続き
野麦街道は江戸と飛騨を結ぶ江戸街道が正式名ですが、飢饉の時に籠を背負ってこの辺りを埋める熊笹の根元から生える小さな実を摘み、それを粉にして団子を作り飢えをしのいだ事から里人は何時の頃からか熊笹を野麦と言う様になったそうです。なので野麦と言う地名は存在しないと言う事になりますね。
さて峠を越える街道と言えば石仏くらいしか見るものも有りませんが今日の宿へ行くには時間がたっぷり有りましたので、それらをジックリ観ながら降りて行こうと思います。
この石塔は「比丘尼の墓」
家に帰ってから比丘尼とは、どんな人物だろうと調べてみましたら、この街道沿いに美しい女性が住んでおり旅人に餅を振る舞っていたそうです。 何時しか餅の美味さと美貌の良さは峠越えの人たちにも知れ渡るところとなり必ずこの茶屋で餅を食べお茶で喉を潤し峠路の苦労を忘れたと言います。 また絶世の美女で有った事から、この辺りを美女平と呼ぶ様になりました、と言う事で案内地図を調べましたら確かに美女平は存在しておりました。
少し下ると双胎道祖神の側に石室が在りました。物を貯蔵して置く為の物では無く旅人や女工さんの為に造られたもので中を覗きますと暖をとる為の竈が有り腰を下ろすための板が設置されておりました(現在ある石室は新しく造られたもの)いわゆる避難小屋ですね。
資料館の様です
川浦のバス停
この川浦には工女たちが雪の峠越えを前に一休みし仮寝の宿「蓬莱館」が在った様ですが何処ぞへと移築された様で今は在りませんでした。 この宿こそ見送りに来た親との別れの宿で翌朝には「山一」「山ニ」「片倉組」「小松組」等々の岡谷の製糸工場の社名を書いた看板や高張提灯の後に続き長い列を作って岡谷へと向かって行ったのです。
花に囲まれてはいても何処か寂し気な石仏群
近代的な建物も建つ野麦街道の脇にはコスモスが帯を作ります
野麦峠の最終地点、寄合渡しに着きました。道の傍らには旅館が建ち古い大和家旅館や亀谷旅館の文字も薄れた看板が見えます。ここも、かの昔 工女たちが泊った宿なのでしょうか?
奈川ダム(梓湖)
松本市の波田に残る旧波田支所
本日、宿泊する旅館は夕食は付いておりませんので「でんでん」という食堂で雄さんは豚肉を頼みましたが私が頼んだ物は中は柔らかく外側はカリカリした食感の鶏のケチャップ??。若い夫婦がやっている割に味の良さは素晴らしかった。川向こうは信州大学なので学生さんのお気に入りの店なのだろう。ボリュームも凄いが小食な私達はご飯は控え目にして頂いたが、それでも満腹状態でした。
続く 本日はコメント欄を閉じます。