関ヶ原の戦いへ
慶長5年(1600)、島津義弘さんはわずかな家臣を伴い、伏見の屋敷に上洛していた。当時はお殿様ではなくて、その親族という関係で、京都出張に来ていたようです。
その前年、五大老の上杉景勝さんが領地(会津若松)に戻ったまま上洛しませんでした。五奉行の石田三成が加藤清正ら七将に襲われ、領地の佐和山に蟄居(ちっきょ)させられるなど、世情は混乱していました。家康さんの東国征伐が決定され、義弘さんは国元に兵の増派を要請したものの、いい返事はありませんでした。ただの出張所の殿様の親族というだけで、何も力がありませんでした。微妙なバランスをとっていたんでしょうね。
6月18日、家康は上杉討伐軍を率い伏見を出発。その軍が下野の国小山に着く頃、石田三成は家康征伐の挙兵をはかる準備を進めていきます。
7月17日、三奉行の連署で家康への弾劾状を諸大名に発して、反乱軍を募集します。ここに参加したのが将来に不安のあった毛利・小早川・宇喜多らの西国の大名たちで、大坂に集合した西軍の数は9万人ほどに及びました。もう一触即発だけど、群馬と大阪では遠すぎますね。どこでぶつかるのか?(少し動きが遅いですね。もっとすぐに挙兵すればよかったのになあ)
京都の島津義弘さんは情勢を見ていた。手持ちの兵力もまるで持っていない。地元からの兵士はまるで来ない。
さて、家康の家臣・鳥居元忠さんが守る伏見城に入ることを求めたということですが、拒否をされます。自然な流れの中で石田三成さんの要請を受け入れ、西軍に加わることになったそうです。なんだかどっちつかずですな。国元も、結果が出たら、どっちかに加わることにして、とりあえず出張している親族を働かせることにした。ただし、兵力は与えない。義勇軍的な戦力しか与えない。
8月1日、伏見城が落城。清忠さんはここで戦死したんですね。いよいよあと戻りできなくなりました。
8月15日、義弘さんは伏見を出発し、大津より船で近江佐和山(彦根)に到着した。
8月17日、義弘さんは美濃の垂井に陣を移した。この時、義弘のもとには200人ほどの兵しか居なかったそうです。国元に兵の増強を要請したものの、国元からの大規模な派兵はありませんでした。
ただ、甥の島津忠久さん、家老の新納旅庵さんら義弘さんのもとへはせ参じました。でも、その兵力は1000人に満たなかった。
9月13日には、最終的にその兵力は1500人ほどになった。時に島津義弘66歳。島津家の命運を賭けて、老将はこの戦いに望んだ。
運命の関ヶ原はたったの1日で終わったといいますが、9月のいつだっかのか、15日?
そして、西軍は味方の裏切りにあい、総崩れとなる。そこで島津軍千五百は、敵陣を突破し、岐阜県から揖斐川沿いを走り、三重県に出て、そこから山を越え、三重県北部の山岳地帯へ入り、ここからふたたび山を越えて、滋賀県に出たということです。
この敵中突破の道・数十キロを「関ヶ原戦跡突破隊」と称して、今年は小中学生14人でたどったということです。なんと58回目。
本当にカゴシマの人は、ご先祖様やお殿様や、薩摩藩士たちの苦労したところとか、そういうのをしみじみ味わうのが好きらしくて、今年は8月4日から行われたそうです。
それを8月21日の夕刊で載せるなんて、新聞屋さんもネタがない時の保険の記事をいくつも持っているものなんですね。
敵陣を突破したというのは知ってましたが、それを顕彰・体験しようというのは、カゴシマ人でなくてはできないことです。
よその県の人なら、そういうこともあるものか、それで済んでしまうのに、わざわざカゴシマから愛知県・岐阜県・三重県・滋賀県と歩こうなんて、それを町を挙げてやっていくのがすごいところです。
帰国後、義弘んは家康さんに恭順(きょうじゅん)の意を示すため、桜島に蟄居[どうして桜島なんだろう。桜島って、家康さんは知ってたんだろうか。たぶん、知らないね]。その後、井伊直政さんや本多正信さんによる取り成しにより慶長7年(1602年)に赦免された。
春秋(しゅんじゅう)の 花も紅葉も 留まらず 人も空しき 関路なりけり
最晩年に関ヶ原の合戦を想い詠んだという島津義弘さんの辞世の句、だそうです。
ああ、何だか不思議です。