いつものわがまま読みなので、まちがっているだろうし、ちっとも調べてないですけど、果敢にチャレンジしてみます。とにかく要は、賢治さんと一緒に樺太に行き、そこから帰ってこられればそれでいいんです。
稚内にいったことのない私が、えらそうなことは書けませんが、そんなふうに尻込みばかりしてても、とても銀河鉄道に乗れませんからね。銀河鉄道に乗るための私のステップなんです、たぶん。
津軽海峡 一九二三、八、一、
夏の稀薄(きはく)から却(かえ)って玉髄(ぎょくずい)の雲が凍(こご)える
亜鉛張りの浪は白光の水平線から続き
新らしく潮で洗ったチークの甲板の上を
みんなはぞろぞろ行ったり来たりする。
中学校の四年生のあのときの旅ならば
けむりは砒素鏡(けいそきょう)の影を波につくり
うしろへまっすぐに流れて行った。
今日はかもめが一疋(いっぴき)も見えない。
(天候のためでなければ食物のため、
じっさいベーリング海峡の氷は
今年はまだみんな融け切らず
寒流はぢきその辺まで来てゐるのだ。)
向ふの山が鼠(ねずみ)いろに大へん沈んで暗いのに
水はあんまりまっ白に湛(たた)え
小さな黒い漁船さへ動いてゐる。
(あんまり視野が明る過ぎる
その中の一つのブラウン氏運動だ。)
いままではおまへたち尖(とが)ったパナマ帽や
硬い麦稈(むぎわら)のぞろぞろデックを歩く仲間と
苹果(りんご)を食ったり遺伝のはなしをしたりしたが
いつまでもそんなお付き合ひはしてゐられない。
さあいま帆綱(ほづな)はぴんと張り
波は深い伯林青(ベルリンあお)に変り
岬の白い燈台(とうだい)には
うすれ日や微(かす)かな虹といっしょに
ほかの方処系統からの信号も下りてゐる。
どこで鳴る呼子(よぶこ)の声だ、
私はいま心象(しんしょう)の気圏(きけん)の底、
津軽海峡を渡って行く。
朝、青森について、連絡線に乗ったようです。ここから4時間あまりの船旅です。寝ようと思えば寝られるでしょう。いつまでも寝転んでいられる。最近のいじわるフェリーみたいに畳一畳分しかないような狭苦しさはありませんでした。なんだかあちらこちらに大きな部屋があり、大部屋で寝転がっている人たちがいたような気がします。
階段を下りたり上がったり、珍しいからうろちょろしたもんでした。最近のいじわるフェリーは、歩けるところはせいぜい2つのフロアーで、しかも船の半分くらいしか居住スペースがない感じです。あとは長距離トラックの人たち専用スペースだったり、とにかく区切られていて、みんなで共有する場所がありませんでした。でも連絡船は違っていたような気がします。
そして、瀬戸内海とちがって、青森湾を出て行けば津軽海峡は短いけれども外洋で、どーんと激しい流れが荒れ狂っているイメージです。穏やかな表情のときもあるのでしょうが、基本は恐ろしく激しい海、そして深い海です。
今回の賢治さんの旅も、夏なのに重さがありますね。そりゃ、妹さんの姿を探すための旅だし、気分はカラリと明るいものではありませんが、北の海は、真夏でも無表情だったり、白っぽかったりするようです。そして風によっては寒いときだってあったでしょう。
船はかすかに左右にゆれ
鉛筆の影はすみやかに動き
日光は音なく注いでゐる。
それらの三羽のうみがらす
そのなき声は波にまぎれ
そのはゞたきはひかりに消され
(燈台はもう空の網でめちゃめちゃだ。)
向ふに黒く尖(とが)った尾と
滑(なめ)らかに新らしいせなかの
波から弧をつくってあらはれるのは
水の中でものを考へるさかなだ
そんな錫(すず)いろの陰影の中
向ふの二等甲板に
浅黄服を着た船員は
たしかに少しわらってゐる
私の問を待ってゐるのだ。
シュールな風景です。この船員さんとどんなドラマが繰り広げられるのか、それは次回の楽しみとして、とにかく賢治さんは久しぶりに連絡船に乗ったのです。
夏とはいえ寒い。寒さのナツなのです。行く先はまだ遠い。なにしろこれから北海道を縦断して、札幌・旭川・稚内まで行かなければならない。近いイメージだけど、とても遠いのです。
何か見つかるのか……。とはいえ、青森挽歌のときのような悲愴な感じは少ないですね。これはやはり船の上だからでしょう。これからただ目的地に移動していくわけだけれど、船による何時間かは、わりと悲愴感は薄れて、少しだけ妹さんのことを置いておいて、とにかく海と空と移りゆく時間を、デッキにたたずんで見続けてみようとしている感じがありますね。
刻一刻と船は動いているし、気持ちも旅に向かっていくわけだけれど、自分そのものはお休みにして船の振動に身を任せている、あのどうにでもしれくれ感が出ているような気がします。
