三重県(自宅)から一番近い湖東三山ということで、百済寺(ひゃくさいじ)に、初めて行きました。
地図で見ていたら、もう少し平地にあるのだと思っていました。ところが、かなり高いところにお寺はあって、こんなに登っていくんだと感心していました。
駐車場はまだ早いからそんなに混んでいなくて、どうにか止められました。でも、観光バスは3台ほど来ていた。お客さんたちのことばからすると名古屋の人たちのようでした。バスのナンバーを見ればいいわけですが、お店を回る余裕もなくて、お金もなくて、駐車場が無料だったのでホッとして、バスは売店の前にあったから、遠回りして避けていたんでした。
財布にはあと三千円しかなかった。ここで拝観料の600円をおさめて、あと二千円と少ししかありません。お金をおろす予定で飛び出て来たれど、私の通帳は滋賀県の金融機関ではお金がおろせなかったのです。ああ、もっと全国ネットの銀行にお金を貯めなくちゃ!
せっかく飛び出てきたけれど、みみっちく旅しなくてはならなくて、何とも言えないプレッシャーがあります。お昼ゴハンは、奥さんが忙しいのにいなり寿司とオニギリを作ってくれて、これでなんとか済ませることになりました。
入り口はこんな感じで、紅葉の中をくぐっていく形です。よく写真でも撮られる構図の所です。もうすごい紅葉の演出なんです! けれど、工事中というのか、石畳が整備されていないということで、通行不可となっていて、柵の手前から写真を撮りました。紅葉の下の方だから、まだみどりです。
表紙の写真は、入ったところに飾ってあった木の断面を利用したタヌキ像でした。今改めて見てみると、わりとリアルなというか、人間っぽいタヌキで、人間くさくて、どっちつかずです。タヌキっぽいものを求めると、イヌなんだか、イノシシなんだかになってしまいます。デフォルメすると、信楽タヌキになってしまうし、なかなかむずかしい。これはどちらかというと人間シフトのタヌキのようです。
お堂が2つ並んでいて、この裏側に庭園が広がっていました。
細いお堂の裏側の道を進むと、池と紅葉が広がっていました。
鯉たちはキレイな水の中で、元気に泳いでいます。ふてぶてしいヤツはあまりいなくて、みんな小柄で敏捷性のある、みんな川魚のような自然性を持っています。この池に入れられたのではなくて、川を泳いでいろウチにお寺の池に入り込んだような(実際はどこかから持ってきたコイたちだと思われますが)、ワイルドなコイがいます。
そこから少し登っていくと、もう紅葉の洪水です。
もうなかなかキレイでした。1人で見ているのが申し訳ないくらい。入り口のところで竹の杖を借りてきたので、どうにか登れます。でも、なかなか先は見えません。
聖徳太子さまがお植えになったハナノキがあるといいます。まさか、事実じゃなくて、伝説だと思いますが、斜面にハナノキは咲いていました。
葉の形が、チューリップをぺっしゃんこにしたみたいで、なかなかかわいらしい。
本堂はかなり上の方にあります。すでにある程度高いところにいるのに、ずんずん登っていきます。
途中に石垣がのこっていて、これはお城として利用していた時代の名残だということでした。山内には三百とも一千ともいわれる僧坊があって、一大都市空間となっていた。天空の城に何万もの人々が住んでいたのです。まるで比叡山の小型版ですし、天台宗だし、比叡山そのものだったのです。
そして、信長さんにタテを突いてしまう。そして、比叡山同様に焼き討ちに遭い、何日も燃え続けたということでした。すべては灰燼(かいじん)に帰し、お寺としての記憶はすべて消し去られた。けれども、400年の歳月を掛けてお寺は再生して、今に至っています。
一番上の本堂の横に菩提樹があって、これは信長の時代にもあった木だそうです。
すべて燃えつくされたときに、菩提樹も焼失した。けれども地中の根っこは生きていて、空洞になった部分を囲むようにして今に至っているそうで、細っこくはなっていますが、樹齢400年にはなるわけです。
木のシルエットを撮ろうと、白黒モードにしました。まんなかにぽっかりと空白部分があって、それが焼き討ちで燃えた部分。中はのぞけないけれど、周りの木々が400年の歳月を教えてくれています。
お堂の向こうが太郎坊宮という、去年の12月に行ったところです。カルデラの一部で、滋賀県に昔存在していた火山のあとです。そのカルデラ部分が、額田王と大海人皇子の標野(しめの)でした。このあたり、古代史の大事なポイントなんです。今はクルマでスルーっと走るだけになっていますが、もっと馬や歩きで感じられたらいいのだけれど、なかなかむずかしいので、せいぜいイメージしてみましょう。
近江の秋の1日が始まりました。次はどこへ行きますか?
