大きな冷蔵庫が来た
8月11日。水曜日。おお、晴れ。天気は回復で、また暑くなるらしい。ゆうべは2人ともなんとなく寝つきが悪かったようで、ちょっと寝足りない気分だけど、新しい冷蔵庫が来るし、納品期限の仕事があるし、ボケ~っとしているわけにはいかないのだ、今日は。
朝食を始めようというところで、配達トラックからあと30分から40分で到着と連絡。午後にと指定したら午後一番か。急いで食事を済ませて、冷蔵庫のドアのマグネットを外して箱にまとめ、冷凍室(温度は20度になっていた)に入っていたものを出して段ボールに入れて、そのまま引き出した野菜入れ2つと一緒にセカンドキッチンの涼しそうなところにまとめ、冷蔵庫に残った「捨てるもの」を片っ端からゴミ袋にポイっ。古い漬物らしき真空包装パックがあったので、英語ラベルの下に隠れている賞味期限を透かして見たら「1998年12月」。うひゃあ、12年ものかあ。でも、漬物じゃ「12年かけて熟成した~」としゃれるわけにもいかないな。スコッチやコニャックじゃないんだから。指先で摘んでつぶしてみたら、あはは、パックの中で半分液状化しちゃってるわ、これ・・・。
大きなトラックが着いて、まずは撤去する冷蔵庫を引き出して横にどけてから、通過する道順の寸法を確認。設計上の欠点で、玄関を入ったらまず数段の階段を上がって、右折してリビングルームに入って、突き当たりで左折してキッチンに入り、さらに左折して、アイランドの端で右折して、キャビネット枠に位置を合わせて設置・・・という手順になるんだけど、なにしろ大きいから、玄関のドアと階段の上のドアを外すことから始まる。ついでに壁の絵も引っかからないように取り外して、いよいよ新しい冷蔵庫のお輿入れ。ゲートから運び込んでいる間に、ワタシはモップで後にたまっていた埃やくもの巣の掃除。搬入ルートはギリギリの幅なんだけど、そこは慣れたもので、ポーチで手早くドアと冷凍室の引き出しを外して玄関から入って来た。後は案ずるより何とかで、3人がかりでしずしずとリビングを抜けて、キッチンに進んで、あっという間に所定の場所にぴったりと収まった。
次は古い冷蔵庫を外へ運び出して、外したドアを取りつける作業。電源を入れてあるので、ピーコ、ピーコとうるさい。1分以上開けっ放しにすると、閉めるまで「ドアが開いてるよ~」と30秒おきに注意してくれるらしい。まさにnagwareの家電版というところだな。まあ、ドアがきちんと閉まっていなかったという「事故」が何度かあったから、うるさいけど、いいか。ドアの取り付けが終わって、配達伝票にサインして、搬入・搬出作業は完了。冷蔵庫が上だから、だだっ広い真っ白なドアにちょっぴり圧倒される気分。背丈が170センチちょっとあって、ワタシよりのっぽだから、いくら背伸びをしても上が見えない。いやあ、でっかいなあ・・・。
勢いづいて仕事を片付けて納品。夕食の魚の解凍を待っている間に、棚の高さを変えて、ドアポケットの配置換えをして、稼動準備。いやあ、たっくさん入りそう。やっぱり冷蔵庫が上と言うのは出し入れに屈まなくてもいいから楽だなあ。冷凍庫は引き出し式で、けっこう深いけど、ドア式のものよりは出し入れがやりやすそう。(黙ってついてきた製氷装置は給水の配管が必要と言うことで結局は無用の長物。幸い別にスイッチがついていたので即刻オフ。毎日大パーティをやるんならともかく、そこまでして1日100個もの氷を作る必要ってあるんかいな・・・?)
夕食を終える頃にはかなり冷えて来たので、予備の冷蔵庫や涼しい納戸に避難したりして生き残ったものを回収してきて入れてみたら、うわっ、まだまだがら空きもいいところ。解凍してしまったり、腐り始めたり、いつから置いてあったのかわからなかったりして廃棄処分になったものがかなりあったから当然といえば当然だけど、常備品を切らしたままで買わずにいたから、入れるものがあまりないの現実。まずはスーパーを巡回して仕入れてこなくちゃ。あしたは1日がかりのショッピングになりそうだから、大きなプロジェクトに手をつける前に、ここは日本式に「お盆休み」ということにするか・・・。
一難去ってまた一難では・・・
8月12日。木曜日。目が覚めたとたんから、今日は暑いぞという感じ。ちょっと涼しい間に冷蔵庫事件が解決して、ラッキー、ラッキー。これが猛暑の最中だったら、いくら予備のスペースがあると言っても、いったどうなっていたことやら・・・。
よく考えると、子供の頃にはどこの家にも冷蔵庫なんて便利なものはなかったなあ。どこでもお母さんが毎日買い物かごを持って商店街に夕食の材料を買いに行っていた。(ただし、これは北海道の話で、津軽海峡以南ではどうだったのかはわからない。たぶん、「戦後」といっていた時代はどこも似たようなものだったんだろうと思うけど。)カレシが子供だった頃には家に「アイスボックス」と言うものがあったそうで、文字通り「氷の箱」。小さい戸棚ののようなもので、電気冷蔵庫が買えるようになるまで、定期的に大きな氷の塊を配達してもらって入れておいたらしい。日本ではそんなものを使っていた時代があったのかな。家庭の電化は時間を早送りして、戦後にいきなりモダンなものから始まったような感じがするけど。
