リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2009年10月~その2

2009年10月31日 | 昔語り(2006~2013)
虎の威を借るなんとやら

10月16日。また何かのサスペンスドラマみたいなヘンな夢を見て、はっと目が覚めた。猛烈に眠いけど、夢には戻りたくなくて抵抗しているうちに眠ってしまって、また続きなのか次回エピソードなのかわからないドラマチックな夢を見て、はっと目が覚めた。きのうはけっこう大まじめにに仕事に精を出したんだから、すごく眠いの。まぶたがふわ~っと下がって来るけど、もうヘンな夢はいやだから、チャンネルを変えてよ~と言ったかどうか知らないけど、また眠りに落ちて、今度はたいしてストレスにならないような夢をとろとろ見ているうちに、ごく自然に目が覚めた(というよりは、カレシの気配で目が覚めたような・・・)。

金曜日。正午過ぎ。雨が降っている。早朝のうちにかなり派手に降ったらしい。早起きしたカレシが、落ち葉が詰まって雨水が盛大に溢れていた雨どいの掃除をしたんだそうな。小止みになったと思ってはしごに登って腐れ落ち葉をかき出していたら、急にどば~っと降って来たもので、びしょ濡れになったとこぼすこと、こぼすこと。バンクーバーの10月は雨期の始まり。カレシは水かきが生えていると言われる生粋のバンクーバーっ子。人生のほとんどをその雨のバンクーバーで暮らして来たんだし、今が一番好きな季節なんでしょ?

きのう、来年のオリンピックのメダルが公表された。アンチ(バンクーバー)オリンピックのワタシだけど、メダルのデザインは独創的で気に入った(もちろん、もらえるわけじゃないけど)。ひとつの大きなデザインから個々のメダルを切り出すという発想がユニーク。全部を集めて並べるとひとつの絵にまとまるようにできている。シャチの絵柄は「チームワーク」を象徴しているんだそうな。地元のデザイナー2人の共同制作で、材料にはリサイクルしたコンピュータやエレクトロニクス製品から回収した金、銀、銅を使い、地元の会社が精錬して作ったというところもいい。だけど、1個の重さが500グラム以上もあるというから、水泳のフェルプスみたいにいくつもの種目に出てメダルを取りまくったら、首の骨がどうにかなってしまいそうだなあ。

メダルはよくできていると思うけど、オリンピックの前後と期間中の交通規制はひどいもんだ。ダウンタウンなど「立ち入り禁止」みたいなもんだし、やたらとセキュリティのチェックポイントができて、バンクーバーがバンクーバー市民のものでなくなるという感じがする。あたりを全面駐車禁止にされた上に、商品の搬入を夜中にやれと言われて商店は大むくれだし、通勤の足を乱される勤め人も大むくれ。車をやめて交通機関を使えと言われても、たぶん「オリンピックさまのお通り」ってことで、ルートの変更やら何やらと不便そう。オリンピックは儲けるチャンスだと腕をまくって喜んだレストランやカフェも、今になって客足が遠のくかもしれないと心配し始めたらしい。だからワタシが初めっから口を酸っぱくして言ってたじゃん、やめときなって。まあ、2月はたっぷり兵糧を蓄えて、冬ごもりだな・・・

セキュリティと言えば、ある日本在住英語人のサイトに「渋谷センター街パトロール隊」とかいう、自警団だか何だかのオヤジと、たまたま歩道のガードレールに座っていて「座るな」と注意されたアフリカ系の兄ちゃんとがもめているYouTubeのクリップが載っていた。日本語が良くわからないらしい外国人を相手に「日本のサムライとやるのか」、「アメリカもアフリカも関係ない。ここは日本だ、サムライの国なんだ」と、なんかやくざ顔負けの凄みよう。ニッポンのサムライねえ。なんか、特高警察や大政翼賛会が市民生活の隅々にまで目を光らせていた戦前の日本みたいな感じもするけど、ああいうやくざっぽい自警団を英語ではVigilantesといって、暴力的で腐敗した社会で見られるものだと考えられている。まあ、サムライの国ニッポンだと威張ってるけど、ああいう人たちが外国に行ったら、へらへら笑って借りてきた猫のようなニッポン人になるのかな。ふむ、見たくないものを見ちゃったような気分・・・

