私の楠木正成観というのは、太平記のダイジェスト版と、吉川英治さんの「私本太平記」とNHKで一度だけ大河になったドラマと、それくらいでできています。
だいたいはぼんやりといい印象を持っています。でも、いったい何をした人なのか? と問われると、困ってしまいます。ゲリラ的な活動が上手な人で、正面切って戦うのはそれほど得意ではなかった。というのか、結局、本当の力を発揮できないまま、歴史の中に消えていった人だったはずでした。
それが江戸時代に見直され、明治になって大々的に掘り起こされ、あちらこちらで顕彰され、神社までできてしまいます。神戸の湊川神社は明治五年(1872)に創建されたそうです。
果たして正成さんとはどんな人物だったのか? そして、そこからどのように中国にジャンプできるか、今から1時間くらいで書けるかな……。
正成さんのご先祖様は、関東の方から来られた幕府の関係者だったそうです。それがたまたま河内の国の山がちなところに住み着いてしまいます。農業もしたかもしれないけど、地域の親分として政治的な役割をもって存在し続けてきた。
近所には水分神社があって、水を差配することが実力者の証拠で、正成さんのご先祖様が地域でしっかり根を張って生きていたということなんでしょう。
世の中は北条孝時憎し、鎌倉幕府を倒し、京都で新たな政治を行ってほしいという雰囲気が生まれていたそうで、それに乗っかろうとしたのが後醍醐天皇でした。
単独で暴走した後醍醐天皇さまは、敗走して奈良と京都のはざまの笠置山に逃げ込んだ。ここで大きな木の南側に何かがあるみたいな思わせぶりな夢を見られたそうです。木に南というのは「楠」ということで、それは河内の楠木正成だろうと、すぐにオファーがあって、正成さんは天皇に忠誠を誓うことになります。まさに青天の霹靂。ヘビににらまれたカエルで、逃げられなくなった。
元徳3年(1331年)9月、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇さんたちは捕えられ、残る正成さんは赤坂城にて幕府軍と戦うことになります。ここからゲリラ戦術を駆使して、出たりへっこんだり、逃げたり突撃したりして、ずっと幕府の軍を1年以上もくぎ付けにして、ここでの戦いのうわさが全国に広がり、足利高氏さん(後の尊氏)が六波羅探題を攻撃する。続いて新田義貞さんは鎌倉の本拠地を攻撃して、これで幕府は消滅するのでした。
すぐに後醍醐天皇の建武の新政が始まりますが、貴族的な政治を行おうとする天皇と、武士の分け前をよこせ、自分たちの意見を反映させろという勢力とは水と油で、すぐに政権は崩壊してしまいます。
後醍醐天皇が希望の星としていた護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、やがて命を奪われてしまいます。正成さんはなんともできないまま尊氏さんが進める武家政権に乗っかることはせず、ひたすら天皇を支えようとします。
建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に鎌倉に向かった尊氏さん、ここで新政に離反することにして、その追討の命を受けた新田義貞さんは箱根・竹ノ下の戦いで敗れて敗走。いよいよ尊氏さんは京都へ迫ります。
正成さんたちは迎え撃ちますが、そのままだったらやられてしまうはずが、東北の兵を連れてきた北畠顕家さんが近江坂本に到着、正成さん、義貞さんみんなが連携して、尊氏さんを敗走させます。そこで死なないのが運命で、九州まで追い落とされた尊氏さんはふたたびもどってくると、今度はさきほどの連合軍を打ち負かせ、かくして尊氏さんが天下を取ることになるわけでした。
歴史のおさらいをしました。その神戸の湊川の戦いで楠木正成さんは大活躍したことになっていますが、結局は敗北してしまうのでした。それが残念でならない。でも、私は尊氏さんびいきでもあり、どっちにも勝たせてあげたかったし、どちらも仲良く同じ屋根の下で世の中を支えてほしかったのですが、歴史は二人を戦わせ、正成さんを敗北させてしまう。
それで、勝手に、神戸の広いところでの戦いだから正成さんは敗れたのだと思ってしまうのです。神戸で戦わないで、ふたたび千早赤阪にこもって戦うということはできなかったのか。
たぶん、できなかったんですね。そんなゲリラではなくなっていたんでしょう。武将としての格も上がっているし、正々堂々戦わざるを得なかったのかもしれません。
