにいったり、何かにつけてこの古い街道を通ることがありました。その度にここを通ったら、すごい木が道を覆っているもんだなあと感心していました。

 そこが西行さんゆかりの土地であると知ったのは、だいぶ後になってからで、それまではただ感心していたり、藤の花の鑑賞をするだけでした。

 大阪の落語家さんが、昔の伊勢詣りの再現ということで数日掛けてこちらまで来て、いつも大晦日ころにこちらに来て、お伊勢詣りを目前にして、相可の宿場で軽食をとり、いよいよ伊勢に入っていくというときにも、伊勢の世界を示すゲートのような形の木だったのです。






 飯南郡と多気郡の2つの区域を分けるのが櫛田川という川で、奈良県境のあいだにそびえる高見山の方から流れてくる川です。松阪市の水源になっています。途中で少しだけささやかな渓谷はありますが、それほど有名なわけではなくて、淡々と流れて、やがては伊勢湾へと注ぎ込みます。


……2つの地域をつなぐ両郡橋です。両側で互いに競い合った双子地域で、三重県のブダペスト、三重県のミネアポリスだったのです。対岸の射和(いざわ)地域はお寺も多く、有名な商人さんもおられます。だから、夏の祇園祭はすごいのでしょうね。


 JRの多気駅を過ぎたあたりで、分派して、斎宮という古代の宗教システムを支える川になり、祓川(はらいがわ)というのになったりします。この短い川の両サイドはこんもりとした森になっていて、こんな自然な川をどんどん取り戻せたらいいのだけれど、そんなことは国土交通省の方々は認めてくれなくて、たいていは管理された川になっているのですが、櫛田川の下流の分派した部分だけ、神道関係で自然のままっぽく残されている。

 そうした管理されている一級河川の櫛田川には、いろんな川が流れ込むわけですが、このムクの木のそばにも、小さな川の流れがあって、か細く流れていて、ある夏の日などに、ここでカワセミだって見ることができたりした、あの千鳥ケ瀬です。

 現代の年末の関西の落語家さんのように、または街道歩きを趣味とする中高年のように、今もこの伊勢本街道はいろんな人が歩いていて、平安末期から鎌倉初期にかけて生きた歌人の西行さんも、ここを通ったそうです。



 西行さんと伊勢の国は、いろいろとつながりがあるような気がしますが、それらを三重の文学研究家の私は、まだまだ開発し切れていなくて、山家集も読みかけて途中でストップしているんですけど、とにかくこちらにこられたそうです。

 詠まれた歌は次のようなものです。

  疲れぬる我を友呼ぶ千鳥ケ瀬(ちどりがせ)越えて相可(おうか)に旅寝(たびね)こそすれ

  歩き疲れた旅の私を、仲間を呼び交わす千鳥たちの名がついた千鳥ケ瀬を越えれば、道は相可の宿場となって、そこで私は旅寝をするのだろう。私の旅はまだまだつづくのだ。



 という歌でした。個人歌集である「山家集」には載っていません。どこかに出典があるはずですが、どこにも出典は書いてなくて、民間説話なのか、言い伝えなのか、そこのところがよくわかりません。これも勉強不足です。

 でも、たぶん、西行さんはここを通ったはずなのです。河内の国に縁があって、そちらで亡くなられるわけですし、調べるといろいろとエピソードはあると思います。ただ、私が知らないだけなんでしよう。

 明治の末になって、この木の付近の相可の街の人々は、西行さんを偲び、この場所を「千鳥ヶ瀬」と名づけ、歌碑も建てたということです。明治時代のアイデンティティ運動の1つだったわけですね。


……説明板と明治の頃に作成の歌碑、そして切り株です。


……ポッカリと穴の空いた木の切り株、そして、街道を照らすこぶりな常夜灯


……トンネルみたいになっていた木の反対側から木のあった方を撮りました。もう消えてしまったものは仕方ないけれど、たぶん藤も一緒に伐られたのだと思います。街道の名物がなくなってしまいました。広重さんなら、絵の題材が消えたとお怒りになるかもしれない。

 もうこうなりゃ、記憶を残しておくしかないです。道路の業者さんには願ったりかなったりだったかな……。


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