
母の知り合いの方から、河出書房の「世界文学全集」に入ってたパール・バックさんの『大地』というのを読ませてもらったことがありました。長い時間かかって読んで、今もうちにその本はあります。50年くらいうちにあるのかなあ。
中学二年くらいのころ、少しだけ文学に燃えていて、長大なものでも読めそうな気がしていました。中一から司馬遼太郎さんには凝ってたんです。文藝春秋から出ていた全集を奮発して月に一冊くらい、自分の小遣いで買っていました。これが当時の私のぜいたくだったんです。
その中の『国盗り物語』の上巻で斎藤道三が殺されてしまった時には、よくわからないけど泣けてきたのは確かでした。私が本を読んで泣けた最初の体験だったかもしれない。
でも、『大地』は簡単には読めなかったし、かなり時間がかかったと思います。なのに懲りもせず、『戦争と平和』に手を出したり、ミハイル・アレクサンドロビチ・ショーロホフさんの『静かなドン』(全3巻)も買い込んだり、いろんな文学世界を知ろうとしたものでした。起爆剤だったんですね。
時間はかかるけれど、とにかく読み通すこと、それをやってたようです。それで、結局は何にもならなかったけれど、文学好きにはなったのかな。
『大地』は、ワン・ルンだったか、主人公の成長と、その家族と中国近代史が語られていて、広大な大陸の中を軍部なのか、風なのか、人々なのか、駈けめぐっているのを感じられた。そういう壮大なストーリーが、若いころにはスンナリ受け入れられたみたいでした。
私の、中国のイメージの原体験は、アメリカの宣教師のP・バック女史の作品によって開かれました!
そこから、魯迅さんやら、水滸伝やら、三国志演義やら、西遊記やら、多方面に伸びていきました。追いかけるのは楽しかった。高校時代を通してずっと自分なりには追いかけていたでしょう。通学で平凡社の『西遊記』抱えてバスに乗ってたんですなあ。いやぁ、いじらしいもんでした。
だから、高校の漢文の授業で、『十八史略』の「鼓腹撃壌」のエピソードを学習した時は、「なんだ、このトボけた話は!」「農夫が踊ってるだけの話で、ちっとも壮大ではないじゃないの!」と、全く興味が持てなかったのです。いや、むしろ、「どうしてこんなつまらないことを学校でやらせるの!」と怒ってたかもしれない。興味のカケラもなかった!
それから、何十年も過ぎて、オッチャンになってみたら、このエピソード、とてもいいなあと思えるようになりました。どうしたんだろう?
王様がこっそり町中に出て、人々の様子を見るだけの話です。まるで「暴れん坊将軍」か、「水戸黄門」の世界です。そんなのちっとも面白くないとずっと思ってたのに、どうして気になるんだろう。
町中に出たら、農夫がお腹叩いて踊ってた。それを見て王様は満足した、という内容が鼓腹撃壌です。全くつまらなかった。
それなのに、いつの間にか、ボクはそういうのに憧れるオッサンになっていました。
夕方になったらお酒飲んで酔っ払い、眠くなったら寝て、家族にうるさがられ、誰からも注目されず、本人も特に何が言いたいわけでもなくて、昼間の農作業はしっかり働いて、ガーガー寝たら、朝にガバッと起きて、ゴハン食べたらお仕事に行く。
実は私は日々「鼓腹撃壌」でした。「帝力何ぞ我にあらんや」と言い、自由に生きている気分になっている。農作業はまだしていないけど、できたら、自分が作った食べ物で生活していきたいと思っている。
政治は、ダメな人たちがいる時もあるし、人々のために一生懸命な人がやってる時もあるのでしょう。とにかく、人々があるがままに生きられて、その命を無理矢理奪いに来ない政治であってほしい。
最低限の政治があって、その中で、ある程度の仕事と休息をもらえて、ひまになったら歌い出すような、そんな生き方がしてみたい、そう思うようになっていました。
半分実現して、半分はまだなのかもしれない。そして、若い人は何が何だかわからない、オッチャンたちの寝言みたいな世界の話です。なのに、オッチャンの私は熱望している。それは若者は全く理解できない。オッチャンの私は、それでいいのだと思って、特に何も言わない。言っても分からないだろうし、と半分諦めている。
でも、いつかは分かってもらえるんじゃないか! と思う世界なのです。
「鼓腹撃壌」、分かってもらえるかなあ。分からないかなあ。
