ANPさんのコメント投稿が続いておられるが、申し訳無い。
山門入り口さんと違って、適当なレスが思いつかないので、このままにさせて頂く。
けして『既読スルー』のつもりは無いので、どうか気を悪くせず、ご容赦願いたい。
信仰者のブログに目を向けて見れば、多少速度は落ちたものの、厳虎さんのブログが更新されていることに安心した。
もっとも、投稿者は相変わらず学会員に占められているのが何とも【お察しください】。
厳虎さんは学会畑を歩いたことがあるのだろうか。
私は全く歩いたことが無いので、学会ネタを持ってこられても、やはり返信に困るのである。
だからだろう。高速太郎さんなどは、そんなに『学会あるあるネタ』だとか、『創価の功徳』を持ち込むことをご遠慮なさっておられる。
お気遣い頂き、有り難い限りである。
パラパラ茜さんのブログは最近になって輪を掛けてひどい。
他の法華講員さんのブログ内容を批判する前に、自分の胸に手を当てろと思う。
と、同時に馬脚を露すとはあのことか。
私が顕正会員の時だって、使わなかった。
以下の引用文は、2014年8月16日付『本部行ってきます』から一部を抜粋したものだ。
私の今のお寺の紹介者が自身のブログで主張されているが、引用は著作権法でちゃんと認められている合法行為である。
>しっかりとお題目して、ついでにスパムヒステリックロリコン害児に天罰酷いのが下る事お願いしなくちゃ。
これに違和感のある仏教徒はいるだろう。
いや、今さら怨嫉者を怨嫉する御仁のことだから、内容自体はもういい。
問題は、天罰の2文字だ。
顕正会員で、これを使う人っているのだろうか。
私は足掛け10年ほど顕正会にいたが、『罰』という言葉を使う人がほぼ全員だった。『天罰』とは言わない。
私はカッコつけて、仏様が下す罰なのだからと、『仏罰』という言葉を使用している。これは今も変わらない。
恐らく、私の小説の中にも『罰』というより、『仏罰』という言葉の方が出てくるはずだ。
で、『天罰』という言葉は1度も出していないはず。
無論、『天罰という表現は誤りだ』と然るべき人から聞いたわけではない。
諸天善神が下す罰なのだから、天罰でもいいのかもしれない。
ただ、私だけだろうか。天罰という言葉は、謗法の神が下す罰という表現のイメージが頭から離れず、それで今でも使うのを躊躇っているのだ。
もし仮に、例えば小説の中でどうしても使わなきゃいけない場合は、仏罰と区別する為に、神罰という表現を使うようにしている。
それこそ謗法の神が下す罰というイメージに近いだろう。
まあ、それ以前に、呪いの願掛けは却って罪障を積むからやめなさいという指導は顕正会でもしてるはずなんだけどね。
私も比較的入会初期の段階で、当時の上長が教えてくれたぞ。
仮にどうしても許せない人間がいる場合、私も聖人君子ではない。むしろサイコパスだから、却って折伏しないようにしている。
つまり、救ってやらない。勝手に自滅しろという塩梅だ。今現在、パラパラ茜さんに対してがそうだ。
勤行の祈念で呪うということは絶対にしない。
罪障消滅にはならないが、改めて積むこともない。今現在の私の境涯では、これが精一杯だ。
自滅といっても、それが私の想定外の方向へ行ったりしたら(恐らく行くだろうが)、さすがに私も焦るかもしれない。
>ウサギを虐待した白井景子に罰が出るように御祈念したらすぐに顕れましたしね♪
事情は全く知らないので、その白井某さんについてはスルーさせて頂く。
ただ、重箱の隅をつつくようで申し訳無いが、恐らく茜さんが祈念しなくても、何らかの現証はあっただろう。
黙っていても起こったであろう現証に、ヘタに呪いの願掛けをしたことで、それなりの罪障を積んだ。
つまり、損しただけである。
茜さんは御本尊を信じているようで、実は全く信じていないことに留意するべきだ。
もし仮に普段からの行いが悪い怨嫉者がいれば、こちらが何かアクションしなくても、勝手に御本尊が何かしらアクションして下さるのだ。
誓願が如何にただのノルマであるかが分かるというもの。
本来、折伏というのは仏様の布教のお手伝いをさせて頂くものである(……から、そもそも誓願を設けること自体、法華講においてもおかしいと山門入り口さんは主張されている)。
全て自分の力で布教しなくてはならない、悲しい顕正会員の性(さが)というのが、今回のパラパラ茜さんのブログ記事の端緒に表れているのだ。
