2週間ほど前、名古屋の三省堂で買った梨木香歩著『丹生都比売(におつひめ)』、家まで帰る2時間と少しで半分くらい読み進められたのに、タイトルになっている「丹生都比売」に入ってから、ちっとも読み進められなくなりました。
ここまでの七つの短編は、おもしろかったんです。その中でも「カコの話」は面白いと思い、だから、単行本まで買いました。
それなのに、タイトルになっている小説は、つまらなかった。
大海人皇子とう野讃良皇女(「う」が見つかりません。うのささらのひめみこ、後の持統天皇)のご夫婦の長男・草壁皇子のお話で、天智天皇が体調不良になってから後、後継者争いが起こることを恐れ、大海人皇子さんは吉野に逃れ、政権には全く興味がないことを示した、そういう頃のお話になっていました。
梨木さんがこういう世界にチャレンジしたということは、讃えられてもいいのかもしれないけど、何だか登場人物たちがフワフワしていて、大した起伏もないままに時間が過ぎていると、やがて天智天皇さまがお亡くなりになり、大津からは吉野へ向かって大海人一族を無力化するためにあれこれと手が伸びてくるのでした。
それをやがては覆し、草壁さんのふとしたことで展望が開け、父の大海人さんは壬申の乱に突き進み、皇子たちは自由を得たかに見えたけれど、肝心の皇子さまは体調不良になってお母さま(ささらさん)に見守られて死んでしまう、そういう物語でした。
悠長な話にチャレンジしたのはグッド、でも、お客としては、「何だか話が長いぞ」「思わせぶりだぞ」「ファンタジーなのか、ウソ八百なのかはっきりしろ」とか、あれこれ文句ばかり言いたくなるのでした。
さて、ここにたどりつくまでの七つの短編。どんな内容だったか。あっという間に読んだのに、まるで記憶はありません。苦労して読んだ百ページは、冗長ではあるけれど、それなりに印象的な場面はあるし、いろんな意味もふくめられた物語なんだろう、という気はしました。でも、何だかつまらない。
私は、「丹生」という文字・ことばに何とも言えない感覚を持っていました。
私にとって「丹生」というと、「にゅう」と読んで、いつもヒガンバナの写真を撮りに行く場所でした。弘法大師さんをおまつりするお寺もあるし、街道の宿場みたいにもなっていて、歩いても楽しいし、買い物は野菜などを買うくらいだけど、そういうこともできる場所でした。
「丹生」というのは、「丹」がとれる場所を表します。「丹」は、水銀・赤土・鉄、いろいろな意味があるようですが、とりあえず赤の鉱物が取れました。それを白粉とかに使ったそうで、伊勢土産として昭和28年まで利用されていたということです。
奈良から三重県中部にかけて、現在の感覚で行くと山また山で、そこを国道が何本か走ってはいるけれど、はるかに遠い感じがします。それなのに、昔はわりと頻繁に行き来があり、人々は峠を上がり下がりして横でつながっていた。
それは、天智天武の飛鳥時代から、空海さんの平安はじめも、南北朝の時代も、北畠氏が活躍した中世も、山また山のこの地域は、地質学的にもつながっているし、人間社会においてもつながっていました。それが今の私たちには不思議です。
どうしてこんな山奥の、まばらな集落がつながっているのか?
不思議でたまらないけれど、それをつなぐ人の流れみたいなものがかつてはあったんでしょう。日本の海をぐるりとつなぐ海の道がかつてあったように、人の道も山を介してつながっていた。
ですから、山はヘンピなところじゃなくて、人々をつなぎ、情報交換のできる、開かれた場所でもあったんでしょう。その頂点に吉野があったのだと思われます。
そこを大海人さんは抑えた。戦略的にとても大事です。ヘンピに見えて実は超攻撃的・しかも防御的にもバッチリでした。ここでチャンスを待ち、におつひめという神様の神託を待った。それを息子の草壁がもたらしてくれた。かくして、チャンスは成功へとつながる。
そういう神がかった世界を、梨木さん的に描いたということなのかな。
読み終わった後、ああ、こういうことなのか、と納得はしました。やはり、100ページは必要な、本のタイトルになるくらいの話だったんでしょう。
物語を作ること、考えてみれば大変なことで、もう手掛かりさえあれば、何でも取り上げて自分のものにしたくなるんでしょう。
梨木さんは、政略家のご大海人夫婦には注目しないで、両親も子どもたちもみんな天皇になったのに、自分だけは天皇にならなかった草壁さんの少年時代の生と死を描いた。
それで、私も少しだけ感情移入できた。読んだ後も、何だか自分による古代世界が描けそうで、それなりに満足感もあります。
よくわからない感想になりました。とりあえず三連休、大阪の実家にでも行ってきます。みなさま、よい週末をお過ごしください。
★ 伊勢国射和(いざわ)村(三重県松阪市射和町)特産の白粉。水銀と赤土を主原料とする。昔は射和の軽粉(けいふん)または「はらや」の名で知られた。櫛田(くしだ)川上流の丹生(にう)(多気(たき)郡多気町丹生)の丘陵地帯から産出する水銀と、射和の朱中山(しゅなかやま)産の丹土(にど)(赤土)を使用して軽粉業が興った。
最盛期は室町時代で、釜元(かまもと)が83軒もあったが、のち粗製乱造をおそれ16釜になる。伊勢神宮の禰宜(ねぎ)は軽粉を京都の公卿(くぎょう)たちに贈り、山田(伊勢市)の御師(おし)も御祓(おはらい)配りのため諸国の檀家(だんか)回りにもこれを土産(みやげ)物とした。
江戸初期、丹生水銀の廃鉱後も他国産原料で製造を続け、射和の軽粉はなお伊勢の特産物として知られた。明治以後、化学薬品に押され衰退し、最後に残った1軒の釜元も1953年(昭和28)に廃業した。[原田好雄]
『山崎宇治彦・北野重夫著『射和文化史』(1956・射和村教育委員会)』
[参照項目] | 射和