リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2009年4月~その1

2009年04月16日 | 昔語り(2006~2013)
客が欲しいといってるのに

4月1日。今日はまた一転して雨。4月にしてはやたらと寒いなあと思ったら、掃除に来たシーラとヴァルが「ダウンタウンは雪が降っていた」と言うからびっくり仰天。まさか、エイプリルフールのジョークじゃないよね。違うと言ってえ。だけど、冗談じゃなくて、ちょっと高いところは本格的に雪景色になっているらしい。

掃除をしてもらっている間に、トヨタディーラーの整備工場から電話があって、カレシとエコーを引き取りに出かけた。「オルタネータは問題なし。バッテリもひと晩充電したら問題なし」だって。つまりバッテリは取り替えてくれなかったってこと。「トヨタは故障していない部品は取り替えないんです」と。へえ。自動車用品店に応急で充電できるものがあるからそれを買って、できるだけ車を「外へ連れ出しなさい」と。最近の電子機器や防犯機器満載の車はまとまって走らないとバッテリが上がってしまうらしい。ハイブリッド車などはコンピュータ装置がいくつもあるからもっと大変で、「うちの親父は充電器を手放さないんですよ」ということになるらしい。へえ、そうういことなら・・・と、考え直す方クラクラとに傾いて行くカレシ。こら、待て・・・

あのねえ、家にこもって仕事をしている極楽とんぼは時間とガソリン代をかけて当てもないドライブにでかけるのはめんどうなの。(カレシがひとりでまめに行ってくれるとは思えないしね。)たとえ月に一回でも、極楽とんぼの時間の価値とガソリン代を合計したら、毎年バッテリを取り替えた方がずう~っと安上がりなの。そもそも、最初の2年はひと月使わなくてもぜんぜん問題なしだったの。一度完全に干上がってから問題が起きるようになって、だんだん間隔が短くなって来たの。次にでかけるときにエンジンがかかるって保証がないの。あのね、充電器も買うし、たまには遠出もするから、とにかくつべこべ言ってないで新品のバッテリに換えろっつうの!

あっちの方へ傾いていたカレシ、「彼女の車だから・・・」と変な援護射撃。待つこと10分ほどで新しいにバッテリを取り付けてもらい、外した方を「予備」にするつもりで持ち帰った。まあ、トヨタとしても、資源の「ムーダ」をなくすのが使命だそうだし、車の整備工場は長年に不要の「修理」をしてぼったくるという悪評が定着していることもあるし、近頃の消費者は不景気の前から「高い!許せない!」みたいに安くて当然という風潮(ウォルマート主義)があるから、「取り替えましょう」と積極的には言えないのかもしれない。でも、ものやサービスの価値は「値札」だけじゃなくて、時間や必要性やふところ具合や、その他いろんな要素の兼ね合いで判断するのが極楽とんぼの財政方針だから、頭の中でそろばんを弾いて「OK」と決定したら、後出しの文句は言わない主義なんだけど、まあ、向こうも客商売だから客が望んでいそうなことを言うのはあたりまえかもね。

これで当面は、いざ出かけるというときに「!」ということがなくなって安穏かな。ほんとにたまには二人で遠出するのもいいね。雪だの何だのといっても、春たけなわの4月。極楽とんぼは春とんぼだもんなあ・・・。

言霊に祟られないように

4月2日。良く眠れないままで正午を過ぎてしまった感じがする。ニュースを見たら、株価は上がる、カナダドルは上がる、住宅販売戸数は上がる。景気まで春の気配なのかな。不動産の価値が暴落すると騒いだ割にはメトロバンクーバーでは8%しか下がっていないそうな。そのせいかどうか、3月は住宅の販売戸数が急増したという。模様眺めをしていた人たちが「もうこれ以上は下がりそうにない。金利が低い今のうちが買いどき」と判断したのかもしれない。ニュースで見る限りでは世界規模の不況なのはたしかだけど、どこへ行っても深刻さがほとんど感じられない。このまま不況前線が消滅するんじゃないのかなあ。

夕べ久しぶりにでかけた芝居が深層で何かを触発したのか、頭の中をいろんなことが駆け回って、なかなか眠りに落ちることができなかった。演目はトム・ストッパードの『The Real Thing』。劇作家でインテリのヘンリーと女優で活動家のアニーのカップル。いきなり劇中劇で始まって、おしまいまで現実のストーリーと劇中劇がめまぐるしく交差する。アニーが釈放運動をしている若い反戦活動家が書いたドラマの脚本をめぐってヘンリーとアニーが口論するシーン。(後でわかるけど)この活動家は粗野で尊大な若造でしかないから、原稿はどうにもならない駄作。それをアニーはヘンリーに手直しするように要求して断られる。作家は神聖だと思っていると非難するアニーに、ヘンリーは「作家が神聖だとは思わないが、言葉は神聖だ」とやり返す。

うん、これはすごく意味深遠なせりふだ。言葉は人間が与えられたもうひとつの「火」だとすれば、その神聖な火を人間のためになるエネルギーに変えるのが書くことなんだと思う。キリスト教では「風」になぞらえて「風の吹くところ命が生まれる」と言った。この風は「息」でもあり、「気」でもある。日本にだって「言霊」という霊気がある。洋の東西で共通しているのは、「言葉」を得た人類がそのパワーを知ったときに同じように「畏怖」の気持を持ったからだろう。言葉というのは、書いた人のいろんな想いや感情を運んでくれる「風」なんだ。霊気だからこそ、心地よいそよ風にもなれば、大樹をも根こそぎに倒せる暴風にもなる。言葉をおもちゃにして、粗末に扱っていたら言霊の祟りがあるかもしれないなあ。人間同士の意思の疎通が難しくなって行くのは、その祟りなのかな?

久しぶりにかなりの脳内活動を要求されたけど、やっぱり芝居にはテレビや映画では得られない、大きなパワーがある。それはきっと、テレビや映画は映像やコンピュータによる特殊効果のような機械的かつ恣意的に編集可能な手法で作られた視覚中心の二次元の世界で、リアルさを追求するほど虚構が目立つのに対して、芝居は物理的に限られている三次元の虚構空間で無限にリアリティを追求できるからかもしれない。その根底にあるのは息をしている人間が発する「言葉」。だから、心に残る芝居の後はいつも「芝居を書きたい」という火が燃え盛って来る。うん、とりあえず、来月から始まる即興演劇講座の受講申し込みをしなくちゃ・・・。