朝食後にまず取り急ぎ、冷蔵庫の棚の配置換え。ささっとやらないと、ピーコ、ピーコ。無視していたら、庫内灯が消えた。そっか、白熱電球が点きっぱなしだと、温度がどんどん上がるからね。ふむ、けっこう賢いじゃないの、あんたって。だいたい「まあ、当面はこれで行くか」という配置になったところで、今日はまず野菜や果物の大量仕入れ。一番大きなトートバッグ2つに一杯詰めて、家に帰ってごそっと冷蔵庫に押し込んで、今度はスーパーへ。今度は2つのトートバッグと予備のエコバッグ、さらにレジ袋ひとつの大量仕入れ。
こういうときに思うのは、ワタシも母の娘なんだなあってこと。戦中、戦後と厳しいモノ不足時代を過ごした亡母はあれこれと大量に買い置きする癖があった。70年代初めだったか、トイレットペーパー狂乱が起きたときは、押入れに大きな箱の買い置きがあったおかげで、騒動が収まるまで不自由せずに済んだっけ。子供は親の背を見て育つと言うけど、知らず知らずに受ける影響もけっこう大きいんだろうなあ。いや、あんがいそっちの方が大きかったりして。
一段落したところでもう夕食のしたくの時間。日本は金曜日(13日だ!)だから、一応メールをチェック。仕事の話がなくて胸をなでおろしたけど、マリルーから入院中のママの具合があまり良くないというメール。骨折の手術はうまく行って、ママも早くリハビリを終わってホームに戻りたがっていたんだけど、どうやら感染症が起きてしまって抗生物質を点滴投与しているとか。その薬のせいなのかどうかわからないけど、ちょっと言うことが混乱していたり、食欲がなかったりするらしい。う~ん、カレシは春にパパを亡くしたばかりなのに、大丈夫かなあ。
とりあえず、病院の場所を聞いて、週末に会いに行くことにしたけど、かくしゃくとしているとはいえ、92歳の高齢。免疫機能はかなり衰えているだろうし、心配だなあ。パパのときも、肺炎にかかって抗生物質がよく効かず、うんと強力なのに切り替えてみたけど、ある時点からは坂を転げるように生きる意欲をなくしてまったというし、ママは強い人なんだから、ここで感染なんかに負けちゃダメだよ。
パパのときは言動にほとんど感情を出さなかったカレシだけど、今度はちょっと動揺しているのが行動の端々に出てくる。未だに心の奥底で振り切ることができずにいるらしい「見捨てられ不安」が頭をもたげて来たのか、状況を聞くメールを送って返事がないと「メールが届かなかったか、無視されたかだ」とぶつぶつ。メールに返事がないなら、マリルーの職場にでもジムにでも電話して直接聞けばわかるだろうに、「返事が来なかった(無視されたのか?)」というところに思考がズームインして止まってしまっている。(そういえば、ニッポンのギャルに夢中だったときも、ちょっとメールが来ないと「もうボクのことが嫌いになったの?」と、被害妄想丸出しで返事を催促していたっけな。やっぱりボーダーラインの可能性が高いのかなあ。それにしても、「~してくれない」、「~された」と怒っているのを聞いていたら、なんとなく小町を読んでいるような気分になって来ちゃったけど、どういうことなんだろうなあ・・・。
13日の金曜日の戯れ言
8月13日。金曜日。「13日の金曜日」だ。なんか寝つきが悪かったのに、けっこう早く目が覚めてしまった。カレシの方はなぜかもっと早起き。早めだからベーコンポテトと目玉焼きでしっかりと朝食。今日は予告通りに暑くなりそ~。正午でもう22度になっている。予想最高気温は、今日は26度、土曜日は28度で、日曜日28度、そして月曜日は29度・・・。うは~、またまた真夏の到来かあ。やれやれ。
カレシはやっぱりママのことが心に重くかかっているようだけど、「ほんとに深刻な事態だったら電話してくるだろうさ」と、一応は落ち着いた構え。自分の気持を言葉でうまく言えない人だから、ここはしばし静観。きのうの夜は、キッチンに現れたと思うと、まだ食洗機に入れずにカウンターにおいてあった汚れた食器を1個だけ水でゆすいで姿を消すこと3度。食洗機で洗うから特にゆすぐ必要はないんだけど、どうも衝動的に何かやらなければならない気分だったらしい。今日も、午後いっぱいやたらと何かを口に入れてもぐもぐ。そうやって「間食」しながら、しばらく不要だった制酸剤をいくつもかじっていた。ストレスなのはわかるけど、メープルリッジには(個人開業の外科医院というのは原則として存在しないので)総合病院がひとつしかないことことを確かめて、住所と電話番号をメモしてあげたのに腰を上げないから、しょうのない人だなあ。ヘンな意地を張って、返事があるまで行かないつもりなの?ほんっとに困ったちゃんだねえ、あなたって。
大プロジェクトに取りかかる前に、スキャンして送られてきた何百枚もあるページを少しずつ印刷することにして、その間メールをチェックしていたら、「客先からの質問」というメッセージ。校正担当者からの質問はよくあるけど、たまにはこんな風に発注元から来ることもあって、たいていが翻訳発注の担当者が英語に精通していないらしい場合。普通なら用語や表現の選択の根拠を説明すれば納得してくれるんだけど、今度の質問は説明だけでは不足らしく、「例を示せ」という要求付きで、なんだか「信用できないから証拠を出せ」とでも言っているように聞こえる。英単語がたった2語なんだから、ちょこっとググッてみれば一般的な表現だとすぐにわかるだろうに、やれやれ、こっちはテルミー(教えて)ちゃんか。しかも、証拠を出さなければ信用しないとほのめかす、やたらと肩肘張った挑発的な構えきているから、そんな態度じゃあ、こっちだってつむじのひとつも曲げたくなる。んっとに、自分でググってみろっつうの、もう!
