先週の日曜から、妻に何も相談せず、というか、妻があれこれ知っているなんて、全く知らなかったのです。
どうして草花のことを奥さんにも訊かないんだろう。家族に話すよりも、ブログに向かってることが多いからかもしれません。そんなに向かっているのに、たいしたことは書けないし、同じことばかり書いてたりする。
うちの奥さんは、お花の権威であり、彼女はオダマキの花は、父がタネをどこかの公園から持ってきたのを実家で育てていた、というのを知ってたそうです。「おじいちゃんが植えてたの、知らなかったの!」「うん、全く知らんかったし、意識もしてなかった。たぶん、これからもわからんと思う。とにかく耳で聞いて、その語感だけが響いているだけなんだもん。花そのものは、まるでイメージできないし、テレビで見たり、ネットで検索しても、わかんないんです。」
朔太郎さんのお嬢さんの葉子さんがこんなのを書いてました。
父は、毎年夏に上州の温泉に行くのが習慣だったが、その年は、春先に一人で出掛けて行った。その季節に行くのは初めてのことだった。
「お湯がぬるくて、風邪を引いた」と、すぐに帰って来て、そのまま寝込んでしまった。
父は筆まめで、寝ながらも手紙やハガキを書いて、「葉子、ポストへ入れてくれ」と、よく頼まれた。最後になったのは、
「お湯がぬるくて、風邪を引いた」と、すぐに帰って来て、そのまま寝込んでしまった。
父は筆まめで、寝ながらも手紙やハガキを書いて、「葉子、ポストへ入れてくれ」と、よく頼まれた。最後になったのは、
「病ひ癒えぬ枕辺に七日咲きしをだまきの花」
と書いたハガキだった。
何度か、お嬢さんは、お父さんから「オダマキ」を聞かされていました。それくらい教えてもらったら、ちゃんとインプットできたのかな。ボクは父から教わらなかった、というか、父を園芸の師匠にできなかった。ちゃんと教えを請わなかったし、一緒に作業することもなかったです。弟の方が、父とあれこれ作業したでしょう。上のお兄ちゃんなのに、ボクはなんて、アカンタレでした。それは今も同じか……。何かションボリしてしまいます。
この年の夏から父は体調を崩し、秋には家にこもることが多くなった。年が明けても恢復せず、寝ついてしまった。日に日に病状は悪化し、五月に入ると急激に衰弱した。気力も体力も尽き果て、二階の寝室から階下のお座敷へ寝床を移して一週間目の夜、
「おだまきの花を枕元へ植えてくれ」と、祖母に言った。
枕元に近い狭い中庭には、花の木は無かった。茶の間の前の藤棚には藤の花が一杯に咲き、蜂がぶんぶんと飛んでいた。
枕元に近い狭い中庭には、花の木は無かった。茶の間の前の藤棚には藤の花が一杯に咲き、蜂がぶんぶんと飛んでいた。
「藤が咲いているよ」と、祖母が言った。父の好みでつくった藤棚だった。
父は、頭を左右に振って、
父は、頭を左右に振って、
「おだまきの花が見たい」と、小さな声で言った。
「そのうち買って来るよ」と、祖母が言うと、
「いますぐ、枕元へ植えてくれ」と言った。
明日、捜して父に見せようと私が考えているうちに、父の意識が混濁して来た。
その夜遅く、父は息を引き取った。枕元には、祖母と私と妹の三人が座っていた。朝になるまで、三人はそのまま座っていた。
その夜遅く、父は息を引き取った。枕元には、祖母と私と妹の三人が座っていた。朝になるまで、三人はそのまま座っていた。
昭和十七年五月十一日未明。父は五十五歳、私は二十一歳だった。
朔太郎さんとオダマキは、娘の葉子さんの頭の中で渾然一体となり、花を見れば、お父さんのことを思い出すことができた。
そして、お父さんが亡くなったときのことをしっかりと文章に書いていた。
もうそろそろボクは、父のこと書けるんだろうか。いつか、書こうとは思ってたけど、さあ、書くぞと思ったら、ボク自身がカラッポになっていて、父のことを紡ぎ出せないのです。
そう、そんなに無理して出す必要はないんだ。何かきっかけがあったら、ゆっくりゆっくり書けばいい。でも、時間は限られてるし、ボクはニワトリと同じですから、気づいたらすぐ書かなきゃいけないんですけど、今はまだカラッポです。
朔太郎さんと同じように、オダマキの花、うちの父も好きだったなんて、妻に指摘されないとずっと知らないままだったでしょう。ああ、何んたること!