まあ、あれは日本の東京の渋谷の一角のことだし、この次日本に行ったら足を向けなければいいだけのこと。野次馬ワタシは次の仕事に猛ダッシュした方がよさそう・・・。

秋深し、4コマ漫画で読む世相

10月17日。土曜日。正午過ぎ。ヘンな夢は見なかったけど、目が覚めてもまだ眠いなあ。雨模様で薄暗いせいなのかな。だけど、ちゃんと起きて、しっかり朝ごはんを食べて、がんがん仕事をしなくちゃ・・・と、自分で発破をかけてみる。(「はっぱを」と打って変換したら「葉っぱを」と出てきた。ふむ、たぬきのように木の葉っぱを頭に乗っけて仕事をドロンと化かしてしまえたら楽ちんだろうな。だけど、それでお客さんからもらったお金がドロンと化けた木の葉っぱだったら困っちゃうなあ。いつもワタシの周りを舞っている葉っぱは「言の葉」。まあ、言葉って玉虫色の七変化だから、使う人しだいでは化かし合いも自在だけど、いい加減に粗末に扱うとそうでなくともややこしい世の中がよけいにややこしいことになるから、ご用心。

インターネット前の時代で、日付どおりに配達されるのが画期的?だった読売新聞衛星版で、連載小説の「天の瞳」と並んで毎日楽しみだったのが「コボちゃん」。そのコボちゃんのママに赤ちゃんができたんだそうな。長らく1人っ子だったコボちゃんもお兄ちゃんになるってことか。ほのぼ漫画といえば、カナダにもリン・ジョンストンという女性の書いた『For Better or For Worse』というファミリー漫画があって、北米各地の新聞に掲載されていた。ジョンとエリーのパターソン夫婦に、息子のマイケル、娘のエリザベス。この作品では年と共にリアルタイムで子供たちが成長し、ある時点でエリーに思いがけず3人目ができ、4月1日に生まれてエイプリルと名づけられた。連載が一応終了した時には、ジョンとエリーは隠居、マイケルは家庭を持って2児の父、エリザベスは結婚、末っ子のエイプリルは大学に進学。いろいろな社会問題をユーモアに包んで織り込み、やんわりと提起していたっけ。

コボちゃんの作者にも、少子化、高齢化、不況に揺れる雇用問題、と悩み多き日本の世相を4コマ漫画でビジュアルに提起する意図があるのかな。短い言葉とシンプルなイメージで読者に端的に訴えることができるという意味では、こういう漫画(コミックス)は簡潔で効果的なコミュニケーションの手本みたいなものだろうな。ビジュアルということでは、「マンガ」も「アニメ」もあるけど、あっちは娯楽ストーリー(があるのかどうかわからないけど)が狙い。ピリッと効いた風刺やコメントでは、4コマ漫画(あるいは社説欄などに載るひとコマ、2コマの漫画)には勝てない。それはそうとして、「その日」の4コマが読売のサイトに掲載されていたけど、酔ってご帰館のパパを前に、ママの眉がコマごとにだんだんつり上がっていくのがなんともおかしかった。

今日は土曜日だけど、来週の金曜日から少なくとも9日は外食になるから、計画していたおでかけは中止。その代わりのディナーは、刺身にえびと枝豆の酢のもの、カレシ菜園産の(日本種の)かぶの葉っぱご飯。忙しいときはこれが一番の特急料理。刺身には、きのうキハダといっしょにグリルしてあまりの脂の多さにびっくりしたアルバコア(びんなが)まぐろのとろ(「びんとろ」というらしい)も添えてみたけど、元から脂が多いまぐろだから、とろよりも普通の背の方がおいしいという気がする。まあ、キッチンにはまだきのうの脂の匂いが漂っているし、次回はグリルをやめてブロートーチ(バーナー?)を使ってさっと表面を焼いてみようか・・・。