それにしても、こういうやたらと突っかかりたがる人、掲示板なんかにもごまんといるなあ。悪名高きにいちゃんねるはもっとすごいだろうと思うけど、ローカル日本語掲示板にも必ずいたっけ。相手の発言に突っ込みを入れているつもりなんだろうけど、鬼の首を取ったように根拠を示せ、証拠を出せというばかりで、自分の意見は述べない。まあ、自分の考えがないから言えないんだろうけど、昔のカレシもよくその手を使ったな。何の話をしていても反論のための反論としか思えない議論を吹っかけてきて、こっちが説明しようとすると「根拠を示せよ、根拠を」。どんなことにでも、いくらでも自在に反論できたのは、自分の信じるものがなかったからなのかな。
相手をねじ伏せることだけが目的の議論はモラルハラスメントの常套手段だけど、小町横町にもそういう人がちらほら出てくるようになった。例の「かわいそうな日本人」トピックでも、本当に自分の考えることを元に反論していると思えるのはほんのひと握りで、ほとんどは感情的な攻撃だった。一応は根拠を挙げてはいたけど、どうやらマスコミや政府の宣伝を鵜呑みにして受け売りしているとしか思えない「建て前」がほとんどで、さすがに「少なくとも小町にずらりと並んだタイトルをじっくり観察してから攻撃に出たらどうなのよ」と言いたくなった。こういう反射的に感情論に走る人のことは何ちゃんなんだろう。ひょっとしたら「お黙りちゃん」かな?
でも、ほんとはちょっと痛いところを突かれて、「○○国(○○人)に比べたら、~な/~じゃない日本(日本人)は進んでいる/エライ/すごい等々」と反論する人が多いのは、「自分はいかに日本を愛し、日本人であることを誇りに思う」ということが言いたいんだろううし、日本に限らず、どこの国の人間であっても、自国に誇りを持つのはあたりまえだと思う。ただし、他国(他人)と比較しての「自己評価」は、自らの手で自国(自分)の未来の変革や進歩の芽を摘み取ってしまう危険があるように思うんだけど、どうなんだろう。
変わって行く街並み
8月14日。土曜日。暑い。ゆうべは夜中を過ぎてもまだ20度以上あって、今年初めてエアコンをかけたままで寝た。どうもまだ寝つきが悪くて、5時過ぎにやっと眠りについたらしいのに、8時過ぎに猛烈な咳の発作で目が覚めてしまった。水を飲んでも止まらない。咳き込んでいるうちに、気管がぜいぜいといい出して、息が苦しくなってくる。それでもまあ、いつのまにか治まって眠ったようだけど、起きたらかなりの寝不足感。おまけに暑い。気温は正午でもう26度。とにかく暑い!
もっとも、家の中は最上階のエアコンで冷えた空気が下がってくるから、南側の窓のブラインドやカーテンを閉めておけば、汗だくになるほどの暑さにはならないんだけど、ラジオのニュースで「暑い、暑い」と連呼されると、実際以上に暑いと感じてしまうから人間の感覚っておもしろい。まあ、湿度が40%以下なのがせめてもの幸いかな。だけど、こう暑くては仕事をしようという気分にもならないので、今日はごろごろ。ママの状態は落ち着いているようだし、お見舞いに行こうにも、今日と明日は毎年恒例のアボッツフォードエアショーがあって、市内より数度は暑い郊外で交通渋滞に巻き込まれるのはつらい。ということで、月曜日に行こうという話になったけど、天気予報はまだ「30度」。はあ、暑い・・・。
地元新聞を見ていたら、開通から1年になる「カナダライン」の沿線の開発計画が急がれすぎているという記事があった。月曜日の17日でちょうど開通満1周年なんだけど、1日あたりの利用客数が想定したより3年も早く10万人を超えたという。市は地下鉄ができる前からキャンビーストリートの総合開発計画を立てていたというけど、利用する人たちが思ったより多かったのでデベロッパーの関心が高まったということらしい。キャンビーはダウンタウンから市の南端まで続く長い幹線道路で、途中にバンクーバー市役所やその石材を切り出したクィーンエリザベス公園があって、昔から独特のキャラクターを持っている。それがこれからどんどん変わっていくということなんだけど、どんな風に変わるかが問題。
たとえば、ブロードウェイとの交差点からキャンビー橋までの風景は、西側のフェアビュースロープのコンドミニアム開発が一杯になって、キャンビーを越えて軽工業?地区だった東側に建ち始めたかと思うと、さらに東のウォーターフロントにオリンピック選手村ができ、大型量販店が続々と進出してきて、交通量が多いだけで何の変哲もない交差点があれよあれよという間に活気の溢れる新しい「ダウンタウン」に変わった。Whole Foodsへ行くのにブロードウェイ駅で降りて地上へ出ると、坂道の先にキャンビー橋があり、その先にイェールタウンの高層コンドミニアムがノースショアの山並みを背景ににょきにょきと建っていて、思わず写真を撮りたくなるような景観が目の前にある。10年前にはこんな「都会化」は想像もしなかったと思う。このブロードウェイを地下鉄が走るようになれば、衰退の一途をたどっている(ように見える)ダウンタウンにとって変わることは間違いないだろうな。