より軽く、より慇懃に、より激しく

4月3日。言語を生業の種としているもので、毎日のように日本語と英語を見比べていると、否応なしに二つの言語の背景にある心理や社会文化、思考の視点や流れといったことを推理させられる。日本語の文書を英訳して、日本人の校正者から英語表現について、「なぜそういう訳になるか」という質問が飛んでくると、まず原稿の日本語の趣旨を探ることから始めなければならない。なにしろ向こうも言語が生業の種だから、「そういうことになってるんです」では説得力ゼロ。あれこれ考えているうちに、日本語と英語の「視点」や、論理の「重点」のおきどころの違いが少しだけど見えてくる。

ひと口に言語といっても、学問の領域となるとびっくりするくらい多彩な言語学の分野があるけど、極楽とんぼはそういういくつもの分野の言語学をごっちゃにして独学させられているようなもので、教科書を1ページから読んで、教室で教授と向き合って、第1課、第2課というように順序良く学ぶのに比べたら、つまずいて転んだり、袋小路で行き詰ったりの危なっかしい冒険ということになるかもしれない。まあ、それが極楽とんぼ流の学習法で、また楽しからずや。有名な「門前大学」の優等生なんだから。

どんな国でも「国語」という土台があって、そこにはその民族の思想や価値観が凝縮されている。言語は意思伝達の手段だから、それぞれの言語を生み出した人たちが伝えようとした「情報」の意義によって文法や表現法が形成されて行き、その言語集団が地球上を移動して個々の民族を形成して行く過程で、言語も環境や価値観の変化に合わせてそれぞれの民族の言語を形成していったのだろう。その民族がやがて定住して国家を形成すると、その言語に凝縮された価値観が環境や気候といった要素とあいまって民族/国家独特の思想や文化の形成過程を支配する・・・と、門前大学の言語価値観文化論は教える(わけ、ないか)。

いかにも極楽とんぼ流の茫洋とした考察だけど、言葉は民族の「根っこ」だから、地上に茎や葉を伸ばし、花を咲かせ、実を落とす能力がある。身近なところで見ると、言葉や表現はそれを使う個人の思想や価値観、心理状態を反映すると思う。実際には礼儀や序列、社会秩序といった要求条件によって、もろには露呈しない仕組みになっている。でも、隠蔽されるほど露出したくなるのが人間で、だから文芸と言う「花」が咲くんだし、匿名掲示板に書き込まれる言葉に(たとえ作り話であっても)その人の思想や人間観、心理状態がそのまま現れて来る。まあ、隠蔽されるほど見たくなるもの人間の性というもので、小町の井戸端会議がおもしろいのは、そういう一種ののぞき趣味を満足させられるという面もあるのだろう。

文芸が言葉が咲かせる花であれば、新語や流行語も「花」のようなもので、その言葉や表現を使う集団がその時の社会環境や心理状態を吐露していると思う。日本語は昔から「省略語」を多用する便利な言語だけど、今どき流行の省略語には元の言葉から感じる「ストレス」を軽くしようという心理が見える。同時に多くなったなあと思うのが、(子供にまで)「お願いする」、(モノに対しても)「~してあげる」といった実質のない「ていねい表現」。ワンランク上の自分を見せたいのかもしれないけど、浮かんでくるのはユライア・ヒープのような「卑屈な人間」のイメージでしかない。さらに最近は喜怒哀楽を誇張する表現が目立ってきた。感情を制御する「たが」が外れてしまったのか、機械を通した平板なコミュニケーションに依存する反動なのか・・・。

3つの現象を重ね合わせると、すごくストレスがたまっている社会だなあと思うけど、その社会の外で「言葉」だけを見ているからそう感じるのであって、実際には今どきの流行語や用法を潤滑油にして軋む社会を回しているのかもしれないな。

春の陽気に誘われて

4月4日。おお、やっとこさ「春だ!」という実感がする天気。この分だと桜も一気に満開になりそうな勢いだ。今日は朝食もそこそこにトラックの「運動」。郊外のコクィットラムにある園芸センターへ春の庭仕事の材料を買いに出かけた。カレシの両親が住んでいた頃は週末に顔を出すついでにときどき行っていたけど、さらに遠い、遠い郊外に移ってからはとんとご無沙汰だった。

フリーウェイに出てみたら、なぜかバンクーバー方面行き車線がラッシュアワー並みに混んでいて、見える限り果てしなく車の列が続いている。ふむ、何かイベントでもあるのかな。こっちは100キロでぶっ飛ばしているのに、どんどん追い越される。土曜日だというのになんでそんなにせかせかしてるんだろうなあとこぼしながら、一番内側の「HOVレーン」に移った。HOVはHigh occupancy vehicleの頭文字で、要するに運転手以外の同乗者のいる車のこと。標識を見ると、バスと車の絵が描いてあって、車の中に頭が2つあれば2人以上、3つあれば3人以上乗っていなければ利用できないしくみになっている。

HOVレーンは「ホヴレーン」と発音する。あは、英語のイニシャル語は日本語の漢字やカタカナの略語に対応する短縮形式なんだ。突然に合点がいった感じ。日本語の役所や部署、委員会などの正式名はずらりと漢字が続く。(先週やっていた報告書には漢字がなんと25個も並んだお役人の肩書が出てきて、名刺に納まるのか心配になった。)その長い名称もたいていは漢字3つか4つに短縮される。そういう便利さのない英語では昔からイニシャルを使っている。最近は名前よりも先に機能的なイニシャルを考えるくらいで、文字を個別に読まずに「つづり」として発音されるものも多い。9月に開通する地下鉄はリッチモンド、エアポート、バンクーバーを結ぶ線だからRAV Lineで、「ラヴライン」と読む。政府が正式に「カナダライン」と命名したけど、「ラヴライン」の方がすっきりして言いやすい。なるほど・・・話が脱線。

フリーウェイを走っていくと、コクィットラム方面とサレー方面に出口が分かれる。改善されたとはいえ、出口の標識が突然出現するもので、気をつけないと車線変更が間に合わずにサレー方面に行ってしまうことがよくあるけど、長い橋を渡ってから、どこまで行っても回れ右できないから困る。サレーの中心部には行きたくないから、ほんとに「どこま~でも行こう」となってしまう。今日はそれをやってしまったから、30分以上も回り道して、やっとのことのろのろ運転の反対車線に。土曜日でこれなんだから、週日の朝夕のラッシュはさぞかしすごいんだろうなあ。「どうりで運転しながら携帯したり、食べたりするはずよなあ。1時間もじっと前を眺めていられないよ」と、カレシ。

めざす園芸センターはいつのまにかでっかいショッピングセンターの中に取り込まれていた。農地が残っていた周辺も住宅化の波がひしひし。それでも、屋外に並んだ苗や鉢物を見て歩いていたら、どこかで雄鶏のけたたましい声が聞こえた。おお、久しぶりに太陽の光を浴びながら「田園」の気分!カレシの買い物は鶏の糞の堆肥6袋。なぜかホッケー選手の写真。なんかの洒落のつもりかなあ。分厚いビニールの袋に入っているけど、それでもちょっと臭い。トラックだから車内には臭ってこないけど、まあ、これも田園の空気の一部と思えばいいか。

