9月8日の朝日新聞に、田玉恵美さんという解説委員の方が、今年のオリンピックなどをふり返り、選手たちは「頑張ってい」たけれど、何とも楽しめない自分がいたというのを書いていました。
たいていの人たちが、オリンピックが行われているのを知っていました。結果としてメダルも過去最高など、それなりの成果はあったのでしょう。けれども、すべてのプログラムを強行し、国内は感染の嵐になりました(相関関係はなかったでしょうけど?)。
よくぞ、そんな中で外国の選手たちは集まってくれましたが、選手たちは何となく落ち着かないままにプレーさせられたのではないかな。観客はテレビだけだし、そこで実際に行われていることなのに何か空疎さがありました。現実感はあまりなかったような気がします(私は野球とサッカーだけ見ました)。
私たちの税金が使われたはずですが、東京にそんなにたくさん投資して、これからずっと財政赤字をみんなが負担していくことになるのですから、それに見合うものができたのかというと、何も生み出せていないと私なんかは思います。ものすごくたくさんのお金を使った。でも、何も生まれなかった!
選手たちの頑張りは、お金を使うことの言い訳にしたかったのかもしれない。だったら、私なんかは、その分だけでも返してくれと言いたくなります。税金をいくら取られて、そのうちのどれだけがオリンピックに使われた、それは反対だから、その分を返せ、ということができたら、うれしいけど、大混乱はするのかな。
お金は、いつも不透明に使われています。もういくら取られてるのか、そういうのを思い悩むのが虚しくて、失うお金の計算はしていません。ああ、オリンピック、お金に関してだけは、少しだけ自分ごととして考えられそうです。よそで開かれてたら、お金は無縁だったのにね。
朝日新聞の論説委員の田玉さんは、2011年の冬、パリの劇場で巨匠ウイリアム・フォーサイスのコンテンポラリーダンスを見ることになったそうです。
そうすると、しばらくしたら、お客さんの何人かが音を立てて出て行った。客席はガラガラになり、どれだけ演者は傷つけられたのではないかと思ったので、日本人ダンサーの島地保武さん(43)に取材したそうです。
島地さんは「全然気にしていませんでしたよ」と語ったそうです。そういうことはヨーロッパではしばしばあったんだそうです。
「足音を立てて帰るという行動も、お客さんの反応ですよね。僕たちとお客さん、芸術と社会がインタラクティブな(相互に作用する)関係になれている証しですから」
芸術は、社会に試されているわけであり、常に評価にさらされている、そういう環境がヨーロッパにはあるのかもしれません。少し怖いですね。
「芸術は、ブラボーや拍手喝采をもらったり、お客さんを喜ばせたりするためだけに存在するわけではないと思うんです。なにかを感じたり考えたりしてもらうこと自体に意味がある」
そう、私なんかは、お金の投資は、対価・見返りがないともったいないと感じるミミッチイ派ですけど、そんなのでは、芸術にはたどり着けないわけか……。
いや、芸術って、いつもそんな問題提起をしなきゃいけないわけですか? もっと日常的で、毎日の生活にベタベタと貼り付いててもいいんじゃないの?
そう思うけど、それは芸術の底辺というものなのかな。芸術のてっぺんは、とにかく他者に刺激を与えるような、人に何かを考えさせるものにならないといけないということですか。
「見る人の感想や受け止め方は人それぞれに違って当たり前ですよね。みんなが同じ反応をする方が、逆におかしくないですか?」
これは芸術以外のすべてに当てはまることで、マスコミって、一つの切り口で進むから、「オリンピックは意味がなかったのではないか」「自民党の総裁選、誰が勝つのか」「日本のコロナ感染対策はどうなるのか、誰が責任を取るのか」なんていう、責任追及で進むんでしたね。
朝日新聞でさえ、意味があるのか、どうして強行するのかと疑問を持ちつつ、推進役として旗を振ってたりしました。それが会社というものでした。朝日新聞も引き裂かれていたのです。
何が正しいのか、どこに行くのか、どんな意味があるのか、疑問を持ちつつ記事を書いても、答えは出せないままに、とりあえずまとめて提出するというのをやってたわけでした。まあ、朝日新聞は芸術を出してるわけではないから、情報を提供するだけなのか。でも、新聞メディアだって、時には芸術にシフトしなくてはならない時もあるし、いろいろなんじゃないの?
記者さんに答えはなかったんですね。島地さんは、芸術とは何かに対する答えは持っておられた。
瞬間瞬間に、ブラボーと叫んだり、ブーイングしたりする私たちに答えはあるのか? その時には、どちらかに自分を傾けるわけですが、あとから考えてみると、実はそうではなかったと見直す時だってあるでしょう。
だから、芸術は、ずっと受け止めた側に何かを与え続けるわけです。その時は是非・可否・良否どちらかに判断したとしても、その判断がずっと続くわけではなかった。しばらくしたら、受け止めた側に何か変化が生まれるかもしれない、そういう可能性があるものだったんですね。
芸術は、時間の中で、うねりながら私たちのそばを流れていきます。
「わっ、きれいだな」と思ったり、「何だい、あれは?」とつぶやいたり、いろいろに芸術に作用されながら、私たちはその流れと関係をつづけていく。
私たちは、芸術の流れに参加する時はあるんですか?
歌ったり、踊ったり、詩を書いたり、絵を描いたり、いろいろとマネごとをする。それは芸術とは呼べないものかもしれないけど、本人の中では「芸術」なのかもしれない。
そう、何か自分の中から飛び出るものがあれば、それは芸術という形をとることもあるわけです。形にならずに消えてしまうこともあります。
芸術とは何か、たくさんの人の気持ちの流れ、みたいなものでしょうか。人を縛るものではないけど、影響は与え続けていく。