バンクーバーは大雨注意報らしい。どっと降ったと思うと小止み。しばらくしてまた土砂降り。小止みのときに温室に行ったカレシが、土砂降りで出られなくなって、せいぜい10メートルもあるかないかの距離なのにかなり濡れて戻ってきた。ひょっとしたらこの大降り、先週の日本の台風のなれの果てだったりして。ニューヨークも雨の予報らしいし・・・秋、だな、ほんとに。

ユーチューブ症候群

10月18日。やっぱり雨。今日はほんっとに本気になってねじり鉢巻しなきゃならない。しなきゃならないんだけど、どうも、気合が入らない。やるぞ、という気持はあるんだけどなあ。こういうのをスランプっていうのかなあ。それでも、「ニューヨークでの休日」までに片づける仕事はちゃんと片づけなきゃいかんなあ。

コロラド州での「気球坊や」の騒ぎはどうやら作られた「リアリティショー」だったらしい。6才の子供を乗せたまま、相当な高度をかなりのスピードで飛んで行く「銀色のきのこ」の映像は、大手ネットワークが大統領のタウンホールミーティング中継を中断してまで延々と実況中継した。零下の気温というから、最悪の場合は子供が凍死してしまうかもしれないし、落ちれば確実に助からない。北米中が手に汗を握って子供のことを心配して、実は「気球の側で遊んでいたのをパパに叱られてガレージの屋根裏の箱の中にずっと隠れていた」とわかって胸をなでおろした。ところか、テレビの人気トークショー番組に一家揃って出演したところで、どうして隠れていたのかと聞かれた子供が親の方を見てあどけなく、いともあっけらかんと言ってしまったもんだ、「ショーのためだって言ったじゃん」と。パパは一瞬ぎくっ。子供はやっぱり子供。正直なもんだよね。まあ、あのひと言がきっかけで状況にそぐわないパパの言動が明るみに出たりして、「やらせ」じゃないかということになり、結局は刑事訴追されることになってしまったんだけど。

この「リアリティショー」というやつ、ほとんどテレビを見ないワタシにはよくわからないけど、くろうと主演、しろうと主演を取り混ぜてずいぶんあるらしい。主演が芸能人なら、新人にとっては売り出す足ががり、ベテランにとってはカムバックのチャンスになる「ショー」でいいんだけど、しろうとが出ると何かと物議をかもすことが多いような。「イケメン資産家の花嫁募集」というリアリティショーで当の「資産家氏」が実はビンボー青年だったということがあったし、6つ子を含む8人の子持ちカップルのショーが、夫の浮気やら何やらで泥沼の離婚騒動になっているし、俳優を目指してリアリティショーに出ていたカナダ人男が「水着モデル」の奥さんを殺して、逃亡して戻ったカナダで自殺したなんて事件もあった。この事件では指を全部切り落とされ、歯を全部抜かれた死体の身元が豊胸インプラントのシリアル番号から判明して容疑者が浮かんだというドラマそこのけの顛末になった。

「ありのままの日常」を見せる(はずの)リアリティショーの裏で繰り広げられる人間模様の方がずっとドラマチックなのは、やっぱりそこにほんとうの「リアリティ(現実)」があるからなんだろうな。それにしても、「気球坊や」のパパも含めて、やりたい人が押せ押せでアイデアの売込みが半端じゃないらしいそうだから、世の中どうなってるんだろうと思うけど、つまるところは、しろうと出演者には「手軽に有名になれて手軽にお金を稼げる」というのが魅力なんだろうな。まあ目立つためにはなりふりかまわず、考えもせずという人間が増えているのかもしれない。もっとも、ビデオカメラが普及した頃に早速「ケッサクホームビデオ」とでもいうコンテスト番組ができて(まだやっているらしいけど)、初めっから意図的に演出された出品作?も多かったらしいから、目立ちたがりも一攫千金も今に始まったことじゃないのは確かだとしても、昨今のリアリティショーブーム、「ユーチューブ症候群」とでも呼んだらいいのかなあ・・・

