甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

正月の自分探し 母と一緒に散歩!

2015年01月08日 21時13分29秒 | 町並みを行く!
 元日、お昼前にやっと起き上がることができて、下へ降りたら、母はもうおそばを食べたところでした。いつものように、年越したそばでした。

 前日、袋に入った賞味期限3ヶ月のかき揚げを買っていましたが、二日酔いのため、そんなものを食べる意欲がありませんが、そばだけなら食べられそうなので、ぜひ作って! とお願いして、朝昼兼用の食事にしました。

 かき揚げがダメで、具はどうなるのかというと、母自慢の油揚げでした。私は母のお腹に入っているときから、大の天ぷら好きで、舟盛りの天かすをごはんに載せて、そこにしょう油をかけて食べさせてもらっていたということなので、お腹の中から天かすを要求したくらいなので、天ぷらじゃなくても、厚揚げ・油揚げどっちも好きで、どちらかというと、油分が多い油揚げの方が好きなのです。

 ただでさえ、油揚げが好きなのに、きつねうどん用の甘辛く味付けした母の油揚げはなかなかのもので、大変おいしくいただきました。それで落ち着いたのか、やっと初詣しようという気になって、母と近所の神社にお参りに行きました。

 いつもの神社は、雨が降ってきたので、のぼりも片付けつつあって、風も冷たく、落ち着かない気分です。けれども、お賽銭箱の横に三人の若いみこさんたちがいて、風にはかまを吹きまくられ、足をモゾモゾしている姿が見えて、本来ならしらけるところなのですが、それでも表情はみこさんのお仕事をしようと、明るくハキハキしようとする姿が見えて、これはおみくじを引かせてもらわなくてはと、何年ぶりかでおみくじをしました。

 神様のおことばを書き写すのは申し訳ないけれど、とてもありがたかったので、少し書き写してみます。

   時くれば枯れ木と見えし山かげの さくらも花の咲き匂いつつ

 その時が来れば、枯れ木だから何も見るものがないとあきらめていた山々に、桜の花が咲き、匂うことでしょう。

 という内容で、諦めずに黙々と努力すれば、いつか日の当たるときが来るはずだから、手を抜かずに、しっかり努めなさい、という神様のおことばでした。

 最近は、そんなにがっかりもせず、かといって大した希望も持たず、ぼんやりとなるようになるさ、というようなその場その場のことしか考えないことが多く、あまり将来の花を夢見ることがなく、ぼんやり過ごすことが多かったと思います。そこでもう一度、もっと先を見つめて、そこに何か光明を見つけようという姿勢が必要なのだと教えられたような気がします。

1 みこさんの足下抜けてく風寒し


2 足下が心もとなげにわかみこ


3 北風やみこさんの裾 落ち着かず


 それから、母と二人なので、ついどこへでも行きたい気分で、父と母が最初に新婚生活を送ったアパートが今でもあるから見に行こうということになりました。

 私が幼稚園から高校2年までを過ごしたアパートはすでになく、ただの駐車場になったというのに、五十数年前に父と母二人の新婚生活があったアパートの建物が現役とは、これは初耳だったので、それでは見に行こうと、てくてくと歩いていきます。



 道路をはさんだ向こう側には大企業の大きな工場があります。その北側には町工場やそこで働く人々の住宅があり、父母のアパートもそれらの一群の1つであったらしいのです。

 いくつかは建て替えられて、ピカピカのクルマが止められてたりします。けれども大半は何となくすすけた感じの古い建物ばかりです。

 母が田舎から出てきて、新婚生活において、洗濯物を干そうともの干し場をのぞくと、誰も干していない。どうして誰も洗濯物を干さないのだろうと疑問に思いつつ、母が洗濯物を干した。そうすると、夕方には工場群からの排煙で洗濯物が赤く染まったということでした。鉄分だったということでした。

 それくらいになるのだから、普通に判断しても、アパートのまわりの空気は田舎の空気とはひと味ふた味違うとわかったでしょうに、母にはそれが気づけなかった。空気が悪いのは何となく分かるけれど、外にしばらく放置していると赤くなるという事実を目の前にして、やっと気づいたということでした。

 50~60年代の公害被害を自覚していなかった当時の人々の感覚なのだと思います。多少空気がすすけていても、工場の煙突からの煙で視界がさえぎられたりしても、「まあ、大丈夫」といううかつな気持ちがあったのでしょう。母はまさにそのうかつな田舎での人でした。以後は気をつけたようですが、空気の良くないところでの新婚生活のスタートだったのだなと、ふと思います。もっと環境のいいところで生活をスタートさせればいいのに、と今の私なら思いますが、当時の父母には、そんなことを考える余裕はなかったろうし、みんなそんなもんだ程度の思いだったのでしょう。

 アパートにたどりつくと、そこはだれかのおうちになっていました。何人かの家族が一部屋に住んで、それらの集合がアパートだったものを、それぞれを一軒の家族が広々と使っているようでした。元日のお昼ですが、中に人のいる気配はないようで、お留守だったのかどうか……。

 「ここの玄関のところでお父さんとあんたが一緒に写っている写真があるよ。」と母は言います。そんな写真を見たことがなかったので、あとで探してみたのがこれでした。



 さあ、このあとも母との散歩はつづきますが、それはまた明日!


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