外に出て体いっぱいに日光を浴びるのは本当に久しぶり。道路が混んでいるのは、みんな陽気につられて「どこでもいいから外に出よう」といっせいに動き出したからかもしれない。春というのは、人の気持を軽くする魔力がある。この冬は異常に寒くて長かったから、魔力も強いんだろうな。

ピアノ弾きをいじめないで

4月4日。さて、午後いっぱい春の陽気を満喫して、帰り着いたらもうディナーにでかけるしたくをする時間。今日は久々にBacchus。去年の夏に個室を借りてのディナーパーティ以来というごぶさただけど、いつものようにピアノのそばのテーブルに案内してもらった。不況のはずなんだけど、ラウンジは相変わらずいっぱい。(バカのひとつおぼえみたいだけど、郊外のショッピングセンターでも広大な駐車場には車が溢れていたし、ほんとうに不況の実感がない。)

BacchusがあるWedgewoodはチェーンではない、いわゆるブティックホテルで、有名人がよく利用するらしい。まあ、極楽とんぼは映画やテレビをほとんど見ないから、隣のテーブルにハリウッドスターが座っていてもぜんぜん気がつかないけど、ホテル側はどんなセレブが泊っていても黙っているので、スターたちもパパラッチに煩わされずに落ち着けるから人気があるという。ホテルの向かいが州の裁判所で、周りのビルには法律事務所が星の数もあるので、平日のラウンジは弁護士たちで溢れ、夕方ともなればおしゃれに着こなした男女でいっぱい。

今日のメニューは、カレシはサラダにフィレのローストビーフ。極楽とんぼは鴨のレバーパテにラムのフィレ。ワインはイタリアのバルベラダルバをグラスで注文。パテはスライスした切り口が台形で、そのパテの形と同じ形にクリームで縁取りしたシャンペンベースのソース。もう手をつけるのが惜しいくらいの芸術作品。しばし鑑賞して、やっとパテをひと口。う~ん、口の中でとろけるような感触。鴨は内陸のオカナガン地方の産。そのうちに地物の鴨のフォアグラも出てくるかもしれないな。

今夜のピアノ奏者はBacchusとしては珍しく、かなり若い男性。曲の合間に話をしたら、こてこてのオージー訛り。シドニーから来ているという。年は23才。即興で自己流にアレンジしながら弾き語りするのが「ボクのスタイル」だとか。スタンダードの曲目も思いっきりアレンジして歌う。若いのになかなかいいぞ。ルックスもドイツのお友だちがよろっとしてしまいそうなタイプ。「なんか好きなの弾いてあげようか?」とため口なのもかわいい。じゃあ、サイモン&ガーファンクルのを何か弾ける?「こんなぐあいでどう?」と弾き出したのが『Sound of Silence』。かなりおもしろいアレンジで、今アレンジがどうのこうのと凝っているカレシをうならせた。

休憩が終わって戻ってきたとき、ラウンジのマネジャーが寄って来て何か耳打ち。どうやら声が大きすぎるといっているらしい。アンプを調節して2、3曲歌ったところで、またマネジャーが来て「音量を落とせ」。すぐそばのテーブルで聞いている私たちには大きすぎる音量ではないし、ラウンジではみんな飲みながらぺちゃくちゃとおしゃべりに忙しくて、誰も聞いてなんかいないと思うけど、レストランの客がうるさいというのかな。「ボクの声、大きすぎるかい?」と聞くから、「客のおしゃべりの方がうるさいくらいよ」。(ほんとにそうなのだ。)

だけど、マネジャーが通りすがりに怖い顔で睨んだときは、さすがに若きピアノ奏者はつむじを曲げてしまった。「やってらんねえ」と言いながら、それでも私たちにはにこにこサービスしてくれる。デザートが終わる頃、休憩時間になったとき、アンプやマイクを外してバッグに詰め込んで、「ボク、アレックス。これで帰るけど、あんたたちに楽しんでもらえてよかった。ありがとう」と。えっ、演奏をやめて帰ってしまうの?「ボクだってプロのプライドってもんがあるさ」。うん、わかるなあ・・・。

というわけで、アレックス君は私たちと握手して、あっけに取られた顔つきのマネジャーを尻目に、意気揚々と職場放棄したのだった。若き熱血オージーに拍手!

午前5時のリスク管理論

4月5日。あらら、カレシと飲みながらの話がなんかしんみりとして、やっとベッドにもぐり込んだら午前5時すぎ。TIMEの記事(不況は経済観念をリセットするチャンス)について人間の消費性向についておしゃべりしていたのが、計画性や注意力の話になって、今日のドライブで3度も目的地への出口を見逃した話になって、カレシが「ボクの人生はいろいろと選択の間違いばかりだった」と言いだし、いつのまにか人生哲学の方へ発展して行った。

カレシが大学を出たのはオイルショックの不況のさなかで、すでに二十代後半。公務員試験のようなものを受けておいたおかげでオタワから声がかかった。その時、オーストラリアの政府機関からのオファーを受けるかどうか迷っていた。保護国の経済開発を指導するというもので、専攻分野ではあるけど、やれるという自信がなくて「安全な」の仕事の方を選んでしまった。オタワにいる間にはOECDに転職するチャンスがあった。上司にも勧められたけど、異言語異文化のパリでひとり働くことに自信が持てなくて、迷っているうちにたぶん人生最大のチャンスだった話は消えた。もしもあの時、勇気を出していたら・・・。

オタワでは貧乏を絵に描いたような暮らし。まともなアパートに住めない。車も買えない。すっかりホームシックになって、将来のある職を放り出して帰ってきてしまった。あの時、上司が「本当に辞めていいのか」と何度も念を押しに来た。あの時、昇給を要求できたのに、どうせだめだと思ってしなかった。他の部署に引き抜きかれていきなり3人の部下を持たされたくらいだから、交渉できただろうに。バンクーバーに帰ってきて一からやり直し。そこでも「安全な」選択をしているうちに好きでもない会計士の道に入ってしまった。もしもあのままオタワにいたら・・・。もしかしたら・・・。

でも、過去は変えられないし、不満足な過去を思い出さないようにできても、消すことはできない。やっかいなことに不満足な過去ほどいつまでも記憶に残る。それは不満足な結果に終わった経緯から何かを学んで未来の成功につなげるためだと思う。でも、失敗したときは自分がつらいから、できることなら「なかったこと」にしたい。そこで「エスケープ」キーや「リセット」ボタンを押す。PCやゲームのような機械にとっては理に適った動作でも、人間の行動心理にとってはどちらも逃げの手段でしかないから、ある意味、人間は便利さと引き換えに経験から学ぶチャンスをひとつ失ったのかもしれない。

