掲示板もブログも狭い世間
8月1日。日曜日。今日から8月。新しい年が明けて、オリンピックが来て終わって、日本へ行って帰って来て・・・と思っているうちに気がついたらいつの間にか8月かあ。だけど、その間にバスルームの改装も無事終わったし、日本にいる間に他界したパパの散灰と追悼パーティも無事終わったし、仕事もちゃんとしたし、まあ、いろいろあっていつもの1年ということになるんだろうな。老後の日々を考えるような年になったら、あまり派手な出来事はない方が良さそうという気もする。
起きてみたら、ちょっとうす曇で、正午前のポーチの気温は摂氏14度と、かなりの下がりよう。天気予報はまたぞろ暑くなるようなことを言っているから、ちょっとひと休みというところか。このあたりでひと雨ほしいところだけど、湿度は平年より高めなのに大気中には雨になって降るほどの水分がないんだそうな。ま、40日以上も雨が降らなかった夏でも、恒例のPNEが始まったらジンクス通りに雨が降り出したから、あと2週間もすれば雨が降り出すかも。もっとも、降り出したら降り出したで、みんな今度は「いつまで降るんだ~」とぼやき出すんだけど。
カレシが菜園で使う土や堆肥を仕入れに行きたいと買うというので、郊外の大きな園芸センターまでトラックでドライブ。その辺の量販店の園芸コーナーで10キロくらいの袋入りで売っている土は中が見えないのをいいことに?木っ端やら石ころが混じっていたりするから、自分で袋詰めできるのを買うことにしたらしい。レジで先に代金を払って、2、30キロは入りそうな厚手のビニール袋をもらう。駐車場の隅にある置き場まで大きなカートを押して行って、備え付けのシャベルで自分で袋に詰めるわけで、ワタシは袋が倒れないように押さえていて、一杯になったら店で買った園芸用テープで口を閉めるのが役目。庭土が2袋、堆肥が1袋、マッシュルーム栽培農場で廃用になった馬糞土が2袋。合計5袋で20ドルとちょっと。袋詰めを買うよりはもちろん格段に安いし、質も目で確かめられるからいい。
帰ってくる頃にはけっこう気温が上がっていて、暑いのでそのままだらだらとネットサーフィン。産経ニュースのサイトに詳細に載っている秋葉原事件裁判の被告人質問のやりとりを読みながら、この人は自分の気持を言葉どころか行動でさえうまく表現できない人なんだろうと思った。掲示板での荒らしやなりすましに対してはひどく婉曲的な脅しを書き込むことで「やめて欲しい」という気持を察してもらおうとするばかり。だけど、誰もやめてくれないし、事件を起こすという脅しも止めてくれなかったから、結局は決行せざるを得なくなってしまったということなのかなあ。「すべてが自分の考え方のせい」・・・まさに期待されている(と思っている)通りに答えているようなところがある。子供の頃の母親の虐待といえるような仕打ちが自分を持てない人、というよりはいい子を演じているうちに「自分」という存在から乖離したような人にしてしまったのか・・・。
ふと思ったのは、もしこの人が掲示板に参加するかわりに個人のブログをやっていたら、少しは違った結果になったのかということなんだけど、どうなのかな。掲示板とブログはまったく性質が違うものだと思うから、そこでの人との交流も性質が違うんじゃないのかな。掲示板はその名の通り、メモやお知らせのようなものが張り出されて、それについていろんな人が多角的にやりとりするし、張り出した本人そっちのけになることも多々あるし、でっちあげのネタでトピックを挙げて反響をおもしろがる不届きな輩もかなりいる。いうなれば掲示板はいろんな人が集まって来る「井戸端コミュニティ」のようなものかもしれないけど、どれがどこまで本当の話なのかわからないし、匿名を隠れ蓑にして誰彼かまわず叩いてやろうと構えている人間も多そうなので、参加がためらわれる。それでも、現実の世界でさびしい人にとっては住みやすいところのように感じられたりするのかもしれない。
一方のブログはというと、(少なくとも日本語で一番多いといわれる形態は)誰かが日記帳を広げっぱなしにしておいて、通りかかる人が勝手に読むのにまかせているような感じかな。それが自己顕示でも自己満足でもいい。たまにgooの「ランダム」のボタンを押して見るけど、実にいろんなブログが百花繚乱という感じがする。(ブログで嘘の自分を演じるのはなんだかなあと思うけど、そういうのは何となくそれとわかる・・・。)ブログだってトラックバック機能を使った多角的交流もあるし、ランキング入りやアフィリエイト商売が目的になっている中身のないものもあるけど、だいたいのところはブログに記事を書いた人と(コメントする、しないにかかわらず)それを読んだ人との一対一の「静かな」接触だろうと思うな。