それが残念です。どうして町中に出てきてしまったのかなあ。山で平和に地域の親分をやっているわけにはいかなかったんですね。悲しいなあ。
だいたいはぼんやりといい印象を持っています。でも、いったい何をした人なのか? と問われると、困ってしまいます。ゲリラ的な活動が上手な人で、正面切って戦うのはそれほど得意ではなかった。というのか、結局、本当の力を発揮できないまま、歴史の中に消えていった人だったはずでした。
それが江戸時代に見直され、明治になって大々的に掘り起こされ、あちらこちらで顕彰され、神社までできてしまいます。神戸の湊川神社は明治五年(1872)に創建されたそうです。
果たして正成さんとはどんな人物だったのか? そして、そこからどのように中国にジャンプできるか、今から1時間くらいで書けるかな……。
正成さんのご先祖様は、関東の方から来られた幕府の関係者だったそうです。それがたまたま河内の国の山がちなところに住み着いてしまいます。農業もしたかもしれないけど、地域の親分として政治的な役割をもって存在し続けてきた。
近所には水分神社があって、水を差配することが実力者の証拠で、正成さんのご先祖様が地域でしっかり根を張って生きていたということなんでしょう。
世の中は北条孝時憎し、鎌倉幕府を倒し、京都で新たな政治を行ってほしいという雰囲気が生まれていたそうで、それに乗っかろうとしたのが後醍醐天皇でした。
単独で暴走した後醍醐天皇さまは、敗走して奈良と京都のはざまの笠置山に逃げ込んだ。ここで大きな木の南側に何かがあるみたいな思わせぶりな夢を見られたそうです。木に南というのは「楠」ということで、それは河内の楠木正成だろうと、すぐにオファーがあって、正成さんは天皇に忠誠を誓うことになります。まさに青天の霹靂。ヘビににらまれたカエルで、逃げられなくなった。
元徳3年(1331年)9月、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇さんたちは捕えられ、残る正成さんは赤坂城にて幕府軍と戦うことになります。ここからゲリラ戦術を駆使して、出たりへっこんだり、逃げたり突撃したりして、ずっと幕府の軍を1年以上もくぎ付けにして、ここでの戦いのうわさが全国に広がり、足利高氏さん(後の尊氏)が六波羅探題を攻撃する。続いて新田義貞さんは鎌倉の本拠地を攻撃して、これで幕府は消滅するのでした。
すぐに後醍醐天皇の建武の新政が始まりますが、貴族的な政治を行おうとする天皇と、武士の分け前をよこせ、自分たちの意見を反映させろという勢力とは水と油で、すぐに政権は崩壊してしまいます。
後醍醐天皇が希望の星としていた護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、やがて命を奪われてしまいます。正成さんはなんともできないまま尊氏さんが進める武家政権に乗っかることはせず、ひたすら天皇を支えようとします。
建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に鎌倉に向かった尊氏さん、ここで新政に離反することにして、その追討の命を受けた新田義貞さんは箱根・竹ノ下の戦いで敗れて敗走。いよいよ尊氏さんは京都へ迫ります。
正成さんたちは迎え撃ちますが、そのままだったらやられてしまうはずが、東北の兵を連れてきた北畠顕家さんが近江坂本に到着、正成さん、義貞さんみんなが連携して、尊氏さんを敗走させます。そこで死なないのが運命で、九州まで追い落とされた尊氏さんはふたたびもどってくると、今度はさきほどの連合軍を打ち負かせ、かくして尊氏さんが天下を取ることになるわけでした。
歴史のおさらいをしました。その神戸の湊川の戦いで楠木正成さんは大活躍したことになっていますが、結局は敗北してしまうのでした。それが残念でならない。でも、私は尊氏さんびいきでもあり、どっちにも勝たせてあげたかったし、どちらも仲良く同じ屋根の下で世の中を支えてほしかったのですが、歴史は二人を戦わせ、正成さんを敗北させてしまう。
それで、勝手に、神戸の広いところでの戦いだから正成さんは敗れたのだと思ってしまうのです。神戸で戦わないで、ふたたび千早赤阪にこもって戦うということはできなかったのか。
たぶん、できなかったんですね。そんなゲリラではなくなっていたんでしょう。武将としての格も上がっているし、正々堂々戦わざるを得なかったのかもしれません。
それが残念です。どうして町中に出てきてしまったのかなあ。山で平和に地域の親分をやっているわけにはいかなかったんですね。悲しいなあ。