たかたかのトレッキング

駆け足登山は卒業、これからは一日で登れる山を二日かけ自然と語らいながら自由気ままに登りたい。

(続)前沢曲家集落・薬師堂

2022年10月27日 | 

集落散策を前に集落の奥に鎮座する薬師堂を載せる事に致します

薬師堂

 

 

この天井画は明治40年の大火の時に火元となった家の者が「申し訳ない事をした」と再築したお堂に描いたものだそうです。かなりの年月が経っているにも関わらず鮮やかな色を保っていますね。

前沢集落は村長を何人も排出するなど才に長けた人物が多かったのだそうです。この堂もそうした人たちに寄って造られたものなのでしょう。

 

 

 

   

 

裏山から流れて来る水は生活用水として使われていた様です。軟水なのでしょう。今でもお茶やコーヒーを煎れるのに使われているのだとか。

   

お豆腐屋さんを見つけました。今は水道水でしょうが当時お豆腐を作るのにも集落内を流れるお水は欠かせなかったでしょうね。

無人販売 雄さん、熊の爪のフォルダーをゲット(500円)

ハロウィン?

ポツンと離れた所に一軒

 

集落の外れ、舘岩川に注ぐ支流が有ります。川向うの原には初夏、とりどりの花が見られそう。こんな茫々とした景色も捨てがたいものが有りますけどね。続きます、コメント欄はお休みにしました。

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福島・前沢集落へ

2022年10月26日 | 

続き

日光、鬼怒川を抜け舘岩に着いた時には時刻は15時を回りススキの穂を斜光が煌めかせている時刻でした。前沢集落は燧ヶ岳登山の帰り偶々見つけて寄ってみましたが丁度ロケ中で集落を廻る事が叶ず、どうしてももう一度訪れたいと言う思いから、あれから20年の歳月を経て漸く実現する事が出来ました。(入場料300円。前回は確か無料だった)風は有りませんでしたが標高が幾分上がっていますので空気は冷たく思わず身を縮めました。

舘岩川の流れの何と美しい事でしょう

舘岩川の脇に建つ民家

右にバッタリ小屋が見えてきました

 

昭和30年頃まで茅葺のバッタリ小屋が並び2・3軒が共同で米・粟・キビなどをつく杵の音が響き渡っていたと言う事ですから長閑な雰囲気だった事でしょう。

先ず曲家資料館になっている民家に靴を脱ぎました

ここ前沢集落は文禄年間に横田城主・山内氏勝の家人、小勝入道沢西が主家が滅んだ際に移り住んだのが始まりでしたが明治40年、全戸焼失する大火に遇い建て直しに同一大工集団が関わったためL字形態の整った統一的景観が生まれたとの事です。曲家は農耕馬と一緒に暮らしていた頃の名残ですね。

 

 

 

生活をするにはやはりシステムキッチンでないと現代人にはキツイでしょう

 

 

 

自然と共に生きて来た先人の暮らしぶりが伺えます

館長さんのお話によれば、ここは1m以上の積雪に見舞われる様です。今ではエアコンを設置しているのでしょうが当時は山で伐採した木をこうして斧で割り暖を取っていたのでしょうね。天井は煤で真っ黒でした。

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栃木・福島の旅の初めは・・・国定忠治

2022年10月25日 | 

この時期、いろは坂を抜けるコースは渋滞でどうにもならないだろうと、みどり市経由で向かう事に。どうせこちらを通るなら前から気になっていた忠治の墓を訪れるのも良いかもしれないと養寿寺を目指します。

養寿寺

 

この立派な笠松を忠治も愛でたでしょうか

 

 

ここは長岡一族の菩提寺なのか長岡姓の墓が目立ちます

大戸の処刑場に3日間晒された首を妾のお菊が持ち帰りここ養寿寺に埋めたと言われています。強きをくじき弱きを助ける。侠客の神髄を貫いた忠治の心意気は新国劇の代表作となり一躍その名を世に広めました。当時の代官・簡堂は忠治が飢饉の時に民衆を救ったと言うのに自分は何もできなかったと書き残したそうですが、この覚書は忠治を知る上で、かなり信用が置ける貴重な資料とされているのだとか。

又、萩原朔太郎は❝氷島❞に「国定忠治の墓」と言う詩を載せています。・・・路傍の笹風に吹かれて無頼の眠りたる墓は立てり  朔太郎も忠治の心意気に何か感じるものがあったのでしょうか。

忠治の墓石を煎じて飲むと賭け事に強くなると言う噂が広まり墓石を削って持ち帰る人が現れ長岡院法誉花楽虚子と刻まれた戒名も今では読み取れないほど薄れておりました。

今回、資料館を楽しみにしていたのですが草刈りをしていた住職さんに尋ねましたところ現在は閉館しているとの事でした。忠治モドキの人達の訪問を拒絶しての事なのでしょうか。

忠治の墓を後に日光の神橋を右に見て

杉並木を過ぎ

嘗て登った日光連山を懐かしみ私達は一路、福島へと向かいます。

コメント欄、お休みです。

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野麦街道~松本~思い出の丘(4)