どっちにしても、参加する、しない、あるいは読む、読まないの選択肢はアクセスした人が持っているんだけど、あんがい何かの理由でのめり込んでしまうとその選択肢を行使できなくなるのかもしれない。マウスのボタンをクリックすればいいだけなのにね。まあ、画面の向こうに広い世界があるというのは幻想で、実はインターネットの世界は現実の世界とは比べものにならないほど狭くて、玉石混交の膨大な情報という「魔物」があてもなく徘徊しているだけの真っ暗な空間のようにも思えるな。もしもそんなところに迷い込んでしまったら、頼りになるのは「自分」というコンパスだけ。そのコンパスをなくしたら、仮想現実空間を彷徨することになるのか・・・。
懐かしいけど恋しくはない
8月2日。月曜日。連休最後の日。気温は午前11時半ですでに20度。今日は暑くなりそう。朝食前に菜園の水遣りをしに外へ出て行ったカレシが「ちょっと蒸してるなあ」といいながら入って来た。たしかに相対湿度が70%近いのはちょっと高すぎだなあ。でも、週末には雨が降りそうな予報だから、それまでの我慢てことかも。う~ん、ほんとに降るのかなあ・・・。
とりあえず仕事をひとつ片付けてからちょっとだらだら。どうもこのところだらけているという実感がするけど、暑くても夏バテするほどには外に出ていないのに、どうしてかな。なんとなくやる気が出てこない。そんなときに限ってやたらとごちゃごちゃした仕事が入って来るから困る。だけど、これが1週間も2週間も何もせずにの~んびりと過ごせる休暇だったら逆に病院に入院しちゃったような気分になってしまいそうだから困る。ふむ、仕事から離れて休むことを「休暇を取る」というけど、仕事から完全に離れる、つまり辞めるのも「暇を取る」というのはおもしろいな。仕事がなければ休みがないだけの暇か。休みがない暇って精神的にきつそう。昔は奥さんが離縁して出て行くときも「暇を取る」と言ったらしいけど、休みも暇もない主婦業を辞めるってことかなあ。ふむ、こっちの方は感覚的に何となくわかるような気がしないでもない。まあ、そんなことをだらだらと考えているワタシはいったい何をやってるんだか。暇じゃないんだから、休んでもいられないだろうに・・・。
だらだらとのぞいていた小町に「海外に住んでいて日本が恋しくない人はいるか」という問いかけを見つけた。小町には日本が恋しくて恋しくて、というトピックがよく上がるけど、恋しくない人はいるかというのは初めてで、おお、けっこういる、いる。日本が窮屈だったから。日本で疎外感があったから。いじめられていたから。機能不全家庭で育ったから。恋しくない理由はいろいろだけど、日本が嫌いだからという人はいない。みんな「日本は懐かしいけど(日本という国・社会は)恋しくない」。ワタシの場合は、日本を離れて初めて日本人が語る「日本」をよく知らない自分を思い知ったということもあって、知らないものは好きにも嫌いにもなれないので恋しいと思う以前のことかもしれないけど、「生まれ故郷(北海道)」はやっぱりいつまでも懐かしい。恋しいとは思わないのは、故郷が遠い昔の記憶になってもう「帰るところ」ではなくなったからだろうな。日本を離れて長く、定住地での生活が確立している人たちの書き込みが多いのも、たぶんそうした心境に達したということだろうと思うけどね。人間いたる所に青山ありっていうじゃないの。
何だか妙に元気付いたような感じがして来たところで、ちゃっちゃと仕事をやっつけてしまおう。明日の午後が期限だってのに、だらだらしている暇なんかないのだ。ま、まずは真夜中のランチで腹ごしらえをしてからだけど・・・。
親は子を捨て、子は親を捨て
8月3日。火曜日。まだ、ちょっと暑い。薄雲が広がって、外はかなり蒸し暑いらしい。なんだかずっと暑い、暑いと騒いでいるようにも思うけど、まあとにかく今年は全体的に暑い。雨なしは今日で31日だそうな。ただし、58日という記録には遠く、遠く及ばないのは幸いというか。
朝食もそこそこに、いつのまにか2つになっていた今日の午後が期限の仕事の仕上げ。なかなか気合いが入らないんだけど、とにかくやらなきゃ商売上がったりだから、がんばるっきゃない。ということで午後いっぱい一心不乱?にがんばって、無事完了。がっくりくたびれた気分。どうしてかなあ。体は元気なんだけど、とにかく気持がぐずぐずしてついて来てくれない。どうしてだ?
