人間とカッパのドラマはどう展開していくことでしょう。
湊治郎左衛門さまというのはえらいお人であったが、ある日持ち山を検分しての帰り、赤羽川(あかばがわ)を馬で渡っての後、どうしたものか馬の歩みがはかばかしくないけはいに、心ひそかにうなずくといきなり、
「わりゃ!」
と叫んで気合いを入れ、刀をうしろざまに抜き打ちした。とたんに馬は繋(つな)ぎを放たれたごとく一散に駆け出した。さながらに刀の鞭(むち)を受けたかのように、その勢いに、馬の尻尾にくっついていたカンカラコボシは、斬りおとされ片腕を取り返すゆとりもなく、ただ傷口を押さえ押さえ逃げ帰った。残された片腕は、依然として馬の尻尾をしっかりと握りしめつづけたまま、振り落とされそうに揺れながらにも指は力をゆるめなかった。やっと厩(うまや)の中に帰った馬が後脚を二度ほど強く踏みしめたとたんに、その片腕は厩のわらのなかにずしりと落ちたものであった。
治郎左衛門さんはカッパが自分の馬にイタズラをしていることに気づき、ムチを当てるふりをしてカッパの腕を切り落としたということです。何という敏感な察知力です。
川に帰ったカンカラコボシは思い返して諦めきれずに、折からの月夜をも、ものともせず、家並の軒かげづたいに、よちよちと湊治郎左衛門さまの邸(やしき)にたどり着き、池水のはけ口をたよりに庭園まで忍び入り、折しも縁側に出て涛声(とうせい)を聴きながら月光を賞していた治郎左衛門さまの影を見つけると、早速に論判(ろんぱん)をぶちはじめた。
治郎左衛門さまは豪気(ごうき)な人で両腕の河原さえ怖れない。まして、片腕の者などはなおさら屁(へ)とも思わない。とても力づくやおどかしでは及ばないと知っているカンカラコボシはそら涙を使い始めた。治郎左衛門が泣いて頼まれれば断れない人だということをカンカラコボシもよく知っていたからである。しかし治郎左衛門さまも、あっさりそれではと返すはずもなかった。
いよいよカッパとの駆け引きが始まります。これはお菓子のパッケージになったお話です。ああ、お話もおもしろいけれど、羊羹が食べたくなってきました。さっきテレビでさまーずの2人がバウムクーヘンを丸かじりする場面も見ていて、バウムクーヘンも食べたくなりました。お腹がいっぱいなのに、なんという罰当たりな食欲なんでしょう。恐ろしいことです。
でも、幸いなことに羊羹もバウムクーヘンもうちにはないし、そんなおしゃれなものを買う余裕もありません。危なかった。オッサンには旺盛な食欲は罪なのです。なるべく遠ざけるしか道はありません。
「この暗愚(カンカラコボシ)め、誰がただで返してくれるものか。その代わりには、以後決してわるさはしないと申せ」
「はいはい」とカンカラコボシはやっと涙をすすり上げてもみ手をしようとして片腕のなかったことに気づいたまま、片手をだらりとぶらさげたままのわるい様子で、おろおろ声に妙なふしをつけ——
「ご先祖さま代々、孫ン子の代まで孫子末代(まごとまつだい)、カンカラコボシ一同は忘れても治郎左衛門さまの血の方の尻は引きません」
「きっとか」
「きっとでござります」とカンカラコボシは今になって飛び石の上にしゃがんだのは行儀のためではなく、気がゆるんで脚がだるくなったためであったろう。
「その心がけならよい。だが口先だけでは駄目じゃ証文を入れろ」
「いえ治郎左衛門さま。カンカラコボシは人間とは違って口約束だけで絶対に間違いはござりませぬ。きっとと申せばきっとでござります」
「何を」と治郎左衛門さまは人間の不信がカンカラコボシにう侮辱(ぶじょく)されたのを心外に思って、
「腕はやるまいぞ。証文を書かぬと申すならば」
「カンカラコボシはまだ証文というものを知りません」
「知らなければ教えもしよう」
「はいはい。それでは証文も入れましょう」
こういう始末で治郎左衛門さまは証文と引き換えにカンカラコボシの片腕を返してやった。そうしてカンカラコボシの書いた証文というのがその片腕の見取り図とともにこの間まで久しく村の役場に保存されていた。治郎左衛門さまは絵心もあったと見えてその片腕の図は青い彩色で立派に描かれてあったのを見た人も多い。カンカラコボシの字の方は誰にも読めなかったが天狗の文字に似ていたというが、今はそれももう無い。
片腕しかないのにもみ手をするというギャグがあり、民俗学的にマジメに語っているところもあって、おもしろいエピソードです。でも、何だか一方的にいじめられているみたいで、何だかかわいそうです。
そして、カッパは人間とちがってウソはつかないなんて、おもしろいと思います。人間ほどウソをつく生き物は他にいないと思います。ああ、人間とは罪な生物ですね。いやになってしまう。でも、その人間を私はやっていかなくてはならないし、人間だからこそ、私みたいな生き物でも生きていけます。野生の世界ではすぐに生存競争で負けてしまいそうです。ですから、せいぜい人間としてありがたいと思って、生きていきたいです。
最後に、大好きな小川芋銭(おがわ うせん)さんの絵でも貼り付けておきましょう!
