甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

賢治さんの「オホーツク挽歌」 その2

2015年12月31日 05時50分34秒 | 賢治さんを探して
 前回まで、私(賢治さん)は、樺太の空気の中で、エネルギーを回復しなければならない、と書いておられました。亡くなった妹さんと話をしている雰囲気はなくて、とうとう来るべきところへ来てしまったという感じで、ジタバタせず、おだやかな気持ちで、草花や海岸や、何だか違う雰囲気の町で、意識的にゆったりすごそうとされているのかな、と思って読みました。

 つづきはあと少ししかありませんので、最後まで読ませてもらうことにします。なかなかちゃんと読めていませんが、とにかく、全体の空気を吸うように読んでみましょうか。


わびしい草穂やひかりのもや
緑青(ろくせう)は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造(るいたいこうぞう)のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ




わたくしが樺太(からふと)のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡(ねむ)つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない
とゞ松やえぞ松の荒(すさ)さんだ幹や枝が
ごちやごちや漂ひ置かれたその向ふで
波はなんべんも巻いてゐる
その巻くために砂が湧き
潮水はさびしく濁つてゐる
 (十一時十五分 その蒼じろく光る盤面(ダイアル))




 旅先で、そこの風景の中を進みながら、「自分は今ここで何をしているんだ。どうしてここにいて、何を考えているんだ。何がしたいんだ」と自問自答したくなり、目の前の風景が飛んでしまって、自分のカラの中で考え込みながら歩いている時、そういうのがあるのかもしれない。

 ふと時計を見た。11時15分、そういうのは記号に過ぎないけれど、その記号こそが、現実とのツナガリにおいては大事で、「だったら腹はまだ減らない。でも、ヒルメシ何を食おう」とか、「昨日の今ごろは、まだ稚内めざしていたよなあ」とか思えたら、また旅の続きができるのです。それがなきゃ、海でおぼれたり、山の中で遭難したり、交通事故にあったり、とんでもないことが起きてしまう。


鳥は雲のこつちを上下する
ここから今朝舟が滑つて行つたのだ
砂に刻まれたその船底の痕(あと)と
巨きな横の台木のくぼみ
それはひとつの曲つた十字架だ
幾本かの小さな木片で
HELL と書きそれを LOVE となほし
ひとつの十字架をたてることは
よくたれでもがやる技術なので
とし子がそれをならべたとき
わたくしはつめたくわらつた
  (貝がひときれ砂にうづもれ
   白いそのふちばかり出てゐる)


 これは現実と空想の入り交じった世界ですね。そして、異界と現実とがゆるくつながっている。いろんな記号がちりばめられ、過去と現実と空想が一体になっています。

 でも、波は静かに押し寄せて、貝殻は行ったり来たりしながら、埋もれている。だから、すぐに現実にもどるチャンスはあるんです。貝殻を拾えば、樺太の海辺にいる自分にもどれるのです。

 それをあえて拾わないのか、拾うのか、さあ、どうなるんでしょう。



やうやく乾いたばかりのこまかな砂が
この十字架の刻みのなかをながれ
いまはもうどんどん流れてゐる
海がこんなに青いのに
わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
悼(いた)んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ
 (Casual observer !  Superficial traveler !)

空があんまり光ればかへつてがらんと暗くみえ
いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる
あんなにかなしく啼きだした
なにかしらせをもつてきたのか
わたくしの片つ方のあたまは痛く
遠くなつた栄浜の屋根はひらめき
鳥はただ一羽硝子笛(ガラスぶえ)を吹いて
玉髄(ぎょくずい)の雲に漂つていく

町やはとばのきららかさ
その背のなだらかな丘陵の鴾(ひわ)いろは
いちめんのやなぎらんの花だ
爽やかな苹果青(りんごせい)の草地と
黒緑とどまつの列
 (ナモサダルマプフンダリカサスートラ)
五匹のちいさないそしぎが
海の巻いてくるときは
よちよちとはせて遁げ
 (ナモサダルマプフンダリカサスートラ)
浪がたひらにひくときは
砂の鏡のうへを
よちよちとはせてでる
                        (1923、8、4)




 今日は大晦日です。賢治さんの挽歌を読んでいて、最後の方は、「あれ、何となく穏やかな気分かもしれない」と無理矢理まとめようとしてなのか、私の中で思ってしまいましたが、本当はどうなんでしょう。

 いろんなところに妹さんの姿・心が感じられるようにはなっているんじゃないですか。樺太の賢治さんがたどりついたところは、やはり今までの環境とはちがっていて、何だかポカーンと空っぽな感じです。

 カラス、雲、光、波、トリ、山の色、みんながポツンと賢治さんの眼に映り、賢治さんは、妹さんがそこにいるような気持ちになってきた。わけのわからん祈りの言葉は、慰められている証拠じゃないかな。

 慰められてはいるけれど、満足はしていない。何もできなかった自分たちだけど、しのぶことはできるので、とにかく祈り、しのびしている。お祈りのことばも自然に出てしまう。

 ああ、いくら祈っても帰っては来ません。でも、自分の心の中に刻み込むことはできる。とても澄んだ空気の中で、現実世界から切り離されてしのぶことはできた。

 さあ、賢治さん、次は樺太のどこへ行きますか。もっと奥地まで行くんでしょうか。それは来年、追いかけてみることにします。




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