ママの骨折した大たい骨の手術が無事に終わって、もうホームに帰りたいと周囲をせっついているらしい。しらばらくは自力で生活するのはもちろん無理なので、(ひとり暮らしの)ジムがガールフレンドのドナが通って来て介護するから自分の家に来ればいいと提案したら即刻却下されたとか。まあ、政府から身の回りの世話をするためのヘルパーが派遣されるらしいから、ママにとってはホームの自室で好きなように過ごす方が気楽でいいということか。
テレビでは、年老いた女性が子供のときに捨てた4人の息子たちを相手取って生活費を請求する裁判が11年も続いているというニュース。母親が行方をくらまし、当時15歳だった息子のひとりは自活するために学校をやめて働き、今は妻と共に細々とビジネスを営んでいるという。BC州では子供に親の扶養義務を課した法律があるそうで、第二次世界大戦前の大恐慌の時代に作られたまま、他の州ではすでに廃止になっているのにそのまま残っていたらしく、それを盾にひとり月750ドルを要求しているんだそうな。15歳のときからひとりで生きてきた息子は、それでは自分たち夫婦の老後どころか子供たちの将来まで犠牲にしなければならないからと戦う姿勢で、その話を聞いた弁護士が無料で弁護を引き受け、政府も急遽法律の廃止を検討し始めたとか。親の仕送りで大学を出たおかげで成功して裕福に暮らしているというのならまだしも、今さら身勝手に捨てた子供たちの前に現れて生活費をよこせと訴訟まで起こすなんて、そりゃあないんじゃないかなあ。
一方、日本では所在も生死もわからない100歳を超えた高齢者たちがかなりいるらしい。だいたい、厳格な戸籍制度や住民登録の制度で国民の動向を追跡している日本で何年も生死さえわからないままの人がいるということ自体が不思議だけど、お役所はいったい何をやってるんだろうな。今は年老いた娘や息子に聞けば「出て行った」と、100歳になろうという親が出て行ったきり帰って来ないのにちっとも心配じゃなかったような説明。年令からしておそらく所在不明の人たちはとっくに死んでいるだろうけど、いったいどこでどんな風に一生を終えたのか。残した屍はどうなったのか。子供たちがネグレクトや虐待で次々と命を絶たれたり、年老いた親がどこかへ行ってしまっても我関せずだったり、集団社会の最小単位ともいえる家族の結びつきこんなにも希薄なものなのかと思うと、もう結婚する意義も、子供を育てる意義もなくなったような感じさえして、なんだかやりきれない・・・。
頼る子供のいないワタシ、カレシしか身寄りのないワタシだから、親の扶養を義務づける法律があってもなくてもどうってことはないか。だけど、独居老人が誰にも気づかれずに孤独死していたのが見つかったという話は聞かないから、(そういうことがまったくないわけではないだろうけど)いつかワタシもうんと年を取ったら、ワタシの政府がヘルパーを差し向けてくれて、ボケたら施設に入れてくれて、死んだら無縁墓地のようなところに葬ってくれるんだろうと、極楽とんぼ的に楽観しているけどね。まあ、カナダの役所は意外におせっかい焼きだから、少なくともどこかで生きているのかどうかもわからないまま何十年なんてことにはならないだろうけど・・・。
近いようで遠いような
8月4日。水曜日。今日も暑くて、今日もなかなか気合いが入らない。困ったなあ。明日の夕方が期限の仕事があるのに、大丈夫なのかなあ。と思いつつ、仕事にかかろうと思っても、頭が半分眠ったまま。というか、いくら揺すっても目を覚ましてくれないような感じ。あんがい頭じゃなくて、体のどこか別のところで「目を覚ましたくな~い。このまま眠っていた~い」と言っているのかもしれないけど、それでは困るんだよなあ、やるべき仕事があるんだから。仕事をやって、お金をもらって、それでご飯を食べて生きてるんだから・・・。
日本のメディアが刻々?と報じる所在不明の超高齢者の数をアメリカやヨーロッパのメディアは「feeding frenzy」と評している。サメの群れが大きな餌に競ってかぶりつく狂乱状態のことで、media frenzyとも言って、要は過熱報道合戦のこと。でも、日本のメディアの関心は家族や社会の絆の破綻に向いているけど、海外には「日本人の平均寿命は世界一」という統計に疑問を投げかける記事があって、視点の違いがおもしろい。たしかに、人口1億2千万人の国に100歳以上の人が4万人以上いたら、平均寿命の計算にかなりの影響があるとだろう。その数の中に実はとっくに死んでいる人たちがたくさんいるとしたら、政府が世界に発表する統計の信憑性が崩れてしまいそうだな。まあ、役所が問い合わせても回答や接触を拒否する人たちが多いそうだから、人口統計なんかよりもっともっと大きな問題がもっと根本的なところに潜んでいるように思うけど。
おりしもバンクーバーでは、カナダの犯罪史上最悪の連続殺人と言われる事件で、裁判で提示されなかった証拠や証言の公開禁止命令を解除する判断を示した。裁判そのものは郊外で養豚業を営むロバート・ピクトンという男が6人の売春婦を殺害した罪で第二級殺人で有罪になった事件。連邦最高裁が被告の再審請求を却下したことで、州の検察がさらに20人の売春婦の殺人についての起訴を取り下げ、今日の解禁になった。この事件では、カナダで最も貧しい地区といわれるダウンタウン・イーストサイドから何十年もの間に何十人もの女性たちが行方不明になったのに警察も行政も動かなかったことが明るみに出た。多くは十代のうちに機能不全家庭や虐待を逃れるために家出したものの、助けを得ることができないまま酒やドラッグに溺れて売春婦になった女性たちだった。家族から捜索願が出されていた女性たちもかなりいたそうだけど、警察も行政も相談されても肩をすくめるだけで腰を上げなかったのは彼女たちが社会の最底辺で生きていた人たちだったから。陰惨な事件が明るみに出たことで、福祉活動家たちが支援に乗り出したし、警察も対応の誤りを認めて謝罪したけど、行方のわからない女性たちのいったい何人がピクトンに殺されたのかは永久にわからないだろうな。