日本には「石橋を叩いて渡る」ということわざがある。人間の行動には大小のリスクがつきもので、決断の過程というのはそのスペクトラムの上でスライダーを動かすようなものだと思う。たとえば、川の向こうに宝の箱(機会)があって、「石橋」がかかっているとする。渡るか否か。スペクトラムの一方の端から順に、1.初めから橋を叩いてみようともしない、2.安全だと納得できるまで石橋を叩き続ける、3.安全という保証があれば渡る、4.形状や強度、川幅、水流といった要素を分析して、壊れる危険は小さく、万一壊れても泳いで岸に上がれると判断したら渡る、5.橋のことなどは考えずに宝の箱めがけて猛進する。どの選択にもその人なりの価値観が反映される。

1の場合は失敗しないけど成功の可能性もゼロ。2の場合は、大丈夫という自信が持てないまま叩き続けているうちに橋を壊してしまうこともある。3の場合は他力本願で楽だけど、「万が一」の備えはゼロで、4の場合は過去の経験や情報というデータの分析が必要。最後の5にいたっては無謀のひとこと。だけど、スペクトラムの性質上、スライドするにつれてリスクの「濃淡」が変わるというだけで、どの点が一番危険/安全なのかという基準はない。結局は、人間は決断を迫られるたびに、経験や価値観に基づいて最善を尽くすしかない・・・

てな具合に講釈をたれているうちに、半分あったはずのレミが空っぽになってしまった。カレシがどうして急にしんみりと「深い会話」をする心境になったのかはわからない・・・。

春の日の月曜日

4月6日。今日も陽光燦々の春景色。月曜日だし、1週間も「勝手ながら休業」だったから、そろそろ仕事にかからなきゃ、と準備を始める。でかい方は来週の木曜日が期限。5日はかかるかな。小さい方はその後の予定だから、ふむ、まだ余裕がありそう・・・(しめしめ)。

メールの指示を読み直すと、作業対象は50何ページまでとある。Wordファイルの作業用原稿は100ページ強だから、その半分か。その部分だけを別のファイルにコピーして推定した作業量は当初予想の半分!なあんだ、これならまだ焦ることないか・・・だけど、春の陽気でポカミスをするといけない。もう一度よ~くメールを読んだら、元のPDFファイルのページ数で50何ページまで。あらら、Wordファイルだと100ページ目前のところまで行ってしまうじゃないの。というわけで、「休み延長」はつかの間の白日夢で終わってしまった。

午後いっぱい春の庭仕事にいそしんでいたカレシが入ってきて、「桜を植えたからね」と報告。もう5年くらいパティオを作る予定になっている場所の、梨の木があったところに、北海道みやげの桜が植えられていた。持ち帰った種から芽を出して、十何年も鉢に植えられたまま窮屈な思いをして来たもので、桜の「木」というよりは「枝」を地面に突き立てたような姿。のびのびと根を張って、幹や枝を伸ばして、キッチンの窓に届くのはいつだろうなあ。春にはピンクのカーテン、夏には緑のカーテン・・・。それにしても、パティオができるのはいつかなあ。こればかりはカレシしだい。ほんとにいつになるのやら。

カレシが「今日は良く働いたから、凝りをほぐすんだ」と、マティニを2杯も作ったもので、夕食の準備はなんとなくいい加減。夕食が終わって、オフィスに戻ったのはいいけど、目の焦点が合わない。今のうちに去年の決算を済ませようと思って、「ええと、あとは減価償却と為替の差額調整だっけ」とぼやけた頭を小突いていたら、今度はやたらとメールが飛んでくる。え、受注したら日本時間の明朝までにできるかって?最近は失注という報告を良く聞くから、ま、いっか。え、あさっての朝までにどれくらいできるかって?う~ん、がんばって3千語でどうだ!やれやれ、マティニ2杯はまずかったよ、カレシ・・・(テレビの前で高いびき)

結局、「受注しました」と感嘆符が2つもついたメール。明日の朝とあさっての朝とで、でかいのはまたお預けだなあ。おまけの休みを取り損なったけど、ま、鉢巻を締めなおして、がんばるか。

ボランティア先生に乾杯

4月7日。週末から続いた初夏のようないい天気で、桜並木は一気に満開に近い状態。二階から見るとピンクのベルトが2本、一直線に地平線まで盛大に続いている。どうやら冬はもう戻ってこないだろうなあ、という実感がうれしい。

今日はカレシが英語教室をやっているネイバーフッドハウスで「ボランティアに感謝する会」とでもいうイベントがある日。まあ、おつまみと飲み物が出て、「よいしょ」のスピーチがあって、ボランティアに感謝状が配られるささやかなパーティだけど、去年から夜に移動した英語教室の時間と重なるので、カレシは欠席ということになった。週に2回、午後の時間を費やして教材を作り、早めの夕食をして、いつも「遅れそうだ~」と大騒ぎしながらいそいそと出かけて行く。カレシのボランティア英語教師歴はこの秋で10年目に入る。

カレシが突然英語教師を目指し始めたのは1999年だから、もう10年も前か。カレッジの夜間コースを取り始め、やがて職場のすぐ近くにある「会話クラブ」に出入りするようになった。この「クラブ」は日本人夫婦の経営で、ネイティブの英語教師を「ボランティア」と称して集め、テーブルごとに2、3人の「生徒」を相手に無償で1時間足らずの「会話」をさせる。生徒たちは「月謝」を払うけど、「ボランティア」教師に無償で日本語を教えるとその時間数に応じて月謝が安くなるというしくみだった。(英語が発展途上の日本人が自分でも良く理解していない日本語を英語で説明できるのかどうかは甚だ疑問だけど。)

カレシは職場を抜け出してその「クラブ」に通っていた。生徒のほとんどはワーキングホリデイや語学留学で滞在中の若い日本人。この「会話クラブ」が日本人のオンナノコをナンパする絶好のスポットという評判になっていたことを知らなかったはずがない。そこに集まって来る大半の「ボランティア」と同様、カレシも生身のオンナノコと「交流」しに行っていた。毎日だったらしいから、まさに「通い詰めていた」と言えそうな熱の入れようだった。それが早期退職の一番手の槍玉に挙げられて隠居の身になってからは「入りびたる」つもりだったらしい。大げんかの末の最終通告は、「そんなに英語を教えたいのなら、せめて世の中の役に立つところでやって!」