湊治郎左衛門さまというのはえらいお人であったが、ある日持ち山を検分しての帰り、赤羽川(あかばがわ)を馬で渡っての後、どうしたものか馬の歩みがはかばかしくないけはいに、心ひそかにうなずくといきなり、
「わりゃ!」
と叫んで気合いを入れ、刀をうしろざまに抜き打ちした。とたんに馬は繋(つな)ぎを放たれたごとく一散に駆け出した。さながらに刀の鞭(むち)を受けたかのように、その勢いに、馬の尻尾にくっついていたカンカラコボシは、斬りおとされ片腕を取り返すゆとりもなく、ただ傷口を押さえ押さえ逃げ帰った。残された片腕は、依然として馬の尻尾をしっかりと握りしめつづけたまま、振り落とされそうに揺れながらにも指は力をゆるめなかった。やっと厩(うまや)の中に帰った馬が後脚を二度ほど強く踏みしめたとたんに、その片腕は厩のわらのなかにずしりと落ちたものであった。
治郎左衛門さんはカッパが自分の馬にイタズラをしていることに気づき、ムチを当てるふりをしてカッパの腕を切り落としたということです。何という敏感な察知力です。
川に帰ったカンカラコボシは思い返して諦めきれずに、折からの月夜をも、ものともせず、家並の軒かげづたいに、よちよちと湊治郎左衛門さまの邸(やしき)にたどり着き、池水のはけ口をたよりに庭園まで忍び入り、折しも縁側に出て涛声(とうせい)を聴きながら月光を賞していた治郎左衛門さまの影を見つけると、早速に論判(ろんぱん)をぶちはじめた。
治郎左衛門さまは豪気(ごうき)な人で両腕の河原さえ怖れない。まして、片腕の者などはなおさら屁(へ)とも思わない。とても力づくやおどかしでは及ばないと知っているカンカラコボシはそら涙を使い始めた。治郎左衛門が泣いて頼まれれば断れない人だということをカンカラコボシもよく知っていたからである。しかし治郎左衛門さまも、あっさりそれではと返すはずもなかった。
いよいよカッパとの駆け引きが始まります。これはお菓子のパッケージになったお話です。ああ、お話もおもしろいけれど、羊羹が食べたくなってきました。さっきテレビでさまーずの2人がバウムクーヘンを丸かじりする場面も見ていて、バウムクーヘンも食べたくなりました。お腹がいっぱいなのに、なんという罰当たりな食欲なんでしょう。恐ろしいことです。
でも、幸いなことに羊羹もバウムクーヘンもうちにはないし、そんなおしゃれなものを買う余裕もありません。危なかった。オッサンには旺盛な食欲は罪なのです。なるべく遠ざけるしか道はありません。
「この暗愚(カンカラコボシ)め、誰がただで返してくれるものか。その代わりには、以後決してわるさはしないと申せ」
「はいはい」とカンカラコボシはやっと涙をすすり上げてもみ手をしようとして片腕のなかったことに気づいたまま、片手をだらりとぶらさげたままのわるい様子で、おろおろ声に妙なふしをつけ——
「ご先祖さま代々、孫ン子の代まで孫子末代(まごとまつだい)、カンカラコボシ一同は忘れても治郎左衛門さまの血の方の尻は引きません」
「きっとか」
「きっとでござります」とカンカラコボシは今になって飛び石の上にしゃがんだのは行儀のためではなく、気がゆるんで脚がだるくなったためであったろう。
「その心がけならよい。だが口先だけでは駄目じゃ証文を入れろ」
「いえ治郎左衛門さま。カンカラコボシは人間とは違って口約束だけで絶対に間違いはござりませぬ。きっとと申せばきっとでござります」
「何を」と治郎左衛門さまは人間の不信がカンカラコボシにう侮辱(ぶじょく)されたのを心外に思って、
「腕はやるまいぞ。証文を書かぬと申すならば」
「カンカラコボシはまだ証文というものを知りません」
「知らなければ教えもしよう」
「はいはい。それでは証文も入れましょう」
こういう始末で治郎左衛門さまは証文と引き換えにカンカラコボシの片腕を返してやった。そうしてカンカラコボシの書いた証文というのがその片腕の見取り図とともにこの間まで久しく村の役場に保存されていた。治郎左衛門さまは絵心もあったと見えてその片腕の図は青い彩色で立派に描かれてあったのを見た人も多い。カンカラコボシの字の方は誰にも読めなかったが天狗の文字に似ていたというが、今はそれももう無い。
片腕しかないのにもみ手をするというギャグがあり、民俗学的にマジメに語っているところもあって、おもしろいエピソードです。でも、何だか一方的にいじめられているみたいで、何だかかわいそうです。
そして、カッパは人間とちがってウソはつかないなんて、おもしろいと思います。人間ほどウソをつく生き物は他にいないと思います。ああ、人間とは罪な生物ですね。いやになってしまう。でも、その人間を私はやっていかなくてはならないし、人間だからこそ、私みたいな生き物でも生きていけます。野生の世界ではすぐに生存競争で負けてしまいそうです。ですから、せいぜい人間としてありがたいと思って、生きていきたいです。
最後に、大好きな小川芋銭(おがわ うせん)さんの絵でも貼り付けておきましょう!