今日の毎日新聞には、「首相らの言葉 著しく思慮欠く罪深さ」という社説が載っていた。読んでいて、筆者の嘆く気持ちがよくわかった。最近の政治家の言葉には思慮をかける発言が多く、昔よりより顕著になっているという。
社説では、安倍晋三首相がインターネットの「フェイスブック」で、2002年の小泉純一郎首相(当時)の訪朝にかかわった田中均元外務審議官を名指しで批判した一件や、高市早苗自民党政調会長が「福島第1原発で事故が起きたが、死亡者が出ている状況ではない。安全性を確保しながら(原発を)活用するしかない」と講演で語った発言を指摘している。
確かに一国の総理大臣という最高権力者が、部下ともいえる官僚を名指しで批判するのは大人げない。しかもフェイスブックというSNSの場で、あけすけに批判するのは土俵が違うという感が強い。問題を論じあうなら、官邸とか、国会の場で論じる事であって、内輪の問題であろう。意見を言う場所をわきまえておらず、自制心を書いた発言だというのは同感である。指導者というものは大きな度量を持っていてほしい。
また、高市氏の発言も、原発事故で直接亡くなった人はいないにせよ、自治体が「震災関連死」と認定した人は福島県が圧倒的に多く、そんな人たちの気持ちを全く考えていない発言だと指摘している。後に高市氏は、謝罪をしたというが、周囲から批判を受けるまで自分の発言にどれほどの重みがあるかということを考えた事はなかったのであろう。
しばらく前の、橋下大阪市長の従軍慰安婦に纏わる一連の発言は、全く論外でこれ以上語りたくないほどの内容だったが、その後も、いろいろと呆れる発言が飛び出しているようだ。民主主義国家である以上、いろんな意見があって、お互いの意見を戦わせるのはいいが、あまりにも攻撃的な言葉は、人間性を疑われる。筆者の最後の言葉に「人には、とりわけ政治家には越えてはいけない一線がある。中でも他者を思いやるのは最低限のルールだ」と書かれていた。まさにその通りだ。他者を思いやる気持ちがない人には政治家になってほしくないものである。
毎日新聞社説(2013.6.20)
http://mainichi.jp/opinion/news/20130620k0000m070124000c.html
社説では、安倍晋三首相がインターネットの「フェイスブック」で、2002年の小泉純一郎首相(当時)の訪朝にかかわった田中均元外務審議官を名指しで批判した一件や、高市早苗自民党政調会長が「福島第1原発で事故が起きたが、死亡者が出ている状況ではない。安全性を確保しながら(原発を)活用するしかない」と講演で語った発言を指摘している。
確かに一国の総理大臣という最高権力者が、部下ともいえる官僚を名指しで批判するのは大人げない。しかもフェイスブックというSNSの場で、あけすけに批判するのは土俵が違うという感が強い。問題を論じあうなら、官邸とか、国会の場で論じる事であって、内輪の問題であろう。意見を言う場所をわきまえておらず、自制心を書いた発言だというのは同感である。指導者というものは大きな度量を持っていてほしい。
また、高市氏の発言も、原発事故で直接亡くなった人はいないにせよ、自治体が「震災関連死」と認定した人は福島県が圧倒的に多く、そんな人たちの気持ちを全く考えていない発言だと指摘している。後に高市氏は、謝罪をしたというが、周囲から批判を受けるまで自分の発言にどれほどの重みがあるかということを考えた事はなかったのであろう。
しばらく前の、橋下大阪市長の従軍慰安婦に纏わる一連の発言は、全く論外でこれ以上語りたくないほどの内容だったが、その後も、いろいろと呆れる発言が飛び出しているようだ。民主主義国家である以上、いろんな意見があって、お互いの意見を戦わせるのはいいが、あまりにも攻撃的な言葉は、人間性を疑われる。筆者の最後の言葉に「人には、とりわけ政治家には越えてはいけない一線がある。中でも他者を思いやるのは最低限のルールだ」と書かれていた。まさにその通りだ。他者を思いやる気持ちがない人には政治家になってほしくないものである。
毎日新聞社説(2013.6.20)
http://mainichi.jp/opinion/news/20130620k0000m070124000c.html
>政治家が、その言葉で失敗したり、問題をおこすことは古今、数多い。
>特に最近は、それが目立つ。例えば、アベノミクス効果で好調な経済を演出し、今や圧倒的な支持率を誇る安倍首相は、歴史認識問題で米国や韓国の不興を買い、その言葉をトーンダウンさせた。
>また猪瀬東京都知事は、アメリカのメディアのインタビューで、オリンピック招致のライバル都市を貶めることを言ったということで謝罪に追い込まれた。
>さらに橋下大阪市長、日本維新の会共同代表は、従軍慰安婦について誤解を与えるようなことを言い、また沖縄駐留米軍に風俗業の活用を進言したということで問題になっている。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
日本人は文章を熱心に作らない。文章を作ることは、考えを練る事に通じている。
英語には時制がある。文章を作らなくては、時制が表せない。だから、文章にして語ることは重要なのである。
日本語には時制がない。文章は常に現在時制 (現実に関すること) に定まっているようなものである。だから、単語だけのやり取りで、ことが足りるものと自他ともに思っている。
そのため、政治家となって、外国人と理想 (非現実) の話もできず、何を言っているかも理解されず、そのために国を過ちに導くことも多い。
司馬遼太郎の、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の件、
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである…」
この言葉は、おおいに頷けるものでした。
私も、自分の国語力が足らないなあと思いつつブログを続けています。
一度書いても、何度か読み返すとおかしいなと思う部分が出てきて
何度か直してアップしているのですが、やはり誤解されやすかったり表現が足らないなあと思う時があります。
文章で語る事は、何度も考えを練らなければ、簡単にはできません。
それに対して、口からいったん飛び出た言葉は、修正がききません。
政治家の言葉は重いですから、文章で語るように思慮を重ねた言葉でなければならないのですね。