いなくなった人が20代、30代、あるいは40代なら、どこかで働いて暮らしているんだろうくらいに思って放っておかれてもしかたがない場合があるかもしれないけど、10代の子供や高齢の親のような自力で生活できない年代の家族が姿を消してもそのまま何もしないというのは、やっぱりおかしいよね。家族って何なんだろうと思ってしまう。読売新聞の調査では、親類との付き合いも近所づきあいも半数以上が「礼儀を欠かない程度」と答えたそうだけど、この「礼儀」って何だろうなあ。冠婚葬祭のような「義理」を果たすことなんだろうか。同じ調査で半数以上がひとり暮らしになって誰もめんどうをみてくれなくなる「不安」を感じていたという結果はどう解釈すればいいんだろう。家族の絆も、人と人のつながりも・・・ほんとにいったいどこでどうなってしまったのやら。
燃え尽きたくはないのです
8月5日。木曜日。目が覚めたとたんから、今日は暑いぞという予感。ダウンタウンでは正午前にもう気温が25度を超えていた。それでも今年はまだ夜通しエアコンをかけずに過ごせているからから、去年に比べたらまだましなんだけど、いやあ、やっぱりあっつい。なぜか寝つきが悪くて、しっかり眠れなかった後はよけいに暑くて、体の芯から疲労感が漂ってきそう。
きのうは仕事を終わらせようとがんばったんだけど、力が出なくて1時間くらい横になってしまった。その後でふと思いついて血圧を測ってみたら朝よりも低くて、下はなんと52。いつも低めなのは確かだけど、下が60を切ることはめったにない。何なんだろうね。そういえば、ここのところつらつら考えることが何となくくら~い感じだったりするなあ。ウツっぽくなるような要因は特に思いつかないんだけど、まあ、別にめまいがするとか、寒気がするとか、朝起きられないといったことはないから、たぶん大丈夫なんだろう。けさはちゃんとフツーに107/66だったし・・・。
今日の空模様は曇っているのかいないのかイマイチはっきりしない。土曜日に待望の雨の予報だけど、これはその先駆けの雲というよりは、内陸部のあちこちで燃え盛っている400ヵ所以上の森林火災の影響だとか。何千、何万ヘクタールという大規模な火災で巻き上げられた煤が流れてきて、大気の質が低下したために、メトロバンクーバーにも呼吸器疾患のある人に注意報が出ている。(今年の森林火災消火の予算はとっくに使い果たしてしまったとか・・・。)
何はともあれ、朝食もそこそこに、午後5時の納入期限に向けて大車輪。やる気が出ないとか、気合いが入らないとかグチグチ言っていた割にはピッチが上がって、間に合うかと懸念した仕事は20分の余裕を残して納品。やれやれ、切羽詰らないとギアアップできないとしたら考え物だな。だけど、なのだ。指定された「変更部分」だけやればいいといっても、手をつけなくていい部分があまりにもこてこての日本語的英文なものでやりにくいことこの上ない。ググり回って見つけた貴重な参考資料も「ん?ん?ん?」な英文だからよけいにやりにくい。ワタシはこれでも一応は日本語ネイティブだから、ああ、日本語ネイティブが英訳したんだなとわかる。そんなときいつも思うんだけど、どうして高学歴の英語ネイティブに少なくとも文法チェックくらいは頼まないんだろうなあ。そんなこと、英語が「できる」日本人のプライドが許さないのかもしれないけど、正直なところネットに載せられるレベルとは言えないし、これで料金をもらうなんてとんでもないと思ってしまうもん。ま、人さまのことだからいいけど、やっぱり、あ~あ・・・。
ふむ、こんなことをグチグチ言ってるからウツっぽくなるのかなあ。この頃はなんだか愚痴っぽくなったような気がしないでもない、とちょっと反省してはみるけど、この仕事、20年以上もやっていたら、駆け出しの頃のような知らぬが仏の怖いもの知らずのガッツが失せてしまってもしょうがないかもしれないな。でも、二度目の燃えつきだけは何が何でもゴメンだな。もっとも、どうみたって燃え尽きてしまいそうなペースでは仕事をしてないんだけど、つまり疲れてウツっぽくなるのは寄る年波のせいってこと・・・?ま、いよいよあしたは半年も前から特上席のチケットを買って待っていたシルクドゥソレイユのKOOZAに行く日。日本はもう金曜日の午後になっているし、神様、守護天使様、どうかこの週末は仕事が入ってきませんように・・・。
シルクドゥソレイユはこうじゃなきゃ
8月6日。金曜日。ちょっとだけ涼しげな感じ。天気予報はまだ明日には待望の雨が降るとか、降らないとか言ってるけど、ま、それを信用するかしないかは明日になっての話。そういえば、ヴァルが知り合いのお嬢さんとやらが明日の土曜日に市内のヴァンデューセン植物園で結婚式をするんだと言っていたっけ。夏の花が咲き乱れる植物園での結婚式かあ・・・雨、降らないといいね。
朝食が済んで、メールを開いたら、あっちゃあ、仕事だ!もう、神様にいいですから~って言ったのになあ。送信時間を見ると、日本時間午後7時すぎ。そうか、店じまいと入れ違いに入って来たのか。それにしても、日本の会社は社員に残業をさせすぎ!ちょっとなの通ったような会社で誰かが残業すると、連鎖で関係のあるところがみ~んな残業をせざるを得なくなるらしい。電車が30秒遅れただけで大騒ぎする国なのに、時間の「価値」のとらえ方がどこか違うんだろうな。やだなあと思いつつ、参考資料と一緒にファイルに保存したら、あちゃ、別のところからも仕事だ!もう挟み撃ちだ。まあ、あわせても半日程度の仕事だからいいんだけど。週末にお仕事でスミマセン・・・なんて、ほんとはそんなことぜ~んぜん感じてないないんでしょ?ね、ね、すなおに白状しちゃいなさいって・・・?
