8時。大内宿を出発する。朝から快晴だ。

朝早いので、お店も開いていない。

急な階段を上がって神社まで行く。

神社の前から大内宿を眺める。まさに江戸時代の街並みが広がっている。

この墓標は、桜木姫の墓だ。桜木姫は高倉宮以仁王の正室である紅梅御前の側室だった。彼女は以仁王の後を追ってここ大内まで辿り着いたが、長旅の疲れから病に伏し、虚しくも18歳という若さで亡くなったといわれている。桜木姫という名は、病で倒れた姫のつく杖から桜が咲いたということから付けられ、現在は墓の傍に桜の木が植えられている。

大内ダムの堰堤に向かって進む。

タンポポが咲き誇る丘陵地帯をひたすら上がって行く。

登りきると、大内ダムの堰堤だ。大内ダムは、一級河川・阿賀野川水系小野川の最上流部に、調整池を設けることで揚水発電を行う計画を目的に1974年に着工。19年の歳月を掛け1991年(平成3年)に完成したロックフィル型ダムだ。付近一帯は、大川羽鳥県立自然公園に指定されている景勝地のため、環境を考慮して発電所の設備一切は地下に建設されているそうだ。

2日目も下野街道の標柱を目印に山道に入っていく。

倒木を越えながら山道を進んで行く。

一里塚跡を通り抜ける。

大内峠古戦場。戊辰戦争の際、松川新道と下野街道から進撃してきた西軍は、田島宿で合流し、倉谷宿から攻め入り、沼山での激戦を経て大内宿に入りました。慶応四年(一八六八)八月三十一日のことだ。すでに大内峠まで撤退を余儀なくされていた会津軍は、越えさせてはならない南側最後の防御線であるため、この尾根伝いに陣を張り、進軍してくる西軍と九月二日から三日間、し烈な戦いを続けました。この戦闘を裏付けるように、大内沼からは大砲弾、茶屋跡からは鉄砲弾が発見されているという。

この戦いでは両軍ともに多くの犠牲者を出しており、大内峠周辺の街道沿いには、この攻防で亡くなった両軍の墓碑をいくつも見ることが出来る。

大内峠の茶屋跡。大内峠を登った大名をはじめ多くの庶民がこの茶屋で小休止し、一息ついては再び旅の途についていったのだろうが、今は茅がずり落ち、荒れ果てている。

いよいよ、この辺りから荒れた道に入っていく。舗装道路で行く選択コースもあるのだが、あえて旧道の山道を歩きたいと思い、この道に入っていく。

道標など何もなく、ただ、地図と方角だけを頼りに進む。

時々道らしき場所もあり、何とか進んで行く。

倒木を乗り越え進むが、ますます迷宮に入り込んでしまったようだ。大きな熊の糞もあり、熊がいつ出てきてもおかしくない場所だった。

後半は、山の急斜面を登ったり下りたりと、道に迷いかけたが、沢沿いに進み、やっとのことで舗装道路に出ることが出来た。一人では、間違いなく遭難しそうなルートだ。その後は、わかりやすい舗装道路の道を進む。

戦士四十人墓。戊辰戦争で亡くなった戦士たちの墓で、他にも所々に戦士の墓がある。

会津若松市内に入る。道の途中に、山本覚馬・新島八重 生誕地の案内があった。新島八重(1845~1932)は、会津藩砲術師範・山本権八とさくの三女(六人兄弟)として生まれ、兄・覚馬から習った砲術を得意とし、白虎隊員への指導の一方で、戊辰戦争では自ら鶴ヶ城に籠城。会津藩が降伏し開城前夜に詠んだといわれる歌が伝わっている。生誕地は、奥の方なので、寄らずに先を急ぐ。

鶴ヶ城の天守閣が真横に見えてきた。

国道から外れ、野口英世青春通りに入る。野口英世が左手の手術をした会陽院跡が喫茶店として営業しており、ここを中心に野口英世が、書生として多感な青春時代を送ったゆかりの地だ。

野口英世青春広場には、世界的な細菌学者であった野口英世の銅像が、まちと広場の賑わいを見守るように立っている。

14:50。富士の湯に到着。ここが最終日のゴールだ。

2日間で50キロほどの下野街道新緑マラニックを無事完走することが出来た。ほとんど人とすれ違う事もない山道ばかりで、新緑を堪能し、会津の風情を楽しむことが出来て良かった。
参考1.マラニック2日目のコースマップ

