たかたかのトレッキング

駆け足登山は卒業、これからは一日で登れる山を二日かけ自然と語らいながら自由気ままに登りたい。

(25)フランス・スイス紀行(20日間) 無賃乗車

2011年01月31日 | 旅行
(前夜より続く)
何時の間にか寝ていたようで暖房が入れられたエンジン音で目が覚めた。
外はまだ暗く時間的には4時半頃だろうか。
主人は?
起きたとき一人というのは心細いものだ。
が、そんなとき主人は必ず次にやらなくてはならない行動をする事を私は知っている。
その通り「切符を買いに行ったのだが改札が閉まっているので訳を話して車内で買おう。
     今、昨晩の親切な駅員が明けで帰るところだったのでお礼は言っておいたが
     を持っていたら一枚写させて貰ったのに、失敗したな
と言って戻ってきた。
5時17分、列車はサンスを離れ検察もないままパリ・リヨン駅に到着
フランスの駅に改札は無いので結局、私達は無賃乗車をしてしまったわけだが
昨夜の事も、この事も何か解らない大きな力が私達を守ってくれた様なそんな気がしてならない。
シャモニに旅立つ前にフランクと朝食をとった構内カフェで朝食をとりメトロで無事オテルへ。

あっと言う間の20日間だった。
叶うならば、もう一度シャモニからやり直したい気分である。
ドゴール空港へは17時に行けば良いので、その前にモンマルトルの丘に行くことにした。



モンマルトルは19世紀初頭までは一面のブドウ畑と風車が回る長閑な所だったそうだ。
画家や作家はそんな牧歌的な風景を求めこの地へやって来たのである。
しかし私達が今それを求めて歩いてもその面影は一片も無く
もし有るとするならば一角にヒッソリ置かれた、やや伏し目がちなダリダの胸像だろうか。



15時45分、マイクロバスを頼んでドゴール空港に向かった。
ごった返す成田空港とは大違いで諸手続きもスムーズ


                              ドゴール空港
色々なアクシデント続きで買い足りなかった土産を買い19時搭乗した。
失敗したり喧嘩もしたりの初めての海外旅行では有ったがフランスを離れ少しずつ日本に近づくにつれ
嫌な事は消え失せ楽しい事ばかりが思い出されてくる。
広大な山々と黄色いパウダーをまぶしたような草原の美しさは心に沁みるものが有った。
ツムゼーの村の心落ち着く風景は今でもしっかり目に焼き付いているし少女との一時も楽しかった。
フランスに於いては地平線の彼方まで続く小麦畑
時代が行ったり来たりしたロワール地方
オノボリサンになってパリの名所を巡り歩いた一日・・・・・・
「パドゥン?」突然、主人が口を開いた。
相手は日本のスチュアーデスさん
「フランス語はもう、使わなくていいのよ」私は笑いの中で現実に引き戻されてしまった。

13時40分、予定より10分早く成田空港に到着
外国人の顔も雄大な景色も、もう何の違和感も無くなりそれが当たり前となった今
ムッとする暑さの中で日本人と建物が妙に歪んで見えた。
私達はドゴール空港で仲良しになった姉妹が、迎えに来たオバアチャンとの再会を喜んでいる姿を横目に
一足先に帰国したO君が待つ場所へと急いだ。



こうして筆を綴る中、ドゴール空港を7/26飛び立ったコンコルド機の墜落のニュースはショックだった。


                  フランク夫妻、有難うございました。
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(24)フランス・スイス紀行(20日間) 

2011年01月30日 | 旅行
初めてのヨーロッパ旅行も残り2日となった。
今日はどうしようと思ったところへAから・・・・
盗まれた荷物が見つかったらしい。
山田さんにその旨を伝え
何はさて置きパリ・リヨン駅より12時23分発でアバロン駅まで行きそこからタクシーでヴェズレーへ向かった。