ブロードウェイから坂道を上って市役所を過ぎると、地下鉄工事で一番の貧乏くじを引いたと言われるキャンビーヴィレッジで、小さな商店街と三階建ての古いアパートがいくつも並んでいて、お気に入りのレストランだった「トマト」は自動車整備工場の一部を改装した60年代のインテリアだったし、昔のバンクーバーはこんなんだったのかなあと思わせる田舎っぽい雰囲気が残っているところ。だけど、ここも古いアパートがタウンハウスに建て替えられたりして、だんだんにおしゃれな「ヴィレッジ」になるんだろうなあ。クィーンエリザベス公園のあたりからオークリッジまではちょっと高級な住宅地、バンクーバーで最初にできたショッピングモールのオークリッジは再開発を計画しているし、駅の工事の規模からみて将来は地下鉄の東西線が視野に入っているはずだと思う。その先はマリンドライブまではきっとコンドミニアムやタウンハウスが立ち並ぶようになるだろうな。
そのマリンドライブ駅のそばに計画されている大規模開発が今のところ台風の目らしい。キャンビーの西側はマーポールと呼ばれる地区で、かっては独立した町だったところ。ここにも昔の面影が残る古いアパートがたくさんあって、住民たちが計画の規模が大きすぎると、開発反対を唱えているそうな。市のゴミ収集ステーションとリサイクル場が近くにあるので、風向きによっては悪臭が漂ってくるとか。開発で人口が増えたらもめるだろうな。私たちは今のところに落ち着くまで東側にあるしょぼい賃貸タウンハウスに住んでいたけど、ゴミの臭いはしなかったと思うけどなあ。そのかわり、路地を隔てた中華料理屋からよくワンタンスープの匂いが漂って来ていたけど・・・。
まあ、バンクーバーはまだ若い都市だから、これからも街並みはどんどん変わっていくと思う。地下鉄沿線の再開発が進めば、我が家のあたりにも影響が及んでくるかもしれないな。それが良い影響になるか、悪い影響になるかはまだわからないけど、その頃には高齢化した私たちは地下鉄の駅やモールに近いコンドミニアムに引っ越しているかもしれないね。
極楽とんぼ亭:DINE-INスペシャル第28回
8月14日。木曜日、金曜日と2日がかりで3ヵ所を回って大量の食材を仕入れたので、フリーザーも冷蔵庫も久々に満杯。暑いからどこへも行かない今日は、冷蔵庫の買い替え騒動で延期していたカレシのバースデイディナーをすることにした。
今日のメニュー:
アミューズブーシュ(ファイロカップ入りキハダマグロ3通り)
豆腐のバーボンコーンクリーム
揚げギョーザ
マヒマヒのトマトマリネ焼き、オクラ
ローストビーフ、ポートワインリダクション、温野菜添え
(サラダ ― ルッコラ、松の実、パルメザンチーズ)
よく作るタルタル風のまぐろからヒントを得て、わさび醤油味、しそ梅味、山椒味の3通りのキハダマグロをファイロパイの小さなカップに山盛り。指でつまんでさくっと食べられる簡単前菜。
[写真] 壊れた冷蔵庫の冷凍室から救出したコーンで作ったクリームスープの残りにバーボンウィスキーとルイジアナの唐辛子ソースを加えて作った即席のクリームソース。Hマートで買ったチューブ入りのソフト豆腐を崩さないようにそっと輪切りにしてさっとゆでたのを入れて、唐辛子ソースで彩り。まったくもって突飛な思いつきだったけど、けっこういけていた。
[写真] 鶏もも肉とニラで作ったギョーザのあんがフリーザーに残っていたので、揚げワンタン風に作ってみた。ちょっと味覚の切り替え・・・。
[写真] マヒマヒは日本では「シイラ」というそうだけど、むちっとした食感がいい。今日はひと口サイズに切ってトマトのパサタと白ワインにしばらく漬けておいて、香ばしくトーストした小麦の麦芽の衣を着けて焼いた。
ここでグラス一杯分ほど残っていたロゼを温めてアルコールを飛ばしたものをグラニータ風に凍らせて出すつもりだったのが、凍るのが間に合わなくてアウト。我が家の定番ワイン、ニュージーランドのソヴィニョンブランから、海を渡ってオーストラリアのシラズに切り替えて・・・。
[写真] カレシがたまには赤身の肉もいいなあというから、今日のメインはサーロインのローストビーフ。脂身がないのでグレイヴィーができないから、ポートワインを煮詰めてリダクションソース。オリーブ油を塗ってローストした黄色いビーツに、蒸したパティパンとピッコロポテト。パティパンは紡錘形をしたミニとうなすで緑色のと黄色のがある。ポテトは仕上げにチーズを載せてちょっと溶かした。
カレシが作ったサラダは野生のルッコラに、パルメザンチーズとトーストした松の実。オリーブ油と白ワイン酢で和えて、最後に白トリュフの香りのオリーブ油をたらして仕上げ。ちょっと青臭くて土臭いルッコラの味がなんともいえない味わいだった。
おなかがいっぱいで眠くなってしまったけど、急いで年をとる気のない人に、遅ればせのハッピーバースデイ!