2020年10月11日 | 

続き

宿泊した旅館は「静風荘」 雄さんが感激する程、どこもかしこも清潔な旅館でした。前日、アチコチを検索し、さてGoToトラベル申請を試みましたが、やり方が多分悪かったのでしょう、IDだったかパスワードだったかを入力しても弾かれてしまい受付ならず、面倒になったので車中泊に決め床に就きました。翌4時、目覚めると雄さんが「良い所を見つけた、夕食は付いてないが宿泊料金5555円。口コミは★4つ半の評価」 それが静風荘さんでした。

「GoToトラベル申請されてますか?」と言うので、していない事を話すと女将さんが「私も良く解らないのですが、息子が戻ったら聞きながらやってみますね」と仰って下さいましたが息子さんが中々戻らなかったからか「四苦八苦しながら何とか出来ました」と代理で申請をして下さったのです。2000円のクーポンは養蜂をやっていると言う息子さんが作った蜂蜜を購入する事に。

チェックアウト後、旅の事や世間話を30分くらいしたでしょうか。気さくで親切なご夫婦だった静風荘さんを後に今日の目的地へと出発致しました。 

 

「松本で宿泊する事が有ったら迷わず静風荘さんだね」と言いながら宿の御主人さんが詳しく教えて下さった地図を頼りに無事、標高1000mに在る美鈴湖に到着。どこか箕輪の鳴沢湖に似ている可愛い湖です。ヘラブナ釣りのメッカとかで太公望の釣り糸を垂らす姿がありました。紅葉も素晴らしいと言う事でしたが漸く始まったばかりで一部、薄っすらと染まっているだけでした。

 

 

美鈴湖から美ヶ原林道に入り間もなく紅く色付いた桜やモミジに思わず車を停めますと最初は水草に覆われていて気が付きませんでしたが木柱に書かれた文字を見て、この池が渋池である事を知りました。

   

アカマツ林の続く林道は谷川の道路が崩れたらしく二ヶ所ほど工事中です。

真っ赤なモミジ

 

 

今日は台風の影響でアルプスを望む事は叶いませんでしたが晴れていたらなら快適なドライブとなった事でしょう。 道のアチコチに停まっている車は多分キノコ採りでしょうか。でも静風荘の御主人さんは今年は不作だと仰っておりました。

周辺ははレンゲツツジの群落で初夏に訪れたら、きっと大感激の場所でしょうね

今日の目的地、思い出の丘駐車場に到着です。

(続く)  本日もコメント欄はお休みします

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野麦街道(3)

2020年10月10日 | 

続き

野麦街道は江戸と飛騨を結ぶ江戸街道が正式名ですが、飢饉の時に籠を背負ってこの辺りを埋める熊笹の根元から生える小さな実を摘み、それを粉にして団子を作り飢えをしのいだ事から里人は何時の頃からか熊笹を野麦と言う様になったそうです。なので野麦と言う地名は存在しないと言う事になりますね。

さて峠を越える街道と言えば石仏くらいしか見るものも有りませんが今日の宿へ行くには時間がたっぷり有りましたので、それらをジックリ観ながら降りて行こうと思います。

この石塔は「比丘尼の墓」

家に帰ってから比丘尼とは、どんな人物だろうと調べてみましたら、この街道沿いに美しい女性が住んでおり旅人に餅を振る舞っていたそうです。 何時しか餅の美味さと美貌の良さは峠越えの人たちにも知れ渡るところとなり必ずこの茶屋で餅を食べお茶で喉を潤し峠路の苦労を忘れたと言います。 また絶世の美女で有った事から、この辺りを美女平と呼ぶ様になりました、と言う事で案内地図を調べましたら確かに美女平は存在しておりました。

 

 

少し下ると双胎道祖神の側に石室が在りました。物を貯蔵して置く為の物では無く旅人や女工さんの為に造られたもので中を覗きますと暖をとる為の竈が有り腰を下ろすための板が設置されておりました(現在ある石室は新しく造られたもの)いわゆる避難小屋ですね。

資料館の様です

川浦のバス停

この川浦には工女たちが雪の峠越えを前に一休みし仮寝の宿「蓬莱館」が在った様ですが何処ぞへと移築された様で今は在りませんでした。 この宿こそ見送りに来た親との別れの宿で翌朝には「山一」「山ニ」「片倉組」「小松組」等々の岡谷の製糸工場の社名を書いた看板や高張提灯の後に続き長い列を作って岡谷へと向かって行ったのです。

 

花に囲まれてはいても何処か寂し気な石仏群

近代的な建物も建つ野麦街道の脇にはコスモスが帯を作ります

 

 

 

 

野麦峠の最終地点、寄合渡しに着きました。道の傍らには旅館が建ち古い大和家旅館や亀谷旅館の文字も薄れた看板が見えます。ここも、かの昔 工女たちが泊った宿なのでしょうか?

奈川ダム(梓湖)

松本市の波田に残る旧波田支所

 

本日、宿泊する旅館は夕食は付いておりませんので「でんでん」という食堂で雄さんは豚肉を頼みましたが私が頼んだ物は中は柔らかく外側はカリカリした食感の鶏のケチャップ??。若い夫婦がやっている割に味の良さは素晴らしかった。川向こうは信州大学なので学生さんのお気に入りの店なのだろう。ボリュームも凄いが小食な私達はご飯は控え目にして頂いたが、それでも満腹状態でした。

             続く        本日はコメント欄を閉じます。

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