明日はどんな写真を貼り付けますかね。
稚内にいったことのない私が、えらそうなことは書けませんが、そんなふうに尻込みばかりしてても、とても銀河鉄道に乗れませんからね。銀河鉄道に乗るための私のステップなんです、たぶん。
津軽海峡 一九二三、八、一、
夏の稀薄(きはく)から却(かえ)って玉髄(ぎょくずい)の雲が凍(こご)える
亜鉛張りの浪は白光の水平線から続き
新らしく潮で洗ったチークの甲板の上を
みんなはぞろぞろ行ったり来たりする。
中学校の四年生のあのときの旅ならば
けむりは砒素鏡(けいそきょう)の影を波につくり
うしろへまっすぐに流れて行った。
今日はかもめが一疋(いっぴき)も見えない。
(天候のためでなければ食物のため、
じっさいベーリング海峡の氷は
今年はまだみんな融け切らず
寒流はぢきその辺まで来てゐるのだ。)
向ふの山が鼠(ねずみ)いろに大へん沈んで暗いのに
水はあんまりまっ白に湛(たた)え
小さな黒い漁船さへ動いてゐる。
(あんまり視野が明る過ぎる
その中の一つのブラウン氏運動だ。)
いままではおまへたち尖(とが)ったパナマ帽や
硬い麦稈(むぎわら)のぞろぞろデックを歩く仲間と
苹果(りんご)を食ったり遺伝のはなしをしたりしたが
いつまでもそんなお付き合ひはしてゐられない。
さあいま帆綱(ほづな)はぴんと張り
波は深い伯林青(ベルリンあお)に変り
岬の白い燈台(とうだい)には
うすれ日や微(かす)かな虹といっしょに
ほかの方処系統からの信号も下りてゐる。
どこで鳴る呼子(よぶこ)の声だ、
私はいま心象(しんしょう)の気圏(きけん)の底、
津軽海峡を渡って行く。
朝、青森について、連絡線に乗ったようです。ここから4時間あまりの船旅です。寝ようと思えば寝られるでしょう。いつまでも寝転んでいられる。最近のいじわるフェリーみたいに畳一畳分しかないような狭苦しさはありませんでした。なんだかあちらこちらに大きな部屋があり、大部屋で寝転がっている人たちがいたような気がします。
階段を下りたり上がったり、珍しいからうろちょろしたもんでした。最近のいじわるフェリーは、歩けるところはせいぜい2つのフロアーで、しかも船の半分くらいしか居住スペースがない感じです。あとは長距離トラックの人たち専用スペースだったり、とにかく区切られていて、みんなで共有する場所がありませんでした。でも連絡船は違っていたような気がします。
そして、瀬戸内海とちがって、青森湾を出て行けば津軽海峡は短いけれども外洋で、どーんと激しい流れが荒れ狂っているイメージです。穏やかな表情のときもあるのでしょうが、基本は恐ろしく激しい海、そして深い海です。
今回の賢治さんの旅も、夏なのに重さがありますね。そりゃ、妹さんの姿を探すための旅だし、気分はカラリと明るいものではありませんが、北の海は、真夏でも無表情だったり、白っぽかったりするようです。そして風によっては寒いときだってあったでしょう。
船はかすかに左右にゆれ
鉛筆の影はすみやかに動き
日光は音なく注いでゐる。
それらの三羽のうみがらす
そのなき声は波にまぎれ
そのはゞたきはひかりに消され
(燈台はもう空の網でめちゃめちゃだ。)
向ふに黒く尖(とが)った尾と
滑(なめ)らかに新らしいせなかの
波から弧をつくってあらはれるのは
水の中でものを考へるさかなだ
そんな錫(すず)いろの陰影の中
向ふの二等甲板に
浅黄服を着た船員は
たしかに少しわらってゐる
私の問を待ってゐるのだ。
シュールな風景です。この船員さんとどんなドラマが繰り広げられるのか、それは次回の楽しみとして、とにかく賢治さんは久しぶりに連絡船に乗ったのです。
夏とはいえ寒い。寒さのナツなのです。行く先はまだ遠い。なにしろこれから北海道を縦断して、札幌・旭川・稚内まで行かなければならない。近いイメージだけど、とても遠いのです。
何か見つかるのか……。とはいえ、青森挽歌のときのような悲愴な感じは少ないですね。これはやはり船の上だからでしょう。これからただ目的地に移動していくわけだけれど、船による何時間かは、わりと悲愴感は薄れて、少しだけ妹さんのことを置いておいて、とにかく海と空と移りゆく時間を、デッキにたたずんで見続けてみようとしている感じがありますね。
刻一刻と船は動いているし、気持ちも旅に向かっていくわけだけれど、自分そのものはお休みにして船の振動に身を任せている、あのどうにでもしれくれ感が出ているような気がします。
明日はどんな写真を貼り付けますかね。