暑い日には熱く考えてみる
8月15日。日曜日。今日も暑い。ポーチの温度計は午前11時にはもう26度。ダウンタウンでは30度まで行っちゃいそうで、そうなったら「猛暑日」だなあ。でも、きのうはエアコンのフィルターを掃除して、ついでに換気装置のフィルターも取り替えたおかげで、過激な咳き込みはなくて少しはよく眠った気分。これで寝つきが良くなればしめたものだけど、とりあえず寝不足感は改善かな。
就寝が遅かったのにカレシはやたらと早起き。マリルーに電話してママの様子を聞いたらしい。感染症は急性膀胱炎だったそうで、快方に向かってはいるけど、ちょっと抑うつ気味とか。ひとりで好きなようにやりたい人が病院のベッドに閉じ込められた状態ではむりもないなあ。ワタシだって、原因不明の急性腹症で入院したときには、検査待ちにしびれを切らして逃げ出したもんなあ。まあ、手術後でも感染のような合併症が起きなければ数日で退院させられるのがふつうで、ワタシなんか子宮全摘手術をして5日目に「それくらい元気ならもう帰っていいよ」と言われちゃったけど。あしたはクロスワードの本を持って行ってあげようっと。
仕事を始めようかどうか迷っているうちに午後2時半。ポーチの温度計は29度の目盛を通過しそうな勢い。うわ~あっつい。だけど、天気予報をみると、木曜日は降水確率が40%で、最高気温は20度以下。この夏は観測史上もっとも雨が少ないそうだから、お湿りはうれしいな。でも、当たるかなあ。ラジオの天気予報では「雨」なんてひと言もいってないけどなあ。まあ、ラジオ局の予報は専属の地元の予報士がやっているから、当たる確率はこっちの方が高そうだけどね。
小町で「日本人かわいそう」トピックのヒステリックな非難合戦に呼応して、これまた欧州在住という人が『日本をもっと住みよくしよう』というトピックを立てた。どの国も一長一短だとは思うがと前置きした上で、『どうしたら大衆レベルで考えた時に、「日本人が今のステイタスを保ちながら」「日本が経済成長を続けながら」国民の精神的幸せ度があがるか』を話し合おうという趣旨だけど、書き込みが「かわいそう」トピックでは450本を超えて打ち切り間近なのに対して、こっちの方はなかなか増えない。どうしてかと思ってのぞいてみたら、ここをこうしたら、あそこをああしたらという具体的な意見が多くて、どっちのトピックも同じことを「欠点」として指摘しているのに対照的な反応で、特に『何か問題が起こった時、日本では「誰のせいなのか」をとことん追求する気がします。それよりは「どうすれば解決するのか」の方を優先した方が有益ではないでしょうか』というひと言に、「かわいそう」トピックがここまで燃え盛っている理由がワタシなりに理解できた気がした。
要するに、自分たちが不平不満を抱いている日常の「問題点」を、海外に住むことでその日常を免れている同胞に指摘されて「かわいそう」と言われたもので、ぶっちぎれたということだろうな。「Truth hurts」というけど、「日本は○○だ」と言われれば「どこそこ国はもっとダメだ」と言い返し、「日本人は○○だ」と言われれば「どこそこ人はもっとひどい」と言い返し、「外国かぶれ」と罵倒する、まるで砂場での子供同士のけんかのような応酬を繰り広げているのは、日ごろの不満やもやもやは「誰か」が何とかしてくれるべきことだから、「何が問題で、自分はどうしたいのか」というところまでは考えたことがない人たちなのかもしれないな。そのあたりは小町のタイトルを見れば一目瞭然で、これが普通なのか?どれが常識なのか?誰それが○○してくれない(泣)。○○してほしい(不満)。誰それに○○された(怒)・・・。
もっとも、こういう依存体質の人間は世界中のどこにでもいるもので、カレシにもそんなところがあるし、日本人が特許を持っているわけじゃないけど、ひょっとしたら日本では政治家や官僚、産業界、さらにはマスコミまでが結託して、そういう(自分たちにとって好都合な)国民になるように教育して来たんじゃないのかと勘ぐってみたくなることはある。でも、やっぱり「かわいそう」はないよなあ。だって、「これはおかしい」、「このままではだめだ」、「何とかしなければ」という人の数がクリティカルマスになれば変えられることなんだから。
比較的涼しいベースメントにこもっているうちに、午後4時半、ポーチの温度計はとうとう30度。この暑さ、何とかしてほしいんですけど。それよりおなかがすいたなあ・・・。
夏の終わりが来る予兆
8月16日。月曜日。ゆうべはゆっくりとシャワーを浴びてリラックスしてからベッドに入ったので、かなり良く眠れた気分。だらんとした寝不足感がなくなったから、これだけでもバスルームを改装した価値があったな。きのうはあちこちで「猛暑」の新記録樹立だったそうで、今日もまだ暑そうだけど、何となくきのうほどには暑くならない予感。農業共進会として始まって今年で100年になるPNEが始まるこの週末、はたしてジンクス通りに雨が降るかどうか・・・?
朝食を済ませて、今日こそはママのお見舞い。クロスワードパズルを持って行こうと思っていたけど、きっともうたくさんもらっているだろうからと、本を持って行くことにした。フォリオから会員権更新のおまけとして送られてきたアーサー王の伝説もの3冊。お母さんがイギリス人だったママは昔からイギリスの歴史ものや小説が好き。それぞれの本はそれほど重くないから、病院のベッドでも楽に読めそう。郊外は市内よりずっと暑いから、ショーツにタンクトップのいでたちで、水筒を持参で出発。月曜日の午後だから道路はそれほど混んでいないけど、空の色が何だか変だなあ。背景の山がかすんで、ほんのりとピンク色。内陸部の何百ヵ所で燃え盛っている森林火災の煙や煤が海岸地方へ流れて来ているせいらしい。そういえば大気汚染注意報が出ていたから、トラックの窓を開けずにエアコンをガンガンかけて走ること1時間とちょっと。