他人のことを恥ずかしがる人

10月19日。雨、ひと休み。仕事の予定があんまり遅れてないなと、例によって高をくくって、カレシとモールへ出かけた。図書館へ借りていたCDを返しに行くカレシと、モールを抜けて銀行へお金を出しに行くワタシ。なぜか誰も客がいないので、行列を整理するロープを無視して一番近い窓口に直行して、当座の軍資金としてアメリカドル建て口座から600ドルほど引き出して、モールへ。買い物はコンタクトレンズの保存液とカレシご入用の耳栓。郵便局に寄ったカレシが「ヘンなのが来ている」と差し出した封筒。アメリカの通販会社からの払い戻しの小切手。あはあ、去年の夏に手違いでFedExに送り返されて、そのまま忘れてしまった「あれ」だ。へえ、苦情も何も言わなかったのに、1年以上も経ってから「未処理になっていました」って、律儀だなあ。今でもカタログを送ってくれているから、ひいきにしてあげなくちゃなあ。

きのう「気球坊や」の話を取り上げたら、どもう日本でも注目を集めたようす。男の子の母親が日本人だとわかったからかな。最初にニュースで「リチャードとマユミ・・・」と言ったときにすぐ「日本人」だと思ったけど、少なくともワタシが見た限りでは、アメリカ(カナダ)のニュースでは特に「母親は日本人」とは言っていなかった。見ていた人も、「あ、奥さんはアジア人か」いうぐらいのもので、中国人だと思っている人もたくさんいる。この「マユミさん」が日本生まれの日本人ということは確からしいけど、北米のマスコミで注目を集めているのは子供を出しにしてテレビ進出を図った「目立ちたがりの困ったカップル」であって、2人がハリウッドの演劇学校で出会ったという背景には関心を持っても、異人種カップルということは本題と関係がないから関心を引かないんだろうと思う。

だけど、日本ではやっぱり関心の行きどころが違うんだろうなあ。アメリカの中西部の「困ったちゃん夫婦」の一方が日本人とわかって興味がわいたらしい。そこで、どんな反応なのかと、一番過激そうなローカル掲示板をのぞいてみたら、ははあ、やっぱりなあ。「日本人のイメージが下がる」、「日本人がこんなだと思われたくない」、「日本人叩きの影響がでそうだ」と文句を言った挙句に「同じ日本人として恥ずかしい」。しょっちゅう見かけるこの「同じ日本人として恥ずかしい」という感覚がワタシは未だに理解できない。「恥ずかしい」というのはそういう人の主観的な感情じゃないのかなあ。

日本という国が人道的犯罪を犯したわけじゃあるまいし、どうして国籍が(あるいは人種が)「同じ」というだけで、他人を自分に取り込んで、その言動を恥ずかしいと「感じられる」のか。他人を取り込んでしまうという行為はその他人の人格を否定することだと思うんだけどなあ。ワタシ自身が知らない日本人にさんざん「日本人らしくない」ことをなじられた挙句に「同じ日本人として恥ずかしい」とダメ押しされたときには、「ワタシ」という人格を剥ぎ取られたようなショックを感じた。まあ、自分の人格を肯定できない人が他人の人格を肯定するなんてできないだろうし、他人も人格を持った人間だという意識すらないかもしれないんだけど。そういうレベルで見たら、カレシにもそういうところがあった(ある)から、日本人に限らず個々の人間性の問題なんだろうけど。