あれからもう9年が経とうとしている。初めのうちは生徒の中に国際結婚の日本人女性が混じることもあったようだけど、カレシにとっては非現実世界で作り上げた自分の理想像と比べて見る「目からうろこ」の機会になったらしい。でも、それは副作用のようなものにすぎなくて、カレシを大きく変えたのは、何よりも「新天地の社会の一員として生活基盤を確立するためには少しでも早く英語を習得したい」という現実的な動機に裏づけされた生徒の「やる気」だった。生徒が就職が決まったとうれしそうに教室をやめて行くたびに、カレシもいっしょに達成感を味わって、人間として成長して来たのだろうと思う。

ナイトキャップを傾けながら、教室でのことやレッスンのアイデアのことを話してくれるカレシは10年前よりもずっと若々しくて、輝いて見える。人生はほんとうに「塞翁が馬」なんだと思う。でも、私たちの冬はもう戻ってこないだろう。

花曇りの空の下

4月8日。はっと目が覚めたら午前11時50分。「ねえ、起きなきゃ~」と高いびきのカレシを小突いた。午後5時までに納品のファイルと、日本時間で午後3時まて待てます(が、できるだけ早く)というのがあって、その間に酒屋へ行って、野菜の買出しをして、スーパーで買い物。ど~すんのという過密スケジュールの日の幕開け。

起きてみたら、電話の発信番号表示に「BC政府」の番号がある。ははあ、酒屋だな。カレシがぶっちぎれて談判しに行ったのはついこの間。ボイスメールのメッセージは、注文のリキュールが届いたから、「いつでも取りに来てください」。オーダーの記録がないとかなんとか言いながら、「あのねえ、きみ」と詰め寄るとあわててやることをやってくれるのがお役所の商売。それでも待ちに待ったマラスキノ。これがないと「アビエーション」というお気に入りのカクテルを作れない。さっそく、朝食→仕事1→酒屋と青果屋→仕事2→夕食→仕事2終了→9時ごろにスーパーという、せわしない日程が決まった。

今日はほぼ平年並みの気温。ちょっとグレーの空模様で、こういうのを花曇りというのかな。でも、桜の花は、まぶしい青空と対照するよりも曇り空を背景にしている方がなんとなく引き立って見えるような気がする。この角地に引っ越してきてから、桜並木をながめる春も26回目か。向かいの桜はかなりの大木になって、キッチンで食事をしながら窓越しに花見ができる。夜は街灯にライトアップされた夜桜を鑑賞しながらの真夜中のランチ。我が家にいながらにして花見なんて、日本の人が聞いたら垂涎の的かもしれないけど(でもないかな?)、二人とも桜が咲いたから「花見」という発想がない。それでも、カレシが植えてくれた北海道の桜が大きくなって、いっぱい花をつけるようになったら、その下のパティオで池の水音を聞きながら、「花見マティニ」を酌み交わせるかもしれないなあ。

とにかく、せかせかと「仕事1」を片づけて送り出し、酒屋で特注最低単位の1ケース(6本入り)のマラスキノを引き取り、この間しんみり会話で空にしたレミを補充し、料理用に安めのカルヴァドスを買い、マティニ用の(1.4リットル入りの大瓶の)ジンを2本仕入れて、「おうちバー」は当面安泰。と思いきや、「財布がない」とカレシ。落としたかもしれないって、家からそのまま車に乗って、外の駐車場に止めて店に入るまでずっと財布を出してないでしょうが。家に忘れて来たんでしょ。「いや、財布だけは忘れたことないよ」とカレシ。(ほんとぉ~?)まあ、極楽とんぼのカードで決済して事なきを得たけど、ひとりだったらかっこ悪いよねえ。大丈夫なの、ほんと?(財布はいつも入れておくカレシ専用のボックスにちゃんと入っていた。車のキーだけ出して、財布を忘れるなんて、senior momentかなあ・・・。)

冷蔵庫2つを野菜でいっぱいにして、夕食前は久しぶりのアビエーションで乾杯。(これでシアトルの酒屋までひとっ走りの「運び屋業務」も必要がなくなって、やれやれ。)特急で作った夕食(また魚)を済ませて、「仕事2」を片づけて、買出し第2ラウンドへ。せわしないなあ・・・

メディアの洗脳力

4月9日。きのう1日のバタバタのあとだけど、でかい仕事に手をつけようか、つけまいか。そういえば経理業務もお預けになっていた。納税申告の期限は30日。今年度第1四半期の消費税の納付期限も同じ日。あ~あ。

きのうはスーパーから帰ってきた後はもうすっかり気が抜けた気分。「早退」ということにして、(それでも、メールの方はちらちらと気にしながら)ブログの上にある「ランダム」ボタンをなんとなく押してみた。仕事の資料の検索でよくいろんなブログがヒットするけど、ふだんは「招待状」をもらったブログしか読んでいないので、行き当たりばったりで見るブログには驚きの連続。最も多く出てきたテーマはスポーツ、芸能(映画、音楽、芸能人等々)、ゲーム、グルメ、車/バイク、ネット商売。大きな写真満載のサイトも相当数あって、今の季節はもちろん桜づくしの観。顔文字やふわふわ動く絵文字を満載した記事もテキストも多いけど、読みにくいと思うのは極楽とんぼの年を考えたらしょうがないだろうな。

いわゆる「ほっこり」系ブログにも行き当たったけど、小町などで「やめてくれ~」と槍玉に挙げられる言葉がほんとうに使われている。さすがに買い物をして「この子をおうちにお連れしました」というぞくっと来そうなのには遭遇しなかったけど、どれを見ても紋切り型という感じで、日記的に書いているにしては無機質的で生活感がない。まあ、その生活感のなさで「(あくせくしている)一般庶民と違って、(ハイソサエティの)優雅な暮らしをしているステキな私」をアピールしているんだろう。ここは「スローライフでなければ人にあらず」みたいな態度を取るエコ気取りと似たようなものかな。だけど、そのわりにはやたらと「癒されました」とのたまわっている。そんなにほっこり、まったりした暮らしをしているんだったら、癒されたいような苦悩とは無縁だろうと思うけどなあ。

へえ、これがほっこりと暮らすことか・・・と感心しているうちに、そのほっこりぶりを絵に描いたような(と思う)トピックを見つけた。自宅ショップとやらを始めたら友人たちのテンションが低くなった、という相談。やたらと「~で」、「~て」と舌足らずな止め方をする文章からして、20代後半か30代前半のセレブ妻かな。義親の援助で新築の自宅に今流行らしい「雑貨屋」を開いて、夫の稼ぎがいいものでお金の心配がないから、好きなものを置いて「のんび~り楽しく」商売して、「ほっこ~りした空間と、人とのつながりや素敵なご縁を感じれて毎日幸せ」だったのに、店が雑誌で紹介されたりして、「新しい縁とかつながり」で忙しくしていたら、数年来の友達の態度が消極的になった。せっかくだから昔の友達とも「仲良しでいてあげたいけど・・・」。そっか、ほっこり族でも人間関係の苦悩があるってわけか。