ママがいるのはリッジメドウズ病院。いつも思うんだけど、大きな病院ってどうしてこう迷路みたいにできているんだろうな。ジムに聞いた道順を思い出しながら、あっちへうろうろ、こっちへうろうろして、やっとママの部屋を見つけた。ごく標準の4人部屋で、「亜急性疾患棟」となっているけど、どうやら高齢者専用の病棟らしい。病室には見舞い客が座れる椅子がないので、ワタシはベッド脇にあった車椅子に座り、カレシはベッドの端に腰を掛けて、なぜかパパの家系の昔話。あんがいママの記憶を試しているのかもしれないけど、老人のボケって新しい記憶から始まるんじゃなかったのかな。まあ、アルバータ州エドモントン出身のパパの家系は、父方、母方のどちらにも建築家や教育家、地方自治に携わってエドモントンの道路に名前を残した「勝ち組」がいる一方で、職人や森林労働者、はては社会の底辺で生きた「負け組」がいて、同じ両親の間に生まれた兄弟姉妹でもこうも違った生涯になるのかと驚くくらい両極端だから、きいているだけでドラマチックでおもしろい。
話がけっこう弾んで、お見舞いは1時間半。ママは今はベッドから起き上がって床に下りるのに介助がいるけど、少しずつリハビリが進んでいるそうで、少々荒っぽい療法士には「死んだ夫にそんなことをしたら大変なさわぎだったわよ!」と叱咤しているとか。もう少し運動機能が回復して、歩行補助器を使って歩けるようになればホームに帰してもらえそうで、待ち遠しくてしょうがないというのを聞いて、カレシもワタシもほっとして病院を出た。トラックをスタートさせながらカレシ曰く、「頭のほうはまだ90%くらいしゃんとしてるから大丈夫だな」。うん、そうだね。
ひと安心して帰ってきて、夕食のしたくにかかる前にメールをチェックしたら、うは、いつのまにか仕事の話がずらり。怒涛のごとく、あっちからどさっ、こっちからはもっと大きいのがどさっと、常連のクライアントがいっせいに勢ぞろいした観があるけど、久しぶりのところにノーというのもつれない感じだし、オーストラリアの編集者と組んでの仕事はノーと言いたくないしで、結局は極楽とんぼ流の「まっ、いいか」でぜ~んぶOK。いいのかなあ。徹夜になっても知らないよ、アンタ。だけど、PNEが終われば新学年だし、カレシの英語教室もすでに13人の生徒さんがサインアップして開講を待っているそうだし、ふむ、この仕事のなだれも、暑い夏もそろそろ終わりが近いという予兆なのかなあ・・・。
人間は政治的な動物なのだ
8月17日。火曜日。ゴミ収集車の音で目を覚まして、おっ、今日はちょっとばかり暑さもほどほどって感じ。正午の気温が24度だから、予報通りほんとに猛暑が去ってくれるのかもしれないな、と思ったけど、午後2時にはポーチの温度計が26度。やっぱり暑いや。
施行されて1ヵ月半が経ったHST(統合売上税)。新たに州税部分の課税対象になったレストラン業界は客足や売上が減ったとぼやき、不動産業界も新築住宅の売れ行きもばったりと落ちたそうな。廃止を求める署名運動は州の全85選挙区で「総有権者数の10%」の規定を満たして「有効」と認定されたけど、保守と革新が角を突き合わせることが多いこの州では、これはすごいことだと思う。それだけ州民は頭に来ているわけだけど、州選挙委員会は2件のHST関連訴訟が完結するまでは議会に送らないと決定。その訴訟の審理が始まったところで、この先の展開がおもしろくなって来た。反対運動派は州議会を通さずに内閣の政令だけで新税を施行したのは違憲といい、政府はHSTは連邦議会の法律で施行されたのだから連邦政府の管轄権下にあるといい、署名運動そのものを無効として訴えた産業界団体は「協同的連邦主義」の産物だからHSTは合憲という。署名した70万人の州選挙民は「選挙で導入しないと公約しておきながら、選挙に勝ったとたんにそれを反故にした」ことに怒っているんで、もちろん選挙公約が口約束にすぎないことは百も承知だけど、「議会に諮らずに実行した」というところを問題視しているんだけどなあ。
要するに、HST反対派の言い分は、州選挙民を代表する州議会に諮らずに内閣の命令だけで施行された税だから、「taxation without representation(代表なき課税)」にあたるということで、この「代表なき課税」は植民地時代のアメリカで有名なBoston Tea Party事件が起きて、やがて独立運動、そしてアメリカ合衆国の誕生に発展した民主主義の基本のひとつ。だから、反対運動派は政府が70万人の有効署名を無視するなら、選挙民の代表として機能していない州議会の与党議員を全員リコールすると言っているんだし、連邦政府の管轄だと言うのなら、少数政権でひょっとしたら解散・総選挙に追い込まれるかもしれないハーパー首相や連邦議会に働きかけると言っているわけ。署名運動の先鋒に立って来たバンダーザーム元首相曰く、「我々の最強の武器は政治的な力だ」。州最高裁の判断がどう出るかわからないし、最終的にHSTが廃止になって元の二本立ての売上税に戻る可能性は小さいだろうな。それでも、草の根民主主義はむだにはならないと思う。アリストテレスは「人間は本来政治的な動物である」といったそうだけど。
政治だの経済だのをあれこれ考えるのはおもしろいけど、たぶんワタシは「人間」のやることについてあれこれ考えるのが好きなのかもしれないな。きのうは完全にマニュアル思考で、何のために翻訳するのかさえわかっていなさそうな人に遭遇して、返す言葉もないくらいに唖然とした。ひょっとしたらこの人は「単語暗記カード」で英語学習をしたのかもしれないと思ってみたけど、ものごとへのこだわりがすごく強くて、「A=BであってA=B´はありえない」と信じていそうな感じだったな。デジタル思考とでも言うのか、若い人なんだろうな、きっと。「A=B´はありえない」と思っているうちはまだ自分の視野を狭めるだけだからいいんだけど、「ありえない」が「あってはならない」になったらちょっと怖いなあ。こういう思考回路の人たちが社会の中心層になったら、政治やビジネス、さらには人間関係はどんな風に変わるんだろう。(そのヒントはもうあちこちで見えているように思うけど・・・。)
