甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

武隈の松は何代目?

2021年03月15日 21時35分51秒 | 芭蕉さんの旅・おくのほそ道ほか
★ 武隈の松、画像をお借りしてきました。このあたりを何度か通っていますが、行かせてもらったことがないです。今年の夏、世の中はよそからの客を受け入れられるようになっているのか、ものすごく不安です。

 岩沼に宿る。
 武隈の松にこそめ覚(さ)むる心地(ここち)はすれ。根は土際(つちぎわ)より二木(ふたき)にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。

 岩沼に宿をとった。
 武隈の松には全く目が覚めるような気分になりました。根は生えぎわのところから二本に分かれていて、昔から歌枕として詠まれてきた姿をとどめているようでした。数百年は経っているのにねえ。

 先づ能因法師思ひ出づ。往昔(そのかみ)むつのかみにて下りし人、此の木を伐りて、名取川の橋杭(はしぐい)にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠みたり。

 まず第一に能因法師のことを思い出しました。というのは、
「武隈の松はこのたび跡もなし千年をへてや我はきつらん」(後拾遺集)という歌を詠んでいるからです。その武隈の松という有名なところに来てみれば、松はあとかたもなくて、千年後にもう一度私は来て、その松を見るでしょう、という内容の歌ではありました。

 いろんな人や歴史があって、このみちのくに国守として赴任して、この有名な松を伐らせて、名取川の橋杭にさせたりしたこともあったそうです。ということなどがあって、能因さんは「松はこのたび跡もなし」と詠んだのでしょう。

 岩沼市に、竹駒神社という有名なお社があって、日本三大稲荷に数えられている、とかいうのはどこかで見たことがありました。

 ナンバーワンは、京都の伏見稲荷、ナンバー2は、三河の豊川稲荷、その次は、佐賀県の祐徳稲荷、茨城の笠間神社、岡山県の最上稲荷など、いろいろと地域によって違うようです。

 そりゃ、地元のお稲荷さんがナンバー2というのは、地元でも気分がいいですもんね。別格の伏見稲荷があって、他はそのフォロワーというところなんでしょうか。



 それにしても、東京の豊川稲荷も、岡山の最上稲荷も、実はお寺というのが何とも不思議で、まあ、昔は、お寺なのか、神社なのか、曖昧にする部分があって、曹洞宗だけど、日蓮宗だけど、お稲荷さんです! というのもありだったようです。とてもおおらかでいいですね。神仏混交こそが、中世の信仰スタイルだったんだから。それを神仏分離したのは近代的な国家的思想統制で、厳粛なのか、信仰スタイルを規制しているというのか、不自然な信仰という気がします。

 もう、中世のような信仰スタイルにはなかなか戻れないけど、でも、今の若い人たちは、国家の思惑を超えるところもあるので、お寺だろうが、神社だろうが、朱印さえもらえたらどこでもいいや、みたいにして、自由に信じるものを探してくれたら、それでいいのかな。



 代〃(よよ)あるは伐り、あるひは植継(うえつ)ぎなどせしと聞くに、今将(いまはた)千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍りし。

 代々にわたって、ある時は伐り、ある時は植え継いだりなどしたというふうに聞いていたが、今また千年の樹齢を保つといわれる松にふさわしい立派な形が整い、素晴らしい松の様子になっています。能因法師の時代から千年は経ってはいないのですけどね。



 武隈の松みせ申せ遅桜 と挙白(きょはく)と云ふものゝ餞別したりければ、

 陸奥国(みちのく)の遅いサクラよ、芭蕉翁が奥州においでになったら、ぜひとも武隈の松をお見せしなさいよ
 という句を、挙白という者が、江戸で餞別として贈ってくれていたので、

  桜より松は二木(ふたき)を三月越シ
 桜よりも私を待ってくれていたのは武隈の松でした。古い歌に詠まれたとおりの二つの木の姿の姿を、出発から数えて三月越しに見ることができました。

 能因法師の時にはたまたまなかった武隈の松が、人々の力によって植え継がれていたなんて、それほどに地元では愛され、慕われしていた松だったのでしょう。

 東日本大震災を経験した私たちは、人間が松とどのような関係にあるのか、どのように守っていくのか、あれこれと考えさせてくれるエピソードではありました。













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