予想に違わず、「仲良しでいてあげたい」の一見傲慢なひと言に轟々の非難が集中。それでも、「自分のしてることが良くないみたいだけど、何だか考えてもどう悪いかよくわからない気がして」とまたまた「て」で文を止める「ほっこり生活」さん。空気が読めないってこういう人のことを言うのかなあ。人柄をほめられるとか、人好きする雰囲気を羨ましがられるとか、まるでかわいく小首をかしげて「なのにどうして?」と上目使いに潤んだ目で・・・というイメージが浮かんできたけど、「私は今44才だけどすごく若く見られるほう」。えっ、44才。よく見たらハンドルネームの横のアイコンが「ひよこ」。う~ん・・・。

気の毒にも読者に「浮かれポンチな44歳はイタイ」と言われてしまっているけど、ファッション雑誌や女性雑誌のようなメディアが(売上を伸ばすために)作り出しては売り込みをかける夢見心地の「イメージ」を売られてしまった人なんだろうなあ。仲良しで「いてあげる」という表現も、マスコミに洗脳されて考えもせずに使ったんだろう。言葉使いは「ほっこり」と丁寧でも、実はイメージで理解しているだけなのかもしれない。だからなぜ非難されるのかわからくて、「凹みました」とすねて見せるんだろうな。先月小町でお目にかかった「宇宙人サンペイ君」の女性版みたいでもあるけど、最近はこういう二次元的な人が増えているんだろうか。メディアの洗脳力、恐るべし・・・。

復活祭の金曜日のあれこれ

4月10日。予想に反して青空ものぞく復活祭。今年もまたチョコレートのバニーを買いそびれてしまった。ま、たいていはカレシがいつの間にかぜ~んぶ食べしまうので、極楽とんぼとしてはどっちでもいいようなものなんだけど。カレシは信仰心はゼロだし、とんぼは神の存在を信じても組織的な信仰は嫌いときている。そうでなくても、子なしの熟年夫婦の祝祭日というのはだいたいがこんなところらしい。

カレシはかっこいいデニムのお百姓さんスタイルのつなぎに身を固めて庭仕事。前庭の隅を整理していたら出てきたと、泥んこのゴルフボールを2つ持って来た。家の向かい側が市営ゴルフ場なもので、よく我が家の庭でボールが見つかる。現在の手持ちは40個。ときどきゴルフをする友達にきれいなのを引き取ってもらうけど、洗って売ったらけっこうなお小遣いになるんだそうな。それにしても、背の高い生垣で囲んだ庭の外には歩道があって、広い道路があって、向こう側には並木があって、遊歩道があって、その向こうがやっとフェアウェイだから、どんなへぼゴルファーでもここまで飛ばせるはずはないと思っていたら、隣のパットが「飛ばすやつがいるんだよ」と言う。
へえ、そんな並木の間を縫って、生垣を越えて来られるようなひょろひょろ玉を飛ばす人もいるんだ。まあ、たいていはカラスが拾ってきて落として行くんだろうけど。ゴルフをしないのに、40個もたまってしまったボール、どうしようか・・・。

日本は週末に入って静かでいいけど、もう次の仕事に手をつけないと最後には徹夜になりそうな予感。その前にはなんとしても決算を完了しなければ・・・と言っても、最近はろくに設備投資をしないから減る一方の減価償却費を計算して、外貨建ての売上をカナダドルに換算して、帳簿との差額を計上すればおしまい。Eメールが登場してからクーリアの経費がなくなり、聖グーグルのおかげで辞書や事典の費用もほとんどなくなって、経費そのものは創業時代に比べると激減。海外での会議に行かない年はすごい利益率になって、自宅でひとりでやっている限りはけっこうぼろい商売だと思うこともある。去年はカナダドル建ての収入は全体の6%ほどで、あとはアメリカドル建てと日本円建てがほぼ半々。習慣的に月末に請求処理をするので、カナダ中央銀行のサイトにある換算プログラムを使って各月最終日の換算レートでカナダドルの金額を出す。これがけっこうめんどうくさいから、決算のたびにちゃんと毎月レートをチェックして換算して記帳しておけばいいのにと思うけど、なぜか、やらないんだなあ、これが・・・。

設備投資といえば、バンクーバーの「スカイトレイン」にとうとう「改札口」ができるそうな。来年の春に100億円に相当する工費をかけて設置工事を始める予定ということだけど、1986年の万博のために開通してから25年もの間「良心を信頼する」とか何とか言って改札口なしでやってきた交通機関はまず世界のどこにもないだろうな。しかも自動式の公共輸送機関としては総延長が世界で一番長いんだそうな。こんなお人よしのシステムだから、無賃乗車率は相当なものらしい。これで大赤字が出なかったら不思議で、その赤字は長年ガソリン代や固定資産税、電気料金に「補助金」を上乗せして補填してきたけど、足りるわけがない。交通警察を新設して取締りを始めたものの、全員の切符を調べるわけじゃないから無賃乗車は減っているとは思えない。(最近は「正直」なはずの日本人までがけっこう無賃乗車して摘発されているそうだけど、自分に都合のいいことであれば「郷に従う」のはやぶさかではないってことらしい・・・。)まあ、改札口の設置は一歩前進ではある。でも、初めから設計に入れておけば今になって100億円もかからなくて済んだんじゃないかなあ。そこがBC州の政治のずっこけたところなんだけど・・・。

メープルリッジ物語

4月11日。雨がちで薄ら寒い土曜日。今日はシーク教徒のヴァイサキの祭りの日。2ブロック離れたメインストリートで恒例のパレードがある。ここは何ブロックかを「パンジャブマーケット」といって、インド系(最近は南アジア系という)の商店が並んでいるところ。引っ越してきた頃はそうじゃなかったけど、あっという間にほぼインド系一色の商店街になった。それが、どうも去年あたりから様相が変わってきている。見物人の車が住宅街を埋め尽くし、違法駐車やごみの問題が起きていたのが、車の数は激減したし、あたりも静かになったような感じがする。インド系コミュニティの中心が郊外のサレーに移って、パンジャブマーケットが衰退しつつあると言うのはどうも本当なんだろう。サレーでのヴァイサキパレードには10万人の人出があるという。

多民族都市なんだから誰のお祭りでもパレードでもかまわないんだけど、。「ヴァイサキおめでとう」とか何とか言うバナーを引いて飛び回る飛行機には閉口する。インド系社会で内紛があった頃には4機!も飛んでいたことがあった。何時間もぐるぐる低空飛行されては、さすがの極楽とんぼも仕事に集中できないもので、毎年ぶつぶつ文句を言いながら連休の中日を遠出して過ごすことになる。今年も、静かだなあと思っていたら案の定、正午を過ぎて飛行機が登場。郊外のメープルリッジの園芸センターに行き、ママを訪問して、カレシの弟のジムと夕食してこようと言うことになった。仕事の予定は詰まりつつあるけど、なにしろ頭の上を蝿のようにぶんぶん飛び回る飛行機には殺虫剤RAIDも効かないからなあ。