ま、急に仕事の予定がびっちり詰まってしまっては、のんきに極楽とんぼを決め込んでちんたらちんたらと白日夢に耽っているわけには行かない。なにしろI’ve got to make a living(稼がなきゃ)なんだから、腕をまくって、勝負鉢巻を締めて、いざ・・・。
神様がバベルの塔を壊す前
8月18日。水曜日。あんまり涼しいもので、けっこう早くに目が覚めてしまった。ラジオをつけたら、正午前の気温はなんと14度。え、きのうより10度も低いじゃないの。ひと晩中エアコンを(ファンは低速だったけど)かけっぱなしだったから、どうりで涼しいはずだ。ということで、週末から連続運転だったエアコンを即刻ストップ。
例のめんどくさいテルミーちゃんからは「その3」が来ていない。やれやれ。クライアントを通じて「そんな型通りにはいかないもんなんだよ」と諭した?もので、「こっちは客なのに態度悪い!」とつむじを曲げてしまったのかな。まあ、どうやら最近はこういう(前例や自分の思い込みと)違っていることを極端に嫌う人が多いらしくて、担当者も辟易することがあるらしい。やっぱり、今どきはマニュアル的思考で「正解」はたったひとつと思い込んでいる人が多くなって来ているのかもしれないな。あるいは、「白」か「黒」かのデジタル思考で固まってしまって、白でもなく黒でもないグレーゾーンは二者択一の思考回路とはまったく別の、ゲーム風に言うならどんな魔物が出てくるかわからない「伏魔殿」的な空間だから怖い、入りたくないということなのかもしれない。
この思考空間のグレーゾーンというのは、「白」と「黒」の両極端の間に気が遠くなるくらい茫洋と広がっているらしくて、ある種の禅問答のような感じもする。あるとき、天文学の本を読んでいて、とんでもないことを考えたことがあった。自分を天球のの中心に置いてみると、視点(point of view)は水平に0度からぐるりと360度の中に無数にあるし、水平線上のある一点(0度)から垂直に見上げれば、天頂を通過して反対側の一点まで180度、そこから見下ろせば、天底を通過して元の点までさらに180度で、結局はぐるりの360度。さらにその360度の輪を水平に1度ずつずらしながら、なわ跳びのなわのように回したとすれば、この天球の中には全部でいったいいくつの「視点」があるのか・・・いやはや、天の赤道や黄道を描いた天球の図を見ながら考えていたら、頭がめちゃくちゃにこんがらかってしまった。そのときは、まあ少なくともこの地球上に住む「考える葦」の数くらいはあるだろうと、ぼんやり結論してみたけど、数学的にはちゃんと計算すれば出てくる「正解」があるんだろうな。
どうもワタシは突飛な(あるいは飛躍的な)思考をする癖があるんじゃないかと思うなあ。だから、グロッサリだのスタイルガイドだのにぎちぎちに縛られるIT関係の改訂版マニュアルの翻訳が大嫌いなんだろうな。(昔はローカリゼーションで荒稼ぎさせてもらったのにそう言ってはなんだけど・・・。)たしかに統一性、一貫性が重要なのはよくわかっているけど、文章表現が少しぐらい違っていても、言っていることが同じだったら、特有の用語さえ一貫していれば読む人には伝えたい情報がちゃんと伝わるから問題はないと思うんだけど、マニュアル思考の人たちにとっては、それは必要もないリスクを冒してグレーゾーンに踏み込む「危険思想」ってことになるのかもしれないな。神様がバベルの塔が壊す前の「皆一つの同じ言葉を使い、同じように話していた」時代を懐かしく思う遺伝子か何かが存在するというわけではないとは思うけど・・・。
何をもって良しとするか
8月19日。木曜日。正午近くなって目が覚めたら、曇り空。窓の外を見たカレシが「道路がぬれているよ」と報告。へえ、予報どおりにちゃんと朝のうちに雨が降ったんだ。まあ、お湿り程度らしかったけど、それでも気持はいいな。ゆうべは2人ともなんか疲れた気分で少しばかり早寝したのに早起きしなかったのは涼しくなってエアコンがいらなかったせいかもしれない。暑いときには(特に暑がりのカレシが)眠れないから夜通しかけるんだけど、ベッドの方には風を送らないようにしていても、睡眠の質にかなりの影響があるんじゃないかと思うな。
向こう1週間の予報を見たら、今度は最高気温が平年よりちょっと低め。ま、とりあえず夏はひと休みというところ。でも、州中央部の内陸地方の森林火災はまだ300ヵ所近くが燃えているそうで、その煙が気流に乗ってロッキー山脈を越えてアルバータ州まで流れ、州都エドモントンもその南のカルガリーもスモッグに覆われて、大気汚染警報が出たそうな。写真を見たら、エドモントンの空がピンク色。ママのお見舞いに行ったときにハイウェイから見たフレーザーバレーの空と同じ灰色がかったピンク色。まあ、ピンクがかった灰色というべきなのかもしれないけど、なんでピンクなんだろうなあ。
同じ新聞に、BC州では、生きている間の連邦、州を合わせた所得税は所得が7万ドル以下なら全国最低の税率になるけど、死んだときの遺言検認の手数料はカナダ各州で3番目に高くて、遺産が50万ドルあったら6,658ドルも取られるという、ある大手会計事務所の試算があった。これは遺言状があればの話で、遺言状なしで死んだら政府が遺産の管財人になって、相続人を決めて配分するので、普通の人間の遺産なんかへたをすると手数料だけで吹っ飛んでしまう。なにしろ、カナダには日本のような相続の決まりがないから、遺言状は必須。いい大人が遺言状を作っておかないのは無責任だと思われる。だから、ワタシはずっと前からきちんと遺言状を作っておこうと言ってるのに、カレシは「ボクは死なないつもりだからそんなのいらない」とかなんとかムニャムニャ・・・。
それが、パパが他界して、ママが入院する騒ぎがあって、弟のジムとママの遺言状について何か話したらしく、「オレたちも遺言状を作っておかないとなあ」と言い出したところだった。まあ、資産といえるものは全部共同名義だから、どちらかが遺言状がなしで死んでも凍結されそうなものはほとんどないんだけど、問題は両方とも死んだ後。なにしろ2人の間には子供がいないもので、甥や姪やその他の相続資格のある人たちを探し出して、どの配分するかを決めるだけで政府にほとんど持って行かれかねない。(ワタシは慈善団体か文化事業に寄付したいと思っているけど。)いつも何かあるとすぐに「オレが払った税金」、「オレの金」と文句をたれる人だから、さっそく記事を読んで聞かせたら、「政府に遺産を残すわけにはいかないよ」と、その場で今年中の最優先案件ということになったから、笑っちゃうなあ、もう。