哀れとしか言いようがない。
山門入り口さんと違って、適当なレスが思いつかないので、このままにさせて頂く。
けして『既読スルー』のつもりは無いので、どうか気を悪くせず、ご容赦願いたい。
信仰者のブログに目を向けて見れば、多少速度は落ちたものの、厳虎さんのブログが更新されていることに安心した。
もっとも、投稿者は相変わらず学会員に占められているのが何とも【お察しください】。
厳虎さんは学会畑を歩いたことがあるのだろうか。
私は全く歩いたことが無いので、学会ネタを持ってこられても、やはり返信に困るのである。
だからだろう。高速太郎さんなどは、そんなに『学会あるあるネタ』だとか、『創価の功徳』を持ち込むことをご遠慮なさっておられる。
お気遣い頂き、有り難い限りである。
パラパラ茜さんのブログは最近になって輪を掛けてひどい。
他の法華講員さんのブログ内容を批判する前に、自分の胸に手を当てろと思う。
と、同時に馬脚を露すとはあのことか。
私が顕正会員の時だって、使わなかった。
以下の引用文は、2014年8月16日付『本部行ってきます』から一部を抜粋したものだ。
私の今のお寺の紹介者が自身のブログで主張されているが、引用は著作権法でちゃんと認められている合法行為である。
>しっかりとお題目して、ついでにスパムヒステリックロリコン害児に天罰酷いのが下る事お願いしなくちゃ。
これに違和感のある仏教徒はいるだろう。
いや、今さら怨嫉者を怨嫉する御仁のことだから、内容自体はもういい。
問題は、天罰の2文字だ。
顕正会員で、これを使う人っているのだろうか。
私は足掛け10年ほど顕正会にいたが、『罰』という言葉を使う人がほぼ全員だった。『天罰』とは言わない。
私はカッコつけて、仏様が下す罰なのだからと、『仏罰』という言葉を使用している。これは今も変わらない。
恐らく、私の小説の中にも『罰』というより、『仏罰』という言葉の方が出てくるはずだ。
で、『天罰』という言葉は1度も出していないはず。
無論、『天罰という表現は誤りだ』と然るべき人から聞いたわけではない。
諸天善神が下す罰なのだから、天罰でもいいのかもしれない。
ただ、私だけだろうか。天罰という言葉は、謗法の神が下す罰という表現のイメージが頭から離れず、それで今でも使うのを躊躇っているのだ。
もし仮に、例えば小説の中でどうしても使わなきゃいけない場合は、仏罰と区別する為に、神罰という表現を使うようにしている。
それこそ謗法の神が下す罰というイメージに近いだろう。
まあ、それ以前に、呪いの願掛けは却って罪障を積むからやめなさいという指導は顕正会でもしてるはずなんだけどね。
私も比較的入会初期の段階で、当時の上長が教えてくれたぞ。
仮にどうしても許せない人間がいる場合、私も聖人君子ではない。むしろサイコパスだから、却って折伏しないようにしている。
つまり、救ってやらない。勝手に自滅しろという塩梅だ。今現在、パラパラ茜さんに対してがそうだ。
勤行の祈念で呪うということは絶対にしない。
罪障消滅にはならないが、改めて積むこともない。今現在の私の境涯では、これが精一杯だ。
自滅といっても、それが私の想定外の方向へ行ったりしたら(恐らく行くだろうが)、さすがに私も焦るかもしれない。
>ウサギを虐待した白井景子に罰が出るように御祈念したらすぐに顕れましたしね♪
事情は全く知らないので、その白井某さんについてはスルーさせて頂く。
ただ、重箱の隅をつつくようで申し訳無いが、恐らく茜さんが祈念しなくても、何らかの現証はあっただろう。
黙っていても起こったであろう現証に、ヘタに呪いの願掛けをしたことで、それなりの罪障を積んだ。
つまり、損しただけである。
茜さんは御本尊を信じているようで、実は全く信じていないことに留意するべきだ。
もし仮に普段からの行いが悪い怨嫉者がいれば、こちらが何かアクションしなくても、勝手に御本尊が何かしらアクションして下さるのだ。
誓願が如何にただのノルマであるかが分かるというもの。
本来、折伏というのは仏様の布教のお手伝いをさせて頂くものである(……から、そもそも誓願を設けること自体、法華講においてもおかしいと山門入り口さんは主張されている)。
全て自分の力で布教しなくてはならない、悲しい顕正会員の性(さが)というのが、今回のパラパラ茜さんのブログ記事の端緒に表れているのだ。
哀れとしか言いようがない。