
何度か、昔住んでた町にでかけるようになりました。どうしてこんなことになったのでしょう?
たぶん高速効果ですね。今まで、三重県の南へ行くには、尾鷲に入る前と、熊野市に入る前の2つの大きな峠がありました。この2つを上り下りしないと、そちらには行けませんでした。時間的にはそれぞれ1時間くらいなのですが、2つで2時間、その他で1時間だから、3時間以上かけて行かなくてはならなかったです。それが、おおよそ2時間足らずで行けるようになりました。
ただの1時間の短縮だけど、精神的にはかなり負担が楽になりました。3時間の中身の濃い運転でしたからね。それが直線でホイホイ行けるんだから、かなり違うような気がします。私はすでにオッチャンなので、18キップでも行ってしまいますし、何度か訪ねるようになりました。
そうするうちに、行けば行くほど、自分たちの不在感が増していくのです。あんなに慣れ親しんだ町なのに、自分たちはここに住んでいない。思い出の街角はわりとたくさん見つかるのに、それらは何だか古ぼけていて、心にしみるものではなくなっている。
どうしてこんなに風景と交流ができなくなってしまったんでしょう。あんなに思い入れがあった土地なのに、まるで自分とのつながりがないみたいです。

それでふと思いました。実家に帰ってもそうでした。大学時代の町へ行ってもそうでした。奥さんの実家の町に出かけてもそうです。私がそこにいたとしても、実態はなくて、まるで影だけです。
クルマで来たものの、写真を撮ってみても、お墓参りをしても、商店街を歩いても、奥さんがそばにいても、もうそこは私たちの町ではなくなっている。そこはだれかの住んでいる町ではあるけれど、もう私との交感は得られないのです。
なぜ疎外された気持ちになるのか、どうして昔のような気分になれないのか? それは簡単なことで、昔自分がいたときの人々に会えないからです。

昔一緒に過ごした人たちに出会えたなら、いっぺんに昔の気分はよみがえるでしょう。でも、その一瞬は昔の自分ではあるけれど、しばらくしたら、現在の自分が出てきて、とりあえずそこにはいない私は、しばらくしたらまたここを去らねばならなくなってしまいます。いつまでもそこにはいられないのです。そして、ふたたび不在感はよみがえってくるはずです。

わかりきったことを述べていますね。昔の自分は昔の自分、今の自分は今の自分、同じようでいてどこかが違うわけで、少なくとも時間は経過してくたびれているわけで、昔はもう少し元気だったけれど、今は、もうそのころの自分みたいにはなれないのです。かなりヨレヨレになっている。
そんなの、当たり前ですね。
だから、せいぜい過去の自分を知る人々と、昔のことを語り、今のことも語り、時間の経過をかみしめ、未来に向かっていく自分たちのことをイメージしなくてはならない。
そんなことが煩わしかったら、何もかも投げ捨てて、船でどこかへこぎ出さねばいけません。残念ながら私は船のオーナーではないから、せいぜい電車かクルマで、知らない町へ出かけたいと思います。
そこには私を知ってくれている人なんていないから、口1つ腕1つ、目1つ体1つでいろんな人に向き合って、新たな関係を作れるわけです。
それは理想で、たいていはブスッとしていると思うんですけど、とりあえずオッチャンはがんばります。

明日、どこかへ行こうと思います。奥さんは?
彼女は忙しいみたいだから、1人で行きます。できたら、クルマでお泊まりしたいんだけど、今回はやめておきます。早く冬になって、18キップのシーズンにならないかなあ。そうしたら、電車で遠くに行くんですけどね。クルマだと昼寝できないからダメだなあ。
いや、道の駅で昼寝すればいいのかなあ。少しムズカシイですけどね……。
そうなんです。電車だと本が読めます。家だと、本も読まないでネットばかりしている。いかんなあ。
たぶん高速効果ですね。今まで、三重県の南へ行くには、尾鷲に入る前と、熊野市に入る前の2つの大きな峠がありました。この2つを上り下りしないと、そちらには行けませんでした。時間的にはそれぞれ1時間くらいなのですが、2つで2時間、その他で1時間だから、3時間以上かけて行かなくてはならなかったです。それが、おおよそ2時間足らずで行けるようになりました。
ただの1時間の短縮だけど、精神的にはかなり負担が楽になりました。3時間の中身の濃い運転でしたからね。それが直線でホイホイ行けるんだから、かなり違うような気がします。私はすでにオッチャンなので、18キップでも行ってしまいますし、何度か訪ねるようになりました。
そうするうちに、行けば行くほど、自分たちの不在感が増していくのです。あんなに慣れ親しんだ町なのに、自分たちはここに住んでいない。思い出の街角はわりとたくさん見つかるのに、それらは何だか古ぼけていて、心にしみるものではなくなっている。
どうしてこんなに風景と交流ができなくなってしまったんでしょう。あんなに思い入れがあった土地なのに、まるで自分とのつながりがないみたいです。

それでふと思いました。実家に帰ってもそうでした。大学時代の町へ行ってもそうでした。奥さんの実家の町に出かけてもそうです。私がそこにいたとしても、実態はなくて、まるで影だけです。
クルマで来たものの、写真を撮ってみても、お墓参りをしても、商店街を歩いても、奥さんがそばにいても、もうそこは私たちの町ではなくなっている。そこはだれかの住んでいる町ではあるけれど、もう私との交感は得られないのです。
なぜ疎外された気持ちになるのか、どうして昔のような気分になれないのか? それは簡単なことで、昔自分がいたときの人々に会えないからです。

昔一緒に過ごした人たちに出会えたなら、いっぺんに昔の気分はよみがえるでしょう。でも、その一瞬は昔の自分ではあるけれど、しばらくしたら、現在の自分が出てきて、とりあえずそこにはいない私は、しばらくしたらまたここを去らねばならなくなってしまいます。いつまでもそこにはいられないのです。そして、ふたたび不在感はよみがえってくるはずです。

わかりきったことを述べていますね。昔の自分は昔の自分、今の自分は今の自分、同じようでいてどこかが違うわけで、少なくとも時間は経過してくたびれているわけで、昔はもう少し元気だったけれど、今は、もうそのころの自分みたいにはなれないのです。かなりヨレヨレになっている。
そんなの、当たり前ですね。
だから、せいぜい過去の自分を知る人々と、昔のことを語り、今のことも語り、時間の経過をかみしめ、未来に向かっていく自分たちのことをイメージしなくてはならない。
そんなことが煩わしかったら、何もかも投げ捨てて、船でどこかへこぎ出さねばいけません。残念ながら私は船のオーナーではないから、せいぜい電車かクルマで、知らない町へ出かけたいと思います。
そこには私を知ってくれている人なんていないから、口1つ腕1つ、目1つ体1つでいろんな人に向き合って、新たな関係を作れるわけです。
それは理想で、たいていはブスッとしていると思うんですけど、とりあえずオッチャンはがんばります。

明日、どこかへ行こうと思います。奥さんは?
彼女は忙しいみたいだから、1人で行きます。できたら、クルマでお泊まりしたいんだけど、今回はやめておきます。早く冬になって、18キップのシーズンにならないかなあ。そうしたら、電車で遠くに行くんですけどね。クルマだと昼寝できないからダメだなあ。
いや、道の駅で昼寝すればいいのかなあ。少しムズカシイですけどね……。
そうなんです。電車だと本が読めます。家だと、本も読まないでネットばかりしている。いかんなあ。