高校野球といえば、汗と日ざしとスタンドと、若者たちの延々と続く声援と、そういう世界がイメージできます。そういうイメージは今もあると思われます。
本当は、そんな決まりきったものではなくて、グータラな選手だったり、いやいや応援してたり、汗っかきの自分にコンプレックスだったり、いろんな事情があるんでしょうけど、いつの間にか、ミイラ取りがミイラになるというのか、仏に魂を入れているうちに自分たちも神々しい気分に研ぎ澄まされていったというのか、何かに魅入られる時があるのだと思われます。
野球場に集う人々は、そこにある時、みんながミイラになっている。そこを離れたら、蘇生したり、ミイラ取りになったり、あれこれするんだろうけど、あそこにある時は、みんながミイラなんですよ。
さて、第三者(傍観者)の私たちは、表面だけを見ていて、若い人たちのそうした一生懸命さに心打たれ、どうしてこんなにまでして応援したり、涙を流したりするんだろうと驚き、そのすさまじさに感動したりします。もらい泣きしてしまう。何も知らないで、とりあえずシンプルに感動するのです。
もう甲子園への道は開かれ、そこをたくさんの若者たちは歩こうとしている。そして、あと一か月後には、本大会が開かれ、スターたちが生まれていきます。甲子園ではギラギラした光と影のドラマが展開されることでしょう。みんな勝ち上がった人たちが集まるわけですから。
もう四十年ほど前、私が中学生だったころ、2人のスターがぶつかり合う瞬間があって、私はそれを目撃しました。何が感動的だったのかというと、お互いに譲り合わない、絶対に自分たちが勝つのだという気持ちがぶつかり合っていて、スタンドで見ている私たちは、くわしい表情はわからないのだけれど、その小さく見える人物たちから彼らの気分をくみ取ることができて、しばらくは感動していました。
1974年の8月17日、準々決勝の第四試合。前の試合は前橋工業vs静岡商業、アンダースローの向田投手とまっこう勝負の高橋投手の投げ合いでした。
私は、一塁側のアルプススタンドに入れず、無料で入れる外野からこの試合を見ていたんでしょう。どちらも譲らない試合は、「マエコー、マエコー、マエコー」と連呼するスタンドの声に神様も同調したのか、ラッキーな一点が入り、そのまま前橋工業が勝ってしまいます。
それで、ふたたびキップを買いに出かけて、やっと手に入れたキップで、第四試合が始まる前にアルプススタンドの一塁側に入ります。これで私たちも鹿実応援団の一員になれました。鹿児島の人々は、急にお国言葉になって、あれこれとおしゃべりを始めます。きっと当時は、方言が抑えられていて、鹿児島のチームを応援に来たここでしか自分たちのなじんだ言葉が使えない、そういう状況があったのだと思われます。
ヤジも鹿児島弁、味方への掛け声も、お互いがおしゃべりするときも、まるで西宮の野球の応援席が、カゴシマに変わったみたいな、不思議な感覚がありました。
私は、カゴシマ弁はしゃべれなかったんですけど、聞き分けることはできたので、鹿児島弁が飛び交っているなとは思っていました。
試合は、原辰徳君の東海大相模(おしゃれでスマートなチームという雰囲気でしたが、本当はそうでもない野球バカの集団だったんでしょうね。でも、イメージとしては、おしゃれ!)は打撃のチームでした。ピッチャーはまるで「ドカベン」に出てくる里中君みたいな、小柄なアンダースロー(いや、記憶違いかもしれない。サウスポーでしたっけ?)の村中君でした。
いかにも神奈川県のチームで、とにかくよく打ったのです。それを鹿実の定岡さんはとにかく抑えていた。途中からはライトもついて、ナイター気分でした。雨上がりの少しぬかるんだ球場で、力と力がぶつかり合った。
なかなか決着はつかなかったけれど、しのぎきった鹿実がどうにか勝てた。それで、私たちは優勝候補で打撃のチームに競り勝ったと、何とも言えない満足感をもらって、父が待つ家へと帰っていきました。
あれから、2人のスターは、同じチームになって、それぞれのキャリアを積み、今はお互いにそのチームを離れてしまっている。もういい年だし、何かはしているんでしょう。
そうです。みんな何かはしている。中学生だった私も、オッチャンになって、なんとか暮らしている。でも、あの時、みんながそこに集い、あの時間を過ごしたこと、それは一瞬なんだけど、永遠に私たちの胸の中ではつづくんだろうな。