地図で見ていたら、もう少し平地にあるのだと思っていました。ところが、かなり高いところにお寺はあって、こんなに登っていくんだと感心していました。
駐車場はまだ早いからそんなに混んでいなくて、どうにか止められました。でも、観光バスは3台ほど来ていた。お客さんたちのことばからすると名古屋の人たちのようでした。バスのナンバーを見ればいいわけですが、お店を回る余裕もなくて、お金もなくて、駐車場が無料だったのでホッとして、バスは売店の前にあったから、遠回りして避けていたんでした。
財布にはあと三千円しかなかった。ここで拝観料の600円をおさめて、あと二千円と少ししかありません。お金をおろす予定で飛び出て来たれど、私の通帳は滋賀県の金融機関ではお金がおろせなかったのです。ああ、もっと全国ネットの銀行にお金を貯めなくちゃ!
せっかく飛び出てきたけれど、みみっちく旅しなくてはならなくて、何とも言えないプレッシャーがあります。お昼ゴハンは、奥さんが忙しいのにいなり寿司とオニギリを作ってくれて、これでなんとか済ませることになりました。
入り口はこんな感じで、紅葉の中をくぐっていく形です。よく写真でも撮られる構図の所です。もうすごい紅葉の演出なんです! けれど、工事中というのか、石畳が整備されていないということで、通行不可となっていて、柵の手前から写真を撮りました。紅葉の下の方だから、まだみどりです。
表紙の写真は、入ったところに飾ってあった木の断面を利用したタヌキ像でした。今改めて見てみると、わりとリアルなというか、人間っぽいタヌキで、人間くさくて、どっちつかずです。タヌキっぽいものを求めると、イヌなんだか、イノシシなんだかになってしまいます。デフォルメすると、信楽タヌキになってしまうし、なかなかむずかしい。これはどちらかというと人間シフトのタヌキのようです。
お堂が2つ並んでいて、この裏側に庭園が広がっていました。
細いお堂の裏側の道を進むと、池と紅葉が広がっていました。
鯉たちはキレイな水の中で、元気に泳いでいます。ふてぶてしいヤツはあまりいなくて、みんな小柄で敏捷性のある、みんな川魚のような自然性を持っています。この池に入れられたのではなくて、川を泳いでいろウチにお寺の池に入り込んだような(実際はどこかから持ってきたコイたちだと思われますが)、ワイルドなコイがいます。
そこから少し登っていくと、もう紅葉の洪水です。
もうなかなかキレイでした。1人で見ているのが申し訳ないくらい。入り口のところで竹の杖を借りてきたので、どうにか登れます。でも、なかなか先は見えません。
聖徳太子さまがお植えになったハナノキがあるといいます。まさか、事実じゃなくて、伝説だと思いますが、斜面にハナノキは咲いていました。
葉の形が、チューリップをぺっしゃんこにしたみたいで、なかなかかわいらしい。
本堂はかなり上の方にあります。すでにある程度高いところにいるのに、ずんずん登っていきます。
途中に石垣がのこっていて、これはお城として利用していた時代の名残だということでした。山内には三百とも一千ともいわれる僧坊があって、一大都市空間となっていた。天空の城に何万もの人々が住んでいたのです。まるで比叡山の小型版ですし、天台宗だし、比叡山そのものだったのです。
そして、信長さんにタテを突いてしまう。そして、比叡山同様に焼き討ちに遭い、何日も燃え続けたということでした。すべては灰燼(かいじん)に帰し、お寺としての記憶はすべて消し去られた。けれども、400年の歳月を掛けてお寺は再生して、今に至っています。
一番上の本堂の横に菩提樹があって、これは信長の時代にもあった木だそうです。
すべて燃えつくされたときに、菩提樹も焼失した。けれども地中の根っこは生きていて、空洞になった部分を囲むようにして今に至っているそうで、細っこくはなっていますが、樹齢400年にはなるわけです。
木のシルエットを撮ろうと、白黒モードにしました。まんなかにぽっかりと空白部分があって、それが焼き討ちで燃えた部分。中はのぞけないけれど、周りの木々が400年の歳月を教えてくれています。
お堂の向こうが太郎坊宮という、去年の12月に行ったところです。カルデラの一部で、滋賀県に昔存在していた火山のあとです。そのカルデラ部分が、額田王と大海人皇子の標野(しめの)でした。このあたり、古代史の大事なポイントなんです。今はクルマでスルーっと走るだけになっていますが、もっと馬や歩きで感じられたらいいのだけれど、なかなかむずかしいので、せいぜいイメージしてみましょう。
近江の秋の1日が始まりました。次はどこへ行きますか?