今回はコクィトラム側への出口を見逃さずに出て、一路メープルリッジへ。ショッピングセンターに大型量販店にカレシが「ハイウェイレストラン」と呼ぶチェーンレストランが並び、メタボのSUVやトラックがビュンビュン飛ばしていく典型的な郊外風景。「ああ、郊外に住まなくて良かったなあ」と、またカレシ。だけど、園芸センターだけは土地が安くて広い郊外まで行かないとまともなのがない。前回の遠出で見つからなかったフレンチタラゴン(エストラゴン)の苗と、ペパーミントの苗を買って、「これ、いいね」とカレシが目をとめたコブシの花の絵をママのプレゼントに買った。

次にママがいるホームの場所探し。郊外で行き先を探し当てるのは住所がわかっていても「都会のネズミ」には至難のわざ。道路は見つかったけれども、肝心の建物の前を通り過ぎてしまった。郊外の道路ではブロックをぐるっと回って元の道路に出られる保証がないどころか、とんでもない方向へ逸れて迷子になることが多いから、車が途切れたのを狙ってえいっとUターン。建物を見つけて、フロントで出入りの記録にサインして、ママの部屋へ。パパは1日ほとんど眠っているそうだけど、ママは92歳とは思えない元気さ。カレシが昔の写真をスキャンする話を始めて、ママが出してきたのが、子供のカレシとパパの写真。昔は街頭写真家がいて、通行人の写真を撮ってプリントを売っていたそうな。その日は特別なお出かけだったのだろう。金髪だった4才のカレシはネクタイをしておめかし。丸出しの膝小僧がとってもキュートで、ほんとにかわいい坊や。(5才になる年の春の終わりだそうだから、未来のおよめさんが太平洋の向こう側で生まれた頃か。運命と言えるようなものがあるとしたら、人間の縁とは不思議なもんだなあ・・・。)

帰りがけに目を覚ましたパパが寝室から出てきた。私たちを見て「誰だ、おまえは?」ママが教えても「誰だって?」と繰り返す。大きな声で「息子ですよ」と言ったらニコッとしたものの、あまり意味がわかっていない様子。ママが介助してトイレに連れて行くので、私たちは「じゃあ、またね」。家族の顔がわからないときが多いと聞いてはいたけど、やっぱりカレシにはちょっとショックだったらしい。医者の診断では正真正銘の老人性ボケで、アルツハイマー症ではないんだって・・・といっても、自分はボケないという保証は誰にもないし、カレシ、心配事が増えてしまったかなあ。

ジムの家では地下室で段ボール箱4つに入っているパパの古いレコードコレクションを点検。割れないで残った厚ぼったい78回転のレコードも多くて、エルビスプレスリーの処女作という貴重なものもあるからすごい。(レコードから直接CDを焼けるプレーヤーは78回転もかけられる。)コピーしたいものをひと抱え借りて、とんぼはママが子供のときに読んだという本を借りた。夕食はジムのガールフレンドのドナが合流してから。ドナも好きだけど、離婚のきっかけになったフィリスもまだ好きで、どっちとも決めかねて(公然と)両方とつき合っているそうで、「この父にしてこの子あり」のダブル版とは、なんてこっちゃ、もう。う~ん、家族はみんなドナの方がずっと好きなんだけど・・・。

外国通の半可通は世界共通

4月12日。荒れ模様のイースターサンデイ。日本語で言えば「彼岸荒れ」のようなものか。今日からはねじり鉢巻をしっかりと締めて、金曜日の丑三つ時の期限を目指してまっしぐらでいかなければならない。ならないんだけど、ふむ、どうも寄り道、道草、油売りに悩まされそうな予感・・・

ソーシャルブックマーキングのサイトに「あちゃ~」というような本のニュースがあった。メンバーが著者のブログから見つけて来たようだけど、タイトルは、知っている人なら内容がすぐにピンと来る『Black Passenger Yellow Cabs』。著者はジャマイカ系のアメリカ人だそうで、俗に言う「黄熱病(=アジア人フェチ)」にかかり、「セックス中毒」を満足させるために日本へ行き、英会話教師で生計を立てながら、外国人向けの「出会い」サイトに登録してくる日本の「セックスに飢えた人妻たち」との体験を回顧録に書いて、アメリカでの出版にこぎつけた、ということらしい。(ところかまわず、なりふりかまわず、売り込みまくっている形跡がある・・・)

表向きは「日本社会の深部に関する考察」てな触れ込みだけど、著者自身がサイトに書き込んだコメントによれば、全米サイン会ツアーをすることになっていて、すでに日本語訳の出版も決まっているんだそうな。この手の本が日本で売れるのかどうかわからないけど、日本語訳の売込みをした経験からすれば、出版社は売れると思うものにしか手を出さない。ということは、日本でも売れると踏んだ会社があるんだろう。これで日本人だけが使っているとされてきた「イエローキャブ」というスラングが本格的にアメリカ英語に浸透するかもしれないし、本を読んで「じゃ、オレも日本へ行こう」というアメリカ男が出てくるかもしれないし、日本まで出向かなくても、日本人は北米中どこにでもいるご時世だから、どういう展開になるのか興味があるところ。

この本で思い出したのが、『Bachelor’s Japan(独身男のための日本)』という本。50年ほど前にアメリカで出版されて、けっこう売れたらしい。著者はボイエ・デ・メンテ。終戦後に占領軍の諜報部員として日本に行き、サムライ精神に魅せられたとかで、日本に関する本を大量生産して、「日本文化の紹介者」ということになっている。たしかに日本とビジネスをする上で役に立つ本もけっこう書いているし、日本では英会話本も出していたけど、アジア買春ツアーの宣伝かと思うようなタイトルのものも多く、「日本人の愛人を囲う方法」というのもある。中でもおそらく一番売れたのは「ワイルドな日本女性」を売り込んでくれたこの『Bachelor’s Japan』で、北米の多くの男たちにかなりのインスピレーションを与えたらしい。

ボイエ・デ・メンテは今はもう80代半ばになっているだろうけど、サイトの前身であるソーシャルブログサイトに登場して、長々と日本女性についての「昔語り」を書き込むようになって、メンバーを閉口させたものだ。自分のビジネスサイトへのリンクがあったところを見ると、老後の生活費稼ぎにカムバックを図ったのかもしれないけど、若きボイエ君が日本で出会った「魅力的な日本女性」は敗戦国で進駐軍の相手をした水商売の女性たちだったと想像がつくし、ブログのメンバーは多くが普通の日本人と結婚してごく普通に日本で暮らしている中年の人たちなもので、メンテ氏の売り込みはお呼びじゃなかったというところかな。