シルクドゥソレイユの開演は8時だけど、VIPパッケージのラウンジは7時に開いて、お酒が飲み放題、ちょっとしたオードブル食べ放題。(ほんとは食べるよりは、VIP専用の駐車場とトイレがあってめんどうがないのが魅力なんだけども。)入り口でタグを首にかけてもらって、(これもパッケージに込みの)記念プログラムをもらって、シャンペンのグラスを渡されて、開演までギフトショップを眺めてぶらぶら。独特の衣装やメークを反映してTシャツのデザインもかなり斬新だけど、ふむ、Tシャツはもう何枚もあるし、クリスマス飾りもいくつもあるし・・・と思っているうちにすぱっと目が合ってしまったのが30センチ四方くらいの一枚のミックスメディアの絵。カレシとああだこうだ言っていたら、ショップ担当のお兄ちゃんが寄ってきて「お買い上げ品はショーが終わるまでお預かりしておきますよ」と、悪魔の囁きみたいなことを言う。そうねえ、9割がた誘惑されてるんだけど・・・。
半年前に買った席は前から2列目のど真ん中。開演時間のちょっと前に大きなテントの中の席に着くと、さっそく道化師たちが場内を駆け回って雰囲気を盛り上げにかかる。「Mad Dog(キチガイ犬)」という名前の着ぐるみのワンちゃんがステージの端で足を持ち上げたかと思うと、カレシのすぐ横の通路にシャーッ!KOOZAは前評判の通り、シルクの「原点」に立ち戻ったような構成。かってフランコ・ドラゴーネと肩を並べてシルクのクリエイティビティのブレーンだったデイヴィッド・シャイナーが古巣に戻って来て作ったのがKOOZA。なるほど。2人がシルクを離れてからは徐々に「シルクらしさ」がなくなっていくような感じがしていたけど、やっぱり企業的なメカニズムでの「創造」は難しいということなんだろうか。
シルクドゥソレイユを楽しみたかったら、他の曲芸団やサーカスと比べて技術的のどうのこうのと論評するのは野暮ってもので、テントの外の世間などすっかり忘れて、感覚に身を任せて、思いっきり笑って、思いっきり息を呑んで、思いっきり童心にひたるのが一番。ほんとに、これこそシルクの真髄とでもいうのか、感動的だったAlegriaに次ぐすばらしさ。キャストにロシア名前が多いのは、ソ連崩壊で生活の場を失ったサーカス芸人たちがシルクの戸を叩いているからだろう。ロシアの損失はシルクの利益ってことか。涙が出るくらい笑って、手が痛くなるくらい手をたていて、休憩時間にはとうとう件の絵に100%誘惑されて買ってしまった・・・。
北米ではママに叱られた子供が「ボク、家出してサーカスに入っちゃうから!」と脅しをかけるのが昔からジョークの定番になっているけど、こんなサーカスだったら入ってみたいような気もして来るなあ。まあ、仕事は明日までお預けってことにして、今夜は楽しい夢を見て眠ろう。
器はどれくらい大きくできる?
8月7日。土曜日。目が覚めて、ん、なんか涼しいぞ?という感じ。おお、雨だ、雨が降っている。雨が降るのは33日ぶり?34日ぶり?カレシは「庭に出てみろよ、気分がいいぞ~」とはしゃいでいる。スモッグやら森林火災の煤やらで、晴れているはずなのに背後の山並みがぼうっとかすんで見えたていたから、ほんとはもうちょっと本格的な雨降りだといいんだけどな。
ウィスラーからペンバートンを過ぎてさらに北へ65キロのミーガー山のカプリコーン氷河が溶けて、とてつもない規模の「岩なだれ」が起きて、土砂がミーガークリークとリルエット川をせき止めたために、長さ1キロの「湖」が出現したとか。秒速30メートルで斜面を流れ下った幅300メートル、長さ2キロの土砂の量は4千万立方メートル。ダウンタウンにあるスタジアム15個分というけど、ちょっと想像しがたいな。ここは火山性の地質の上に氷河が載っていて、地盤が不安定で、ちょくちょく土砂崩れが起きるらしい。川をせき止めたダムは徐々に崩れて一気に崩壊する危険はなくなったとかで、下流で一時出された避難勧告は解除されたそうだけど、雪崩の現場の写真を見ていると、「現場」という言葉ではとうてい言い表せない規模で、ほんとに自然の力は驚異的としか言いようがないと思う。
自然の力に抗えないからなのか、その中で生きる人間はなんだかんだ言いつつ身近なところでしか自分の威力を発揮できないのかなあと思うことが多々ある。どうしてそう見えるのかという説明はエライ専門家にやってもらうとしても、自分という「よりどころ」がないか、あっても信頼できないでいる人ほど、何か痛いところ(=コンプレックス?)に触れられると猛烈に他人を攻撃するきらいがあるように見える。このあたりは小町の井戸端会議を「傍聴」していて常々思うことではあるけど、あんがい自分が一歩下がってみるまでは割と気づかないんだろうなと思う。つまりは痛いところを客観的に見てみるということなんだけど、なにしろ、意識している、いないにかかわらず(常に気になっている)痛いところに触られたもので、その痛さをがまんできなくて、一歩どころか半歩下がるさえままならないという人たちもいるだろうな。
