船の絵馬を見つけました。船の進水式をしたら、次は船の航海無事を祈るのが自然で、そうなるとこんぴらさんに絵馬を奉納しようというのも、自然です。私が船のオーナーなら、当然そうするでしょう。
でも、こんぴらさんも都合があるでしょう。みんなに絵馬を奉納されたら、飾るところがなくなってしまう。だから、よほどのことがないかぎり奉納は遠慮するしかないか。でも、それでもたくさんの奉納はあるみたいでした。
高橋由一さんも関係がありました。資生堂も、ツバキの絵を描くアーチストも関係があります。みんなこんぴらさんとの関係を求め、喜んでつながりを求めたようです。
私はかけ足で来ているので、一つ一つ見て回る余裕がなくて、お祈りをして、高橋由一さんの展示館を見て、金丸座を見て、友人に会う予定でした。
高橋由一館は、新鮮みはありませんでした。どこかですでに見せてもらった絵ばかりだったような気がします。以前、三重県立美術館で高橋由一さんの回顧展みたいなのがあって、そこでかなり見せてもらったし、かなりこんぴらさんのコレクションが三重県に来ていたような気がします。
けれども、誠実に風景に向き合った由一さんを改めて感じました。彼は幕末の人でした。明治育ちではなくて、江戸期にすでに大人になっていて、その彼が、新しい時代に新しい絵を描こうとして、風景や人物・静物とあれこれチャレンジしていました。
三重県の名所・二見浦も彼が描くと、どことなくソワソワした感じで、日本的な浮世絵にしろ、水彩画にしても、日本人が好むように描いていたものが、西洋の岩山のようになってしまいます。まるでローレライとか、モンサンミッシェルとか、何だかツルンとした感じで描かれてしまう。
現代の私としても、不思議な感じだと思ってしまうのですが、それが人物を描き込んでいる江ノ島なんかになると、とたんに落ち着いて、有名なモチーフである江ノ島が、西洋画に取り込まれ、そこに明治なんだけど、まるで江戸の庶民のような人々が歩いている姿などを描いてもらって、ホッとするし、ああ、時代は明治になったかもしれないけれど、人々は江戸風に過ごしていたのだと安心できたのです。小さく人々を描き込むやり方は成功していました。
さあ、階段を一歩ずつ上がります。何度も踊り場があるし、ずっと上がり続けるわけではないので、何度か気が紛れているうちに、いつてっぺんに出られるのだろうとそわそわしているうち、いよいよ最後の133段がやってきて、もう最後はただ数えながら石段だけを見て上り詰めました。
讃岐平野が広がっています。そうです。今まで讃岐平野から象頭山(ぞうずさん)を見上げるだけだったのに、とうとうこんぴらさんから平野を見下ろす、逆の立場になれました。これは自分の足で登った者に与えられたしあわせです。
ありがたいことでした。飯野山も実にキレイで、神秘的でさえあります。そんなに高くはないと知ってはいるけれど、なんだかありがたいし、そこへ登ってみたくもあります。直登コースがあったり、ぐるぐる回る登山道があったりするという話でしたが(友人からあとで教えてもらいました)、誘いかけられるような魅力を感じます。
絵馬堂を見て、いつくかの拝殿で何度もお参りをして、奥の院に行く余裕はないので、ひたすら下山です。
もうこうなれば、ヤマガラおじさんに再会できるのだけが楽しみで、はやく下に降りてみなくちゃと、トコトコと降りていきました。
そして、ついさっきおじさんのいたところにたどり着きました。
おじさんはいませんでした。もうお帰りになったんでしょう。十分トリたちにタネを上げたんでしょう。トリたちも声はするけれど、姿は見えません。
あれ、ヤマガラくんたちがいます。彼らは手のひらからタネをもらうときには選り好みをして、軽いタネ・実入りのないタネは下に投げていました。
オジサンがいなくなった今は、自分たちが落としたタネを拾って、食べているようでした。そうか、あの行為はとても乱暴で、気むずかしい行為に見えたけれど、彼らはあとで食べることに決めていたんですね。とりあえずたくさんあるときには、いいものから食べる。エサがなくなったら、落ちているものでも、ムシでも、木の実でも、一つずつ探して食べる。
オジサンがいなくなったら、いつもの自然に過ごす。オジサンがいるときはスベシャルで、いいものを食べる。そういうふうに決めていたらしい。
私も、こんなふうに生きていけないかな。私なら、いいものはとっておいて、小さいもの・くさりかけのものから食べていくはずなんですけど、全然彼らは違います。彼らみたいに生きれるかどうか、それはわからないけど、見習いたいと思った瞬間でした。