それでもやっぱり「同じ日本人として」というところが不可思議だなあ。結局は、「自我」という概念がないから自分と他人の区別がつかないのかな。それとも、自分という人間が見えないないから他人を鏡代わりにしているのかな。バカなことをしている人間を見たら、ワタシは「ばっかじゃなかろか」と呆れはしても、自分がやっているわけじゃないから「恥ずかしい」という気持にはならない。「何をばかなことやってんだ」とは言っても、「(こっちが)恥ずかしいからやめて」とは言えないな。ご当人は「恥ずかしいこと」をしていると思っていないかもしれないから、「同感」でもないし、「共感」とも違うような気がする。だいたいからして、「恥ずかしい」というのは言動を実行した人がそう感じなければ、誰が言ってもまったく意味をなさないと思うんだけど、それを言ってしまうのも「律儀」のうちに入るのかなあ。考えるほどに、わからない・・・

日本人に喜ばれる日本人て?

10月21日。やった、やった。ついに最後に残った仕事が片付いた。出発まであと丸1日。明日は超特急で請求書を書いて、消費税の申告をして、デスクの周りを片づけて、重要書類は金庫にしまって、代わりにパスポートを出して、持って行く新しいスーツケースを買いに行って、お留守番に来てくれるシーラのためにパンを焼いて・・・いやあ、なんだかすることがどっさりあるなあ。どうして旅行の前となるとこうもてんてこまいのてんやわんやになるんだろう。いつものことなんだけど・・・

コロラドの「気球坊や騒動」のその後、なんかまあいろいろと展開している。ニューヨークの新聞に一緒に訴追される奥さんが自分だけの弁護士を雇ったという記事があった。離婚専門の弁護士じゃなくて刑事弁護士。二人が出演したリアリティショーで、ダンナがマユミさんと交換で自分の家に来た別人の奥さんに毒づいて「オレの女房が日本生まれで良かったよ!」とわめいたんだとか。おかげで、DVがあったとか、奥さんはダンナの奴隷も同然だったとか・・・。新聞のコメント欄にも「おとなしくて従順な日本人妻とアメリカ人関白夫」のステレオタイプ的な関係に注目するコメントがけっこうある。はて、マユミさんの新しい弁護士は「DVの被害者であるか弱いアジア人妻」を前面に出して弁護しようという策なのかもしれないな。まあ、今の世の中ほんとうに「おとなしくて従順な日本女性」なんているのかいな、と思わないでもないけど、あんがい情状酌量のネタとして有利なのかもしれないな。

Japan Probeにはデイブスペクターとかいう25年もアメリカに住んでいないヘンなアメリカ人が「気球坊や騒動」の解説をしているフジテレビのニュースが載っていた。ふむ、アメリカのモラル低下の象徴ってことなのか。へえ。日本在住英語人たちはパパラッチみたいな日本のマスコミがマユミさんが日本人だということにほとんど触れないのはなぜかという方に関心がある。そこはワタシも「ん?」と思った。日本人が何か(概ねいいことを)すると、どこの出身とか、地元の人たちが「自分ことのように」喜んでいるとか、日本にいる家族に密着取材だのと追っかけ回すだろうに、名前から日本人だとわかるのにまるで「はあ、気がつかなかった・・・」とでも言う雰囲気だからおもしろい。好対照だから「どうして?」という疑問を生まれるんだろうけど、ほんとにどうしてかな。やっぱり「同じ日本人として、ほめられることだったら自分がほめられたようでうれしいけど、かっこ悪いことだったら自分がかっこ悪く感じるから「恥ずかしい」。だから触れたくないのかな?ま、明日ゆっくりつらつら考えてみるか。