ひと昔前に大衆心理学で「I’m OK. You’re OK」という表現が流行った。つまり、自分という人間を肯定できれば他の人間も肯定できるということで、ワタシもたくさんの本をドクターに読まされたし、自分でも求めて片っ端から読んだ時期がある。たしかに、「私はこういう人間で文句ないよ(I’m OK)」とすなおに言えたら、目の前に現れる人それぞれに「それがあなたという人間だから(You’re OK)」と言えて、どんな人を相手にしてもかなりうまく対応でできるんじゃないかという気がする。それが「器」と呼ばれるものであるのなら、人間の器の大きさは(4千万立方メートルは無理だろうけど)誰だって広げようと思えば広げられるものなのかもしれないな。だったらどうして自分の器を広げようとしない人が多いように見えるのか。ひょっとしたら、他人ばかり、他人に映る自分ばかり、あるいは他人と比較した自分ばかり見ているから、自分と他人の間の線引き、つまり心理学でいうboundary(境界線)がぼやけてしまって、どれが自分の器なの区別がつかなくなった状態なのかもしれない。自分と他人どころか、自分と「集団」の間の線引きさえあいまいになっているような人もかなりいるけど、そこまで行ったらどんな社会に身をおいても生きにくいんじゃないかなあと、よけいなお世話ながら考えてしまう。まあ、例によって、仕事にかか
る前のワタシの雑念雑考・・・。
ここのところ何となく冷蔵庫の冷凍室の凍り具合が悪いなあと思っていたら、中のものがほとんど半解凍の状態になっていた。あわてて貯蔵フリーザーに移したけど、今日は土曜日だから、修理屋に連絡がつくのはあさっての月曜日。誰かが来てくれるまでに少なくともさらに2、3日。修理屋が来たところで、前の冷蔵庫のときのように「あと数日の寿命」なんてことにならないとは言えない。あのときは翌日すぐに新しいのを買いに行って、それが届く前日に「寿命」になった。夕食のしたくをしながらああだこうだ相談して、前からもうひと回り大きいのが欲しいと思っていたからこの際、ということでとんとん拍子に明日新しいの買いに行くことになった。
それにしても、カレシのPCも瀕死の状態で、前にも似たような現象があったけど、家の中のものってどうして申し合わせたように同じ時期にいっせいに壊れるんだろうなあ。「同じ組合だからかな」と、緊急事態にしてはキレるどころかえらく鷹揚に構えているカレシ。はあ・・・?
誕生日に新しい冷蔵庫
8月8日。日曜日。まだちょっと雨が残っているような空模様。ポーチの気温は正午でやっと13度。大気汚染注意報は解除だそうで、涼しいけど、空気は清々しい。夏、ひと休み・・・。
ゆうべは冷蔵庫の突然死騒動で、完全に解凍してしまったコーンを捨てるのがもったいなくなって、なぜか午前4時にスープ作り。熱いまま鍋にふたをして就寝。カレシは大きな容器に少しだけ残っていた白キムチがもったいなくて、その場で全部食べてしまったら、一晩中「ああ~」だったそうな。ほんっとにもう、あわてて全部食べなくたって小さい容器に移せば、予備の冷蔵庫に何とか保存できたのに。だけど、ワタシが仕上げなければならない仕事と取っ組み合いをしている間に、頼まれないうちから急遽(自分の野菜専用の)冷蔵庫の霜取りを決行して、牛乳や卵を収容するスペースを作ってくれたからエライ。うわっ、ありがと、ありがと。助かったあ~。
一夜明けた冷蔵庫。こっちはほんとにもうダメだ。一応はまだ稼動しているんだけど、冷凍庫はちょっと低温の冷蔵庫に、冷蔵庫はピクニック用クーラーにダウングレードしたような状態。それならば、とカレシの冷蔵庫に入らなくて残されてしまった「できればキープしたいもの」を救出して「冷蔵庫に変身した冷凍庫」に移動して、朝食もそこそこにリッチモンドにあるひいきの家電の店へ直行。前回は収納場所の寸法を測らないで行ってひと回り小さいのになってしまったから、今度はリボンを渡して結び目で印をつけて万全の準備。ショールームで見るとどれも家で見るよりは大きく見えてしまうんだよねえ、なぜか。ショールーム心理学なんてものがあるのかどうか知らないけど。
ショールームではずらっと並んだ冷蔵庫にリボンを当てては「小さいなあ」。まあ、中が効率よく収納できるデザインなら今のと同じサイズでもいいんだけど、使いにくそうなものもけっこうある。そういうのに限ってやたらと値段が高いの、ワインラックだとか、何だとか、よけいな機能を満載しすぎたせいかな。多様化する(おしゃれな)ライフスタイル向けのデザインということなのかもしれないけど。最終的に選んだのは韓国のLG社製のシングルドアで冷凍庫が下についているモデル。壊れたのよりひと回り大きくて、容量は上と下で合計700リットルくらい。冷凍庫は引き出し式になっていてなんとなく使いやすそう。製氷皿を置く浅い引き出しもあって、製氷装置が見えた。外してもらおうと思ったんだけど、メーカーが生産を終了したので、これが最後の在庫品だから、300ドル値引きすると言われて、製氷装置のことはケロッと忘れることにした。