ニューズウィークが世界100ヵ国を教育、健康、生活の質、経済の活力、政治環境の5項目の総合点でランキングしていて、インタラクティブに各国を比べられるのがおもしろい。1位はフィンランドで、カナダは7位、日本は9位だそうだけど、1位フィンランドと2位スイスが共に89点台、3位のスウェーデンは88点台で、87点台に4位オーストラリア、5位ルクセンブルグ、6位ノルウェイ、7位カナダの4ヵ国が並び、8位のオランダは86点台。その後に日本、デンマーク、アメリカが85点台で続き、12位のドイツと13位のニュージーランドが84点台、14位イギリスから15位の韓国、16位フランス、17位アイルランドまでが83点台、18位オーストリアと19位ベルギーは82点台、81点台がなくて、20位のシンガポールと21位のスペインで80点台というスコアだった。長寿国の日本は健康の項目で100点だったけど、生活の質と政治環境で点が低くて総合点を下げた感じかな。でも、人口5千万人以上の「大きな国」の中では1位だからね。
まあ、何をもって「良い国」とするかは、何をもって「幸せ」とするかが人それぞれなのと同じように、その国の人それぞれ。どんなに科学的な英知を駆使した「客観的な評価」であっても、ランキングの好きな人たちがおもしろがるだけで、それぞれの国に住んでいる人たちにとってはあまり意味がないように思えるんだけどなあ。
おらが街の夏祭り
8月20日。金曜日。カレシはすぐに眠れても目が覚めるのが早すぎるとぼやき、ワタシはなかなか寝つけないとぼやきつつ、目覚めは正午過ぎ。パターンは逆だけど、眠ろうとしてもなぜか体がリラックスしてくれないというところは同じだな。季節の変わり目なのか、別のストレス要因があるのか、だんだんに寝不足感がたまって来なければいいけどなあ。まあ、あんがい2人とも「高齢者」になったというだけのことかもしれないけどね。
今日もあの暑さがまるで嘘みたいに涼しい。明日からPNEが始まるんだから、当然かな。今年で100年目なのを記念して、今日の午後にダウンタウンのビーチアベニューで15年ぶりだかのパレードがあるそうな。まあ、ワタシがPNEパレードを見たのは1回だけで、カレシと一緒に住むためにカナダに来た35年前の夏。小雨模様の肌寒い土曜日だったような気がする。カレシの勤め先がヘイスティングスストリートに面したビルにあったので、7階の誰もいないオフィスの窓からパレードを見物した。(連邦政府の機関だったから、今ならセキュリティが厳しくて入れてもらえないだろうな。)当時の州首相や市長が自転車や徒歩で参加していて、なんか楽しそうに手を振っていたのが印象的だった。まあ、今の日本のものさしで測ったら「ダサい」と言われただろうけど、ま、農業共進会から発展したPNEは「おらが街の夏祭り」といったところで、ワタシが子供だった頃に神社の夏祭りで見た神輿や山車の行列とさして変わらないと思うけど。
戦後から長らく恒例になっていたパレードがなくなった理由は覚えていないけど、今年のは百年記念の特別企画で今回限りなんだそうな。再開するのかと思っていたら、なあんだ、つまんない。子供の頃から毎年パレード見物をするのが家族行事だったと遠い目になるバンクーバーっ子は多い。夏休みで初めてバンクーバーに来たときにステイ先の家族と一緒に行ったけど、イギリス人の夫と日系人の妻とハーフの娘とフル日本人の(ティーンに見えた)ワタシとで、「夫婦と子供2人」のふりをして「お得な家族割引」で入ったっけ。ワタシ、25歳。あれは運命の年だった・・・。
カレシとPNEに出かけたのは3度くらい。まだ新婚の頃だったけど、2度目のときだったか、ぬいぐるみの賞品がもらえる賭博ゲームで大当たりしたことがあった。25セント玉1個で最初に当たったのが小さなぬいぐるみ。次も当たったらそれをひと回り大きいのに交換して、次も当たったら・・・と止めるまで続けるしくみで、途中で外れたら最初のちっぽけなのに戻るわけだけど、何回当たり続けたやら。最後に渡された賞品はワタシの背丈ほどもある真っ赤な「くじら」のぬいぐるみ。バスに乗ってアパートまで持ち帰ったけど、バスの運転手はにやにやして「こら、そいつの料金を払わんかい」。ひと抱えもあったから運ぶのにかなり苦戦したっけ。あの25セントの元手で手に入れた真っ赤なくじらは、その後長いことクッションの代わりになっていた・・・。
小学生の頃、PNEの会場からそう遠くないところで育ったカレシは近所のはなたれ小僧たちと「裏口入場」が決まりだったそうな。つまり、フェンスの破れ目や子供の手でよじ登れるところを狙って、ただで入場。巡回の警備員に見つかって追いかけられることもしょっちゅうだったそうだけど、期間限定のアルバイトおじさんでは子供の逃げ足の速さにはかなわないから、実際につかまったことはないとか。あの地区は貧しい家庭の多いところだったから、あんがい「捕まえてお灸をすえてやる」という脅し程度に追いかけて、見逃してくれたという可能性もなきにしもあらずのような感じがするけど、当然お金のかかる乗り物に乗れるはずもなく、楽しめたのは十代になる頃までだったらしい。こんな風に、今年100周年を迎えたPNEには、バンクーバーっ子たちのいろんな懐かしい思い出がこもっているのだ。
PNEにはもう30年以上行っていない。今年はカメラをもって行ってみようかと話し合ったけど、また食べたことがなかった名物のミニドーナッツと1フィートもある長いホットドッグをせめて一度だけでも食べてみたかったけど、こんなに仕事が詰まってしまっては、今年もダメだなあ。まあ、いつも「来年があるさ」なんだけど・・・。