つらつらと考えてみると、日本だって生半可な「西洋通」が書いた西洋事情紹介の本やブログが大量にあって、けっこう読まれているから、西洋の生半可な「日本通」が書いた日本事情紹介の本やブログもけっこう読まれていて当然だろうな。まあ、洋の東西を問わず、半可通の外国かぶれほどその生半可な知識をひけらかしたくなるものらしい。

4月もけっこう地獄だなあ

4月14日。ぽかぽか陽気で桜もレンギョウもコブシも満開。向かいの赤いモクレンも咲き始めた。4月も半ばなんだから、こうこなくちゃ。

今日は州議会総選挙の公示。来月の投票日に向けて、これからテレビでの政策PR合戦や与党と野党の中傷貶し誹謗合戦がうるさくなる。それでも名前だけ連呼しながら走り回る「選挙カー」というものがないから、同じお祭り騒ぎならこっちの選挙の方が落ち着きがあってよろしい。

なんとか去年の帳簿を閉めて、納税申告の書類をまとめて、ひとっ走りダウンタウンまで。古巣の会計事務所に届けてとんぼ返り。おととしはやたらと仕事が多くて、去年の申告の時にがっぽりと追加を取られたけど、おかげで所得控除できる退職貯蓄プランへの払い込み限度額がぐんと上がったし、去年は旅費などの経費が多かったから、今度はがっぽりと戻って来ると胸算用・・・。

重要案件を1件片付けて、さてもう半徹夜も辞さずの体勢待ったなし。予定はどんな具合かと聞かれても、「来週まで待ってくださ~い」。大きな声でいえないけど、一寸先も見えない「ど~しよ~」の状態で、どうもすみません。

来週はもうひとつの重要案件、運転免許証の更新が待ったなし。5年ごとに更新される顔写真が、ちょっと気になる。(この5年でどれくらい老けたかなあ・・・。)それが終わったら残るひとつの重要案件、消費税の納付申告。還付か、納付か・・・1月分だけ帳簿をつけて、う~ん、微妙なところ。還付ならぎりぎりでもいいけど、納付があれば期限までに小切手を送らなければ利息を取られてしまう。怒涛のような「魔の3月」の後、春爛漫の4月もけっこういろいろと地獄だなあ。

毎日キーを叩き続けて関節炎の指が痛い。なぜか、英語キーボードでのローマ字日本語入力は英語入力よりも指への負荷が大きい。おまけに座りっぱなしで腰まで痛くなって来た。やれやれ、ノー天気ながんばりやの極楽とんぼではあるけど、身体の方はやっぱり「60代」が厳然と現れてくるらしい。まあ、仕事量を半減しようともくろんでいる年金受給開始まであと4年。ここのところは、ねじり鉢巻をもう1本追加して、ひとがんばりするか・・・

達成感を満喫する方法

4月15日。今日もすご~くいい天気。カレシは外へ出て、秋に刈り込んで積み上げてあった枝を、堆肥にするためにシュレッダにかける作業。騒音もすごいけど、芝生刈り機の何倍も馬力のあるエンジンがすごい熱を持つので、聴覚保護の産業用イアマフ、目を守るためのゴーグルといういでたちでは、夏でなくても汗だくの仕事になる。

極楽とんぼは、きのうがんばってとうとう2日分の仕事をしたせいでストレスがたまってしまったのか、なんか「うつ」っぽい。納品期限まであと2日。普通なら3日分の量が残っている。モニターの横においてある(安眠やリラックスに役立つ脳波を出すという)サウンドマシンを寄せては返す波の音にセットして、ひたすらリラックス、リラックス。リラックス用には他になんとも幻想的なものもあるけど、海のそばで育ったからか、単調に繰り返されれる波の音の方がすごく気分が落ち着く。(ちなみにベッドルームのマシンはしとしと、ぴちゃぴちゃと降る雨の音に設定してある。催眠効果があるんだそうな。)

ちょっとだけのつもりでのぞいた小町。「仕事が速くて、丁寧で評価の良い同僚。普通の人が3日かかる作業を2日で終わらせ、急ぎのときは1日でやれる。1日でできるのにいつもは2日かけてやっている。これはさぼりではないのか。1日でできるのにさぼって2日かけて、評価が高いのは納得できない・・・」。トピックの主は「普通」の人だから精一杯やって同じ仕事に3日かかってしまうんだそうな。「1日でやれるのにさぼって給料をもらっている同僚に納得がいかない・・・」。なんかよくわからない論理だけど、自分だってがんばっているのにそれを評価してもらえないのが悔しいのかな。それにしても、仕事ができる同僚を「さぼっている」とは、理解しにくい感覚だなあ。

「がんばったこと」がすべてで結果はどうでもといいという教育方針を掲げた時期があったらしい。できなくてもいいの。できないならやらなくてもいいの。できる人はできない人の気持を傷つけないように、せめてできるってことは隠しておきなさい。それよりも、できる人ができない人のレベルまで降りて来てあげるのが万人平等の優しい日本・・・「出る杭は打たれる」の文科省版てなところか。極楽とんぼはちょろっと杭の先を出してしまう方だけど、それはあまりにもKYってことなのかな。でも、学校で結果より過程を強調するのは、学校が結果を出すための過程(知識やスキルやその応用方法)を学ぶところだからなんであって、大人の社会では学校で学んだことを活かして結果を出すことが強調される思うんだけど。う~ん、日本て、ほんとにわかるようで、わからない・・・

昔、父の勤め先で名簿作りのアルバイトを頼まれたことがあった。予定はたしか2日間だったけど、なぜか1日で終わってしまった。がんばったわけじゃなくて、あれこれ効率化の工夫をして楽しんでいるうちに「あれ、終わっちゃった~」というのが真相なんだけど、「2日分の仕事を1日でやってしまったら、1日分の賃金しかもらえないだろうに」と言われて、初めて自分のノー天気ぶりに気がついて「ばっかじゃなかろ~か」。まあ、会社がなぜか2日分の賃金を払ってくれてハッピーエンドだったんだけど、若くて世間なれしていなかった極楽とんぼは、そのときに「働く」ということについてかけがえのない何かを学んだのだろう。

さあ、胸突き八丁の心臓破りの丘が目の前にある。ゴールに飛び込むまでの過程は自分だけの挑戦であって、クライアントにとっては結果あるのみ。だけど、そこにはなんともいえないスリルがあるし、「やった~」という達成感は爽快のひと言に尽きる。さあて、もうひとがんばりするか・・・