月曜日に現品を店から倉庫に移して、火曜日にドアの開きを変えて(料金25ドル)、水曜日に配達(配達料60ドル)。壊れた冷蔵庫の撤去料が20ドルで、合体した売上税12%が加わって、しめて2千ドルなり。ノートブックが2台買えてしまいそうな値段だけど、もうひとつ「これは?」と思ったひと回り小さいモデルに比べてなぜか消費電力も少ないようだし、冷凍冷蔵庫はもう必要不可欠の生活必需品だからしょうがないな。まあ、この不便はあと2日の辛抱・・・。
今日はカレシの誕生日なのに、冷蔵庫騒動のあおりでお祝いは延期。ええっと、今日からいくつだったけ、あなた?「39才だよ」とカレシ。じゃあ、騒動が落ち着くまであと何日かは38歳を楽しめるってことよね。「うん、急いでないからね」とカレシ。それにしても、しげしげと見たらなんと10年前よりもずっと若々しくてイイ男になったよねえ。ワタシはタテマエ主義者じゃないから、もちろん本音。正真正銘のホンネだってば!ワタシがそう言ってるんだから、ちょっとは喜んだらどうなの、アナタ?そういえば、先だってのディナーパーティでは、「5歳しか違わないのに、年の差婚だと思われて困る」ってヴァルとリッチにこぼしたら、ヴァルに「20歳以上違ってそう」と言われて、「たった5つしか違わないのに~」と口をとがらせていたねえ、アナタ。アジア人の嫁をもらったら、若いときには年が釣り合っていても、年を取るにつれて「見た目の年の差」がどんどん開いてくるってことなんだろうな。ま、オレはずっと年下の女に惚れられるくらい魅力的なんだ、ざま~みろ!と胸を張って歩けばいいんじゃない?とりあえず、ハッピーバースデイ!
それをいっちゃおしまいなの
8月9日。月曜日。2人ともけっこう良く眠って、目が覚めたらもう正午過ぎ。日が差していないせいでベッドルームが暗いせいもあるかもしれない。今日もまだちょっぴり小雨模様。最高気温は15度まで上がるのかどうか。でも、窓の外の緑はほこりを落としてさっぱりして見えるからいいな。雨が降らずに暑い日が続くと、緑もしんなりとだれてしまって、よけいに暑苦しく見えるうもの。
きのうはプラス2度くらいだった冷凍庫内の温度が10度まで上がっていた。モーターは動いていて、風は回っているんだけど、ちっとも冷たくない。あ~あ、これじゃあ冷蔵庫にもならないよ。ひょっとしたら故障の原因は冷凍庫の自動霜取システムの異変かもしれないな。何がおかしいのか、ちょっと端っこを押しただけで大きな冷蔵庫全体がキコキコと変な音を立てる。バラバラと分解しちゃうんじゃないだろうなあ。まさかとは思うけど・・・。とにかく、あさっての午後までの辛抱なんだからがんばってよ、と言ってみたところで始まらないか。たまたま天気が崩れて急に涼しくなったのがもっけの幸い。ワタシの人生、やっぱり「たまたま」で成り立っているみたい。
さて、朝食が済んだところで、久しぶりに洗濯機を回しながらの仕事、仕事。でっかい買い物をしたから、がっちり稼がなきゃね。今日は何となくエンジンのかかりぐあいがいいのは、きのうの閉店間際にいやでも目が覚めるような知らせが来たせいかな。少々大きめのちょっと変わった翻訳プロジェクトを受注したと言うお知らせで、サンプルを担当したワタシにという話。これ、なにしろ対象となる読者が特殊だから、すっごく難しいんだよなあ。だけど、だけど、無名の絵描きが展覧会で金賞をもらったような、売れない小説家が思いがけず芥川賞をもらってしまったような、なんだか「認められた」という気がして、頭がふわ~っとなるくらいにうれしいな。これから数ヵ月、「ワタシのエベレスト」の頂上を目指して、武者震いして、気合いを入れてがんばらなきゃね。
この有頂天の気持をしばらくじっくりと味わっていたいんだけど、とにかく目の前にある仕事を片付けるのが先決。まずは今どき日本の職場環境や対人観がちらりと垣間見える文書。いろいろあるんだなあ、ややこしいんだなあ、めんどくさいんだなあ、大変なんだなあと、つらつらと思いながら粛々と訳して無事に完了、納品。次の仕事にかかる前にひと息ついて、ぶらぶらと小町横町を散歩。タイトルを見ただけで、いろいろあるなあ、ややこしいなあ、めんどくさそうだなあ、大変なんだなあと思うトピックが相変わらずだけど、「あれ、まずいんじゃないの」と思ったのが『日本人がかわいそうと思うとき』というトピック。すごい数の書き込みを見ればわざわざ開けてみなくても、トピックの主が袋叩きにあっているだろうとは想像できる。小町横丁では、海外在住の日本人が(居住国と比べて)日本や日本在住の日本人のことを「悪く」言うのはタブーなんだけどな。(逆は大いに結構らしいけど・・・。)
