甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

信長さんって、怖いけど魅力はあります。

2018年08月28日 20時08分16秒 | 草にうずもれて

 私は、家康さんというと、腰が引けています。あまり興味がありません。秀吉さんは大阪育ちなので贔屓(ひいき)する気持ちがかつてはありましたが、今は何とも思いません。というわけで、消去法で信長さんになるわけですね。

 信長さんは、伊賀を焼き討ちにしたり、伊勢地方を支配していた北畠氏をだまし討ちにしたり、伊勢長島の一向一揆を皆殺しにしたり(ホントかな)、それはもう三重県はこっぴどくやられています。何度も三重県に遠征に来たでしょう。

 滋賀県は、わりと友好的だったので、そんなに人は殺されなかったんでしょうか。少し不安ですけど、わりと何度もこちらを通っている。愛知県から京都をめざすなら、今の新名神高速のルートで、鈴鹿山脈を越えたら、もうすぐそこでした。

 でも、当時としては、木曽川・長良川・揖斐川という三つの川を大軍で越えていくのは難しかったでしょう。橋もないのです。だから、美濃に出て、そこから滋賀県を通って京都への道を見つけた。これは自然な流れでした。

 滋賀県北部は同盟国の浅井氏。妹さんが嫁いでいた。だから、スイスイ南に下がると、それほど友好的ではない六角氏がいて、ここは滅ぼしたのか、追放したのか、とにかくわりと簡単に支配下に置いた(のじゃなかったかな)。

 そして、いよいよ天下が見えてきたとき、六角氏のお城があった観音正寺山のとなりにお城を作った。これが安土城でした。標高は、観音正寺山が五百m足らず、安土城は二百mくらい。だから、登山じゃなくてトレッキングにもならない小山のはずでした。

 当時は南だけが陸地で、東西北は湖だったそうです。湖に浮かんでいるような立地のところにカラフルなお城を立てたそうです。部下たちは東奔西走・南船北馬で、あちらこちらに突き進んでいました。

 お城はもう立ててから数年経過していたそうです。そして、プチッと信長さんは亡くなって、お城も灰燼(かいじん)に帰したそうです。それから三百何十年ずっと草むらになり、天守閣が発掘されたのは、1940年ころだったそうです。

 どうしてそんなに長い間草にうずもれていたのか。お寺の管理するお山ではあったけれど、だからこそそちらに足を踏み入れるのは控えてもらい、信長さんという英雄が天下を統一しようとしたその途次のお城の遺跡として埋もれていたようです。



 天守閣の最下部の柱のあったところが見つかったのはつい数十年前です。それまではずっと眠っていて、土砂を取り除いたら、ようやくこれらの礎石が出てきたということでした。

 信長さんの遺跡は永い眠りにつき、最近目覚め、以後はそのお城の跡をのぞいてみようという人々がポツポツ訪ねてきて、今に至っています。

 かつては本丸部分だけではなくて、もっと奥の部分も入ることができたということですが、今は立ち入り禁止になっています。あちらこちら工事現場風の仕切りもあって、お寺なのか、城跡なのか、廃墟なのか、何だかよくわからないまま、未整備の公園状態の道をたどっています。

 とにかく上りはハードだし、下りも段差があって、私はしばらくは階段が歩けませんでした。すぐに足腰膝にこたえるハードな道です。

 そして、考えます。ブラタモリなどで、まっすぐな道といえば、碁盤目状の区割りが好きな人は秀吉さんという割り振りがあるみたいで、どこかに行くたびに、そのようにされている。

 とすると、信長さんは?

 そんなに彼が残した都市というのは残ってないんですね。たいてい彼が作ったところは焼き尽くされているだろうし、何も残っていない。ただ、彼は私たちに何を残しているのか?

 おそらく、そういう世の中を切り開いていく気分は今に伝えてくれている気がするのです。

 お城そのものはないけれど、彼は琵琶湖の真ん中にある気分で、船と商業と文化で日本を一つにする気概を持っていた。

 その展望がこれらだったのだと思われます。



 北西方面の展望です。



 西の展望です。船とか、町とか、あったでしょうね。



 こちらは琵琶湖の西の湖でした。

 気分は少しだけ信長さんですね。


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