★ 8回にわたって続けてきた、佐藤春夫の「山妖海異」もいよいよ最終回になりました。どうそ、よろしくお願いします。「さとり」の話ということで、ここへつながってきましたが、まずは「シバタバコ」が出てきます。
山林の下草を刈ろうと山へ入った男が切り株に腰を掛けてシバ煙草を一服していた。シバ煙草というのは熊野に特有の風習で、椿の若い葉の葉柄を軸にして刻み煙草を巻き込んだもので、吸いがらが外に散らないで燃えにくい椿の葉のなかにつつまれ残るために山火事を防ぐに足りるし、また椿の葉に特有の香気が煙草を味よくするといって熊野の山人たちはこれを愛用するのである。
切株に腰かけた男は煙草の煙の向こうに、ひよっくりと見慣れぬ奴(やつ)が現れ出たのを見つける。大人とも子供とも見分けのつかない妙な奴である。
「おや!」と思うと、
相手はきさま「おや!」と思ったなというので、いよいよへんな奴だと見ると、
「いよいよへんな奴だ」と思って見たな。
はて? どうしておれの思う事を片っ端から知るのであろうかと不安になると、思う事を一々知られるのが気になるなと問う。
「えい面倒くさい。こんな奴……」と思えば、
「えい面倒くさい。こんな奴……」
と思ったな。
「……ひと思いに殺してくれようか」
「……ひと思いに殺してくれようか」
と言うのかい。と相手はさあ来いと言わぬばかりのすばやい身構えである。
こちらはますます不気味になって来て、心中に大神宮さまを念じ入っていると、別に相手を殺そうという意志もないのに手にしていた利鎌(とがま)がひとりでに手をすり抜け、相手の頭上に風を切って一飛びぐるっと薙(な)ぐように舞った瞬間、地上に吸い込まれたかのように、へんな奴の姿は一時に縮まってかき消え、あとには秋の天高くさんさんたる日の光のなかに歯朶(シダ)の葉が一本首をふるようにそよ風にゆらめいているだけであった。
★ さあ、変なやつが現れました。たぶん山の精だろうから、悪さはしないと思うのですが、どうなるでしょう。こちらの心が読めるやつです。忍者カムイの世界に出てくるような異能の存在です。つづきを読んでみましょう。
山中にいるというこんな奴を、こちらの思うことを何でも見抜きさとるというので「さとり」と名づけている。「さとり」は熊野山中ばかりではなく遠く飛騨あたりの山地にもいて同じ名で呼ばれているというが、飛騨ではたき火のはぜたとたんにさとりが消え失せたと言われていると聞く。熊野は山中でもそう寒くはないからたき火ではなく煙草一服だが、同じような少し落ち着いた場合に出るのも偶然ではあるまい。「さとり」は山中の妖魔ではなくやはり心中の妖魔らしい、あるいは山の霊でもあろうか。
★ やっぱり、わるさをするのではなかったですね。山の息づかいの中で、おしゃべりする何かが見えた。それは山に入った人の心が見せる物だという。
思うに人魚は海の精で漁者の海上の不安と味気(あじき)なさとの象徴であり、「さとり」は山中の樵者の恐怖とさびしさとでもあろうか。いや、海上や山中ではなくとも、人間にはこの味気なさとさびしさ、不安恐怖は近代都市のただなかにあってもつきまとっているかのように思われる。
★ というオチでお話は終わります。私が一番印象的だったのは、海に浮かぶ女のなきがらで、見つけたときは忙しいので、漁が済んだらちゃんと弔ってあげるねと約束すると、穏やかな表情になり、帰りに漁師さんたちがわざと避けて通ったら、先回りして早く弔ってくれといわんばかりであったという話です。
こういう話は、それはもう何百何千とあったのではないかと想像します。何もないように見えて、海の上にはいろいろなドラマがあって、一般の人たちには伝わらないけれども、漁師さんたちの世界では代々伝わる話があるのだと想像できました。
何となく村上春樹さんの世界の人たちのようです。みんなで集まって、それぞれ持ち寄った話をして夜更かししていくなんて、すばらしい世界です。私も、いつかそういう世界にデビューしたいと思いつつ、いざデビューしたら、何にも持ちネタがなくて、つまらない芸をしたり、お酒をガブ飲みしたり、へたくそな歌をうたったり、そんなことしかできないような気がします。
ですから、これから談話力というのを高めていきたいですけど、なかなか難しいです。持ちネタを開発しても、オチを忘れたり、次の展開が見えなくなったりするのだと思われます。ああ、でも、文字化しないお話情報を頭の中に入れていきたいですね。どうしたらいいのかなあ。訓練ですかね。