日本人らしさって何だろうな

10月22日。出発前の最終日。のっけからカレシはオンラインでチェックインするのに、まず自分のプリンタの黒のインクが不調でプリントできないかもしれない。じゃあ、ワタシのPCからやればいいということになったら、今度は指定した座席と違うとカリカリ。(あのさぁ、消費税の申告やら、支払いの設定やら、請求書書きやら、今日中にやることが何かとあるんだけど・・・。)まあ、機材が変更になったせいらしいけど、一応は与えられた座席でチェックインして、少し早めに空港に行って変更してもらえるかどうか交渉すればいいということになった。やれやれ、何だって出かける前になるとこうストレスだらけになっちゃうんだろうなあ・・・

消費税の申告は、帳簿付けは後回しにして、ログや請求書からざっと計算。第3四半期だし、納付額はゼロだし、還付される額は微々たるものだし、ま、年度末の処理までに帳簿を整理すればちゃんと帳尻が合うわけだから、いっか(と思う)。留守中に支払期日が来る請求書の支払いの設定をして、最後の仕事を送って、10月分の請求書を書いて、駆け足で夕食をして、カレシは英語教室、ワタシはモールへ。なんせ近頃は機内持ち込みは10キロまで。ワタシが15年も使い古したスーツケースは空っぽで4キロはあるから、軽量のを買わなくちゃ。ということで、いかにも軽快そうな樹脂製のものを買った。空の重さは2.8キロで、4個の車が自在に回るから機内の通路を押して歩けるし、ジッパーひとつで容量が25%も増える。カレシは「ニューヨークで買い物する気満々!」と笑うけど、遊びの旅行では、行きは軽装でも帰りは荷物が増えてスーツケースを預けることが多いから、
何かと便利そう。さて、あとは荷物をまとめるだけ。やれやれ、何とか出かけられそう・・・。

ほっとひと息ついたところで、きのうベッドに入ってからも考えていた「日本人が同じ日本人として恥ずかしいと思わない日本人」とはどんな人なのかと、またつらつら。この「同じ」という表現がクセモノ。「同じ」と言いつつ他人のことを評価しているわけで、ある意味「理想の自分像」を他人に求めているようなところもあるから、「自分は誰なのか」というアイデンティティの疑問とは次元が違うとしか思えない。昔、政府が「期待される日本人像」なんてぶち上げたけど、ひょっとしたらその流れでみんな「かくあるべき日本人像」を求めているのかもしれないな。でも、その「かくあるべき日本人」とはいったいどんな人なんだろう。日本人が思い描くイメージなのか、それとも外国から見たイメージなのか。要は「日本人らしさ」を持っている人なんだろうけど、じゃあその「日本人らしさ」ってのはいったい何なんだろう。

この「らしさ」という言葉はもっと手ごわいクセモノなのだ。物心ついた頃から、ワタシはどうも何かにつけて「~らしくない」と言われて来たように思う。ワタシとしては、「ワタシはいつもワタシらしい」と思っていたけど、よく考えてみたら、どうもそれがいろんな「~らしくない」批判につながっていたようなところがある。つまりは、「~らしくない」ということは、日本人、女性、社会人、既婚者、高齢者・・・なんでもいいけど、相手が求めている(たぶんに自己の投影像としての)イメージと「同じ」じゃないということか。だけど、他人に投影した自己のイメージを(常識でもマナーでも国民性でも)何らかのものさしで測って、周りの目に映る自分を評価しているってことかな。だって、「らしい」とか「らしくない」というのは、あくまでもそう思う人の主観的な感覚じゃないのかなあ。なんかやたらと回りくどい自己評価法だと思うけど、やっぱり「自分」と「他人」の間の線引きがはっきりしていないからなのかなあ。
それで他人のことなのに「同じ~として恥ずかしい」というややこしいことを言うのかなあ。それで海外へ出ると「同じ日本人として」なんて、まるで「日本人代表」みたいな感覚になるのかなあ。わかるような気もしないではないけど・・・う~ん、やっぱりわからない。

早いとこ荷物をまとめてしまおうっと。トロントでの週末が先だけど、New York, here we come!