甘い生活 since2013

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ツイン都市を探してみる

2024年04月24日 20時32分20秒 | 町並みを行く!

 MLBには大谷くんがいなくなったアメリカンリーグに、ミネソタ・ツインズという球団があります。ツインズというチーム名は、ミネアポリスとセントポールという二つの町にまたがってチームが存在するということでこの名前があります。二つの町はツインシティと呼ばれて、共存共栄してきたからセットの町としてお互いに認め合っているようです。実際の球場はどっちにあるのか、調べてないけど、二つの町が隣接して存在するということは確かです。

 ツインシティとして有名なのは、ハンガリーのブダペストでしたね。川を挟んでブダとペスト、どういう意味があってこんな二つの町になっているのかはわからないけど、とにかく二つの町を合わせて一つにしているようです。

 ですから、大阪市と尼崎市(間に神崎川)、大阪市と吹田市(同じく神崎川?)、大阪市と堺市(間に大和川)、などの町は構成要素として川を挟んでいますが、ツイン都市とは言いませんでした。大阪がそれなりに大きいし、つり合いがどれなかったからです。お互いに同等の立場でお互いを行き来したりできる、そういう関係が必要みたいです。



 かつて大阪のローカル政党の人たちは、大阪市と堺市を合併して「大阪都構想」なんていう壮大なホラを吹いていました。地元の人たちにしてみれば、今まで普通にあるものをどうして合併させなきゃいけないのか? 合併にどんな意味があるのか? 何のための都構想なのか? あまりにわからないことだらけで、しかも説明はしないし、「黙ってオレ様についてこい」式のやり方だったので、二回も(税金を使って)住民投票をしましたが、二回とも結果はNOでした。それからは都構想は引っ込みました。説明がないのが致命的でした。誰もそんな無責任な思いつきの相手はしなかった。

 でも、大阪限定の地域政党の人たちの利権をねらう魂胆には際限がないから、儲かる手口を見つけて(それは知らせないままで)、改革ラッパだけを吹かせることはあるでしょう。いつまで大阪の人たちはだまされたらいいんだろう? 今度も万博の大赤字を自分たちで抱え込むことになると思うけど、それらはあの人たちの責任ではなくて、住んでるみなさんも共同責任をお願いします、と言われるんだろうな。気が重くなります。

 トップが改革云々を言う時ほど怪しいものはなくて、改革なんかより地道に普段あることを積み重ねていくしか、地域行政なんて方法はないのに、今までのことがすべてムダで、改革が効率的・合理的だなんて、トップの人たちって、そんなんで権力を握れるのだから、いい気なものです。



 改革は要らない。現場で声を上げて、少しずつ変えていくしか方法はないのです。すべて合併だ。効率優先だなんて、狭い鶏舎に飼われるニワトリではないのだから(あれだって反省する人たちがちゃんといます)、人間らしい暮らしと、よりよいアイデアで少しずつ変えていくしかない。

 だから、堺市と大阪市は二つのままです。それは良かった。堺市としても取り込まれるみたいで不本意だし、自分たちの道をふさがれるみたいで、納得できなかったでしょう。

 都市は、人がたくさん住んでる地域のことだけれど、そこの人たちが納得しながら生きていく、それを政治は陰で支える、それくらいのものでしかないはずです。


 大阪の心配をしても、もう遅いけど、行くとこまで行かなきゃ、事態は変わらないでしょうか。ツイン都市でしたね。

 大宮と浦和、これはツイン都市になりそうでしたが、一つの町になってしまった。博多と福岡、これは那珂川の東と西でしたか。博多がいろいろとクローズアップされるし、博多は市民の町、福岡は武士の町でしたか。おもしろい成り立ちでしたね。自治体名は福岡市なのに、看板は「博多」が付いてて、何だか魅力的です。

 八戸は、新幹線駅は中心街ではなくて、町はずれでした。町の中心に行くためにはローカル線に乗り、本八戸まで行かなくてはなりませんでした。二つの町というより、看板は西側に出ているけど、ほんとの町はそこにはないというだけでしたね。

 二つの町、大阪だったら、吹田と豊中、藤井寺と羽曳野、いくつか思い当たりますけど、どれも対等、共存、密接な関係、共同体意識、そういうのを考えてみると、一つではありませんでした。


 
 実は、私は伊勢市の話をしたかったんです。三重県の伊勢市は、古くは宇治と山田に分かれていて、合わせて宇治山田と呼んだりしました。近鉄の駅は、手前からJRと共同の「伊勢市」少し奥に入って「宇治山田」でした。宇治は、内宮のおひざ元の町でした。山田は、外宮さんの方、つまり伊勢市の西側、宮川を渡ってすぐの地域を山田と呼び、江戸時代は山田奉行所がありました。今はどれくらいの対抗意識があるのか、それはわからないのだけれど、何となく伊勢市の西側・山田地区は商業地区で、東側は内宮さんと住宅と歴史的な町と文教地区みたいなカラーがある気がします。

 住んだことがないので、よそ者からの印象です。けれども、一つの町として存在し、よそからの人はただ、外宮と内宮という離れた場所を行き来するだけです。


 町のこと、その発展形態、もう少しちゃんと勉強した方がいいですね。興味はあるんだけどな……!

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