この「かわいそう」という言葉、いくつか違った意味合いがあるように思うんだけど、元々が複雑な感情のものでなかなか難しい。和英辞書を見れば「かわいそう」に相当する語がたくさんある。大きく分けるなら、相手が対処しかねているかもしれない「痛み」を感じ取って、何とかしてあげられないものかと思う「かわいそう」と、相手がその気になれば対処できる欠点や難点をあげつらって、自分がそうじゃなくて良かったと思う「かわいそう」の二通りの目線があるように思うけど、小町横町の住人が「かわいそう」というときはたいていが後者だな。たぶん、このトピックの主も「日本人なのに故国を貶すなんて、外国かぶれのかわいそうな人なのね」と、さんざんに言われているんだろうな。「それをいっちゃあおしまいよ」と言ったのはフーテンの寅さんだったっけな。
ワタシもよくあれこれと日本のことを話題にするけど、大変じゃないのかな、窮屈じゃないのかな、生きにくくないのかな、めんどうじゃないのかなと、野次馬的なことは考えても、「日本人はかわいそう」とは思わないなあ。だって、日本は民主主義の国で、みんなが変えようと思えば社会の仕組みなんかいくらでも変えて行けるのに(表層的な現象以外は)変わらないように見えるということは、変えたくないか、あるいは今のままで過不足なしという人が多いってことだと思う。だったら、かわいそうなんて言葉はお門違いってものでしょうが。
たぶん、もしも誰かが「医療制度も何もかも(日本と比べて)劣悪で、カナダ人はかわいそう」と言ったら、ワタシはたぶん「へえ、そう見えますかねえ」と言うだろうな。だって、傍目にはもどかしく見えるかもしれなくても、カナダ人はカナダ人なりにのんびりやっていてそれなりにハッピーだし、民主主義もまともに機能しているし、よその国と比べて「劣って見える」ところがあるからって、自分たちはかわいそうだなんて考えたこともないだろうと思うなあ。人間は自分のことがうまく行っているときには他人に対してすごくやさしくなれるもんだから、(自分たちに比べて)よその国の人たちはかわいそうだとひそかに思うことはあるだろうな。誰も彼も人間のはずだから。
死力を尽くしてがんばれよ
8月10日。火曜日。正午を過ぎて目を覚ましたら、うん、今日はかなり明るい。急に暑くならないといいけどと思いつつ、起きて瀕死(というかとっくに脳死状態)の冷蔵庫をチェック。下の冷蔵庫はすでに室温に近い温度になっていて、ただの戸棚も同然。上の冷凍庫はなんとか17度。これじゃあ冷蔵庫にもならないけど、少なくともまだそれほど冷やさなくてもいい食品を入れておける。家電屋からのメッセージが入っていて、明日の冷蔵庫の配達予定を確認の上、到着の30分ほど前に連絡するとのこと。おい、明日の午後までだよ、明日の午後・・・。
きのうは引き受けた大きなプロジェクトをワタシが「勝ち取った」みたいに持ち上げられて、すごくウキウキしてはしゃいで、おかげで今日はその前の仕事にかかったばかりなのに、もう何となくくたびれた感じ。いいのかなあ、こんなんで。頭の血の巡りを良くしたほうがいいんじゃないのかなあ。そのためには、そこいらをぐるっと走って、もうちょっと血圧を上げないといけないんじゃないかなあ。なんか武者震いなんて気取っている場合じゃないような気がするんだけど。
加齢現象のひとつなのかどうかはわからないけど、ときどきは「もういいよ~」という気分になる。まあ、人生、60年を超えて、その間には険しい山も越えたし、谷の底を這いずり回りもしたし、そのおかげで山頂からの眺めも楽しんだし、谷間の穏やかな風景にほっとしたりもしたから、これもまたその山か谷か森の中ってことなんだろうと思うけど、今はやっぱり「もういいよ」と座り込みたい気分かな。ほんとに「ワタシのエベレスト」になるかもしれない仕事が目の前にそびえていると言うのに、どうしてなんだろう。定年まであと何年と指折り数えている人たちも、きっとこんな気分なんだろうな。人生にじゃなくて、仕事をすることにちょっと疲れてきたのかもしれない。指を折って数えてみたら、ワタシも「定年」まであと2年と8ヵ月と2週間になった。
まあ、そのときになってみたら、「まだまだやれる」なんて腕まくりしてしまうかもしれないけど、現役でいる間はちゃんと仕事をしよう。ふむ、なんだか瀕死の冷蔵庫の最後のがんばりをほめてやりたくなってきた。おい、明日の午後までだからね。明日の午後まで、気力を振り絞って、死力を尽くしてがんばれよ・・・って、なんだか日本人的でもあるような。ま、ワタシもがんばるか・・・。