参考2.マラニック2日目の高低図&コースタイム

朝早いので、お店も開いていない。

急な階段を上がって神社まで行く。

神社の前から大内宿を眺める。まさに江戸時代の街並みが広がっている。

この墓標は、桜木姫の墓だ。桜木姫は高倉宮以仁王の正室である紅梅御前の側室だった。彼女は以仁王の後を追ってここ大内まで辿り着いたが、長旅の疲れから病に伏し、虚しくも18歳という若さで亡くなったといわれている。桜木姫という名は、病で倒れた姫のつく杖から桜が咲いたということから付けられ、現在は墓の傍に桜の木が植えられている。

大内ダムの堰堤に向かって進む。

タンポポが咲き誇る丘陵地帯をひたすら上がって行く。

登りきると、大内ダムの堰堤だ。大内ダムは、一級河川・阿賀野川水系小野川の最上流部に、調整池を設けることで揚水発電を行う計画を目的に1974年に着工。19年の歳月を掛け1991年(平成3年)に完成したロックフィル型ダムだ。付近一帯は、大川羽鳥県立自然公園に指定されている景勝地のため、環境を考慮して発電所の設備一切は地下に建設されているそうだ。

2日目も下野街道の標柱を目印に山道に入っていく。

倒木を越えながら山道を進んで行く。

一里塚跡を通り抜ける。

大内峠古戦場。戊辰戦争の際、松川新道と下野街道から進撃してきた西軍は、田島宿で合流し、倉谷宿から攻め入り、沼山での激戦を経て大内宿に入りました。慶応四年(一八六八)八月三十一日のことだ。すでに大内峠まで撤退を余儀なくされていた会津軍は、越えさせてはならない南側最後の防御線であるため、この尾根伝いに陣を張り、進軍してくる西軍と九月二日から三日間、し烈な戦いを続けました。この戦闘を裏付けるように、大内沼からは大砲弾、茶屋跡からは鉄砲弾が発見されているという。

この戦いでは両軍ともに多くの犠牲者を出しており、大内峠周辺の街道沿いには、この攻防で亡くなった両軍の墓碑をいくつも見ることが出来る。

大内峠の茶屋跡。大内峠を登った大名をはじめ多くの庶民がこの茶屋で小休止し、一息ついては再び旅の途についていったのだろうが、今は茅がずり落ち、荒れ果てている。

いよいよ、この辺りから荒れた道に入っていく。舗装道路で行く選択コースもあるのだが、あえて旧道の山道を歩きたいと思い、この道に入っていく。

道標など何もなく、ただ、地図と方角だけを頼りに進む。

時々道らしき場所もあり、何とか進んで行く。

倒木を乗り越え進むが、ますます迷宮に入り込んでしまったようだ。大きな熊の糞もあり、熊がいつ出てきてもおかしくない場所だった。

後半は、山の急斜面を登ったり下りたりと、道に迷いかけたが、沢沿いに進み、やっとのことで舗装道路に出ることが出来た。一人では、間違いなく遭難しそうなルートだ。その後は、わかりやすい舗装道路の道を進む。

戦士四十人墓。戊辰戦争で亡くなった戦士たちの墓で、他にも所々に戦士の墓がある。

会津若松市内に入る。道の途中に、山本覚馬・新島八重 生誕地の案内があった。新島八重(1845~1932)は、会津藩砲術師範・山本権八とさくの三女(六人兄弟)として生まれ、兄・覚馬から習った砲術を得意とし、白虎隊員への指導の一方で、戊辰戦争では自ら鶴ヶ城に籠城。会津藩が降伏し開城前夜に詠んだといわれる歌が伝わっている。生誕地は、奥の方なので、寄らずに先を急ぐ。

鶴ヶ城の天守閣が真横に見えてきた。

国道から外れ、野口英世青春通りに入る。野口英世が左手の手術をした会陽院跡が喫茶店として営業しており、ここを中心に野口英世が、書生として多感な青春時代を送ったゆかりの地だ。

野口英世青春広場には、世界的な細菌学者であった野口英世の銅像が、まちと広場の賑わいを見守るように立っている。

14:50。富士の湯に到着。ここが最終日のゴールだ。

2日間で50キロほどの下野街道新緑マラニックを無事完走することが出来た。ほとんど人とすれ違う事もない山道ばかりで、新緑を堪能し、会津の風情を楽しむことが出来て良かった。
参考1.マラニック2日目のコースマップ

参考2.マラニック2日目の高低図&コースタイム