山林の下草を刈ろうと山へ入った男が切り株に腰を掛けてシバ煙草を一服していた。シバ煙草というのは熊野に特有の風習で、椿の若い葉の葉柄を軸にして刻み煙草を巻き込んだもので、吸いがらが外に散らないで燃えにくい椿の葉のなかにつつまれ残るために山火事を防ぐに足りるし、また椿の葉に特有の香気が煙草を味よくするといって熊野の山人たちはこれを愛用するのである。
切株に腰かけた男は煙草の煙の向こうに、ひよっくりと見慣れぬ奴(やつ)が現れ出たのを見つける。大人とも子供とも見分けのつかない妙な奴である。
「おや!」と思うと、
相手はきさま「おや!」と思ったなというので、いよいよへんな奴だと見ると、
「いよいよへんな奴だ」と思って見たな。
はて? どうしておれの思う事を片っ端から知るのであろうかと不安になると、思う事を一々知られるのが気になるなと問う。
「えい面倒くさい。こんな奴……」と思えば、
「えい面倒くさい。こんな奴……」
と思ったな。
「……ひと思いに殺してくれようか」
「……ひと思いに殺してくれようか」
と言うのかい。と相手はさあ来いと言わぬばかりのすばやい身構えである。
こちらはますます不気味になって来て、心中に大神宮さまを念じ入っていると、別に相手を殺そうという意志もないのに手にしていた利鎌(とがま)がひとりでに手をすり抜け、相手の頭上に風を切って一飛びぐるっと薙(な)ぐように舞った瞬間、地上に吸い込まれたかのように、へんな奴の姿は一時に縮まってかき消え、あとには秋の天高くさんさんたる日の光のなかに歯朶(シダ)の葉が一本首をふるようにそよ風にゆらめいているだけであった。
★ さあ、変なやつが現れました。たぶん山の精だろうから、悪さはしないと思うのですが、どうなるでしょう。こちらの心が読めるやつです。忍者カムイの世界に出てくるような異能の存在です。つづきを読んでみましょう。
山中にいるというこんな奴を、こちらの思うことを何でも見抜きさとるというので「さとり」と名づけている。「さとり」は熊野山中ばかりではなく遠く飛騨あたりの山地にもいて同じ名で呼ばれているというが、飛騨ではたき火のはぜたとたんにさとりが消え失せたと言われていると聞く。熊野は山中でもそう寒くはないからたき火ではなく煙草一服だが、同じような少し落ち着いた場合に出るのも偶然ではあるまい。「さとり」は山中の妖魔ではなくやはり心中の妖魔らしい、あるいは山の霊でもあろうか。
★ やっぱり、わるさをするのではなかったですね。山の息づかいの中で、おしゃべりする何かが見えた。それは山に入った人の心が見せる物だという。
思うに人魚は海の精で漁者の海上の不安と味気(あじき)なさとの象徴であり、「さとり」は山中の樵者の恐怖とさびしさとでもあろうか。いや、海上や山中ではなくとも、人間にはこの味気なさとさびしさ、不安恐怖は近代都市のただなかにあってもつきまとっているかのように思われる。
★ というオチでお話は終わります。私が一番印象的だったのは、海に浮かぶ女のなきがらで、見つけたときは忙しいので、漁が済んだらちゃんと弔ってあげるねと約束すると、穏やかな表情になり、帰りに漁師さんたちがわざと避けて通ったら、先回りして早く弔ってくれといわんばかりであったという話です。
こういう話は、それはもう何百何千とあったのではないかと想像します。何もないように見えて、海の上にはいろいろなドラマがあって、一般の人たちには伝わらないけれども、漁師さんたちの世界では代々伝わる話があるのだと想像できました。
何となく村上春樹さんの世界の人たちのようです。みんなで集まって、それぞれ持ち寄った話をして夜更かししていくなんて、すばらしい世界です。私も、いつかそういう世界にデビューしたいと思いつつ、いざデビューしたら、何にも持ちネタがなくて、つまらない芸をしたり、お酒をガブ飲みしたり、へたくそな歌をうたったり、そんなことしかできないような気がします。
ですから、これから談話力というのを高めていきたいですけど、なかなか難しいです。持ちネタを開発しても、オチを忘れたり、次の展開が見えなくなったりするのだと思われます。ああ、でも、文字化しないお話情報を頭の中に入れていきたいですね。どうしたらいいのかなあ。訓練ですかね。