荷物が置かれた場所へ行くと
どれも泥にまみれた盗難品がズラッと並んでおりその中に哀れな青いスーツケースが見える。
中を開けてみると先ず異臭が鼻をついた。
衣類もパンフレットもグチャグチャに詰め込まれ総て水浸しである。
その中でホッとしたのは諦めていたフイルムが無事だった事だ。
祈るような気持ちでチャックを開けるとアッター
濡れてはいたが航空券が2枚。
盗まれた物は携帯電話だけだった。


             アバロンへ帰るタクシーを呼んで頂いたので「コーヒーでも飲んで下さい」と紙に包んだ紙幣を渡すと
             日本だったら職務ですからと辞退するところだがスンナリ「メルシー」

アバロン駅でAに航空券は無事だったと連絡を入れ、やっと終わったという気持ちで19時18分の電車に乗り込む。
ところがだった。
検察に来た駅員が怪訝な顔で「パリへの最終便は18時43分で、この電車はオーセル迄しか行かない」と言う。
「そんな筈はない」と日本で買った時刻表を見せると「数日前にダイヤ編成が有ったのだ」と駅員は説明した。
                             それはナイヨナ~
唯一の望みはラロッシュ・ミジェーヌの駅から出る21時16分の電車である。
オーセルで降りタクシーをつかまえチップを弾んでラロッシュまで飛ばして貰ったが無情にも列車はホームを離れるところだった。
フランスパス有効は今日までなので、こうなれば一駅でも先に行こうと22時15分発の最終便でサンスへ
大きな街で有って欲しいと願う気持ちは裏切られオテルは勿論レストランも閉まる閑散とした町だった。


                      
陽が陰ると途端に肌寒くなるフランスは夜になると一層寒くなった。
アバロン駅で買った大きなソーセージ2本を分け合って食べたが、とても足しにはならない。
一軒だけ開いていた店も場末のキャバレーの様でとても私達が入れる雰囲気ではなかった。
仕方なく駅に戻った、がホームに有る待合所はガッチリ鎖で固められドアはビクともしない。
主人が隣のホームの様子を見にいっている間、震えながらベンチに腰を下ろしていると
ラロッシュに帰る若い男性二人が話しかけてきた。
言葉が解らないとジェスチャーで答えるもかなりひつこい。
オーセルに来るとき彼等も一緒だったのは知っていたがイワユル風袋の悪い若者なのだ。
丁度そのとき主人が「此処の待合所は中に入れるぞ」と呼んでくれたので急いで隣のホームに走った。
だからと言って寒さに変わりはなく冷たい風が避けられるというだけだ。
カバンから大きな地図を出して体を覆い少しでも寝ようと横になっていると
電車を降りたとき麻薬取締りのためシェパードを連れていた駅員の一人がやってきて
「隣に停まっているいる列車は明日一番でパリに向かいます。乗っていて下さい」

勿論これはやってはいけない行為なので駅員は周りを気にしながら鍵を開けてくれたのだ。
感じの良い20代の男性だった。






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(23)フランス・スイス紀行(20日間) パリ(3)

2011年01月29日 | 旅行
コンコルド(平和)広場の周囲は車の往来が激しくなかなか渡る事が出来ない。
命がけの横断でシャンゼリぜ通りに入るとパリ祭の後片付けの最中で折角の美観が損なわれる光景だったが
青々と繁る並木はとても美しかった。
コンコルド広場から2キロほど歩いて凱旋門に到着
友達に頼まれたヴィトンのバックを買うためルイ・ヴィトンへ
話には聞いていたが店内は圧倒的に日本人客が多い。
預かってきたカタログの切り抜きを渡したところ数人で色々調べてくれたが在庫が無いらしく店員の言葉は手をあげて
「フィニッシュ」「ナッシング」だった。



以前エトワール広場と呼ばれていたこの広場は
ド・ゴールの功績をたたえて現在はシャルル・ド・ゴール広場と呼ばれている。
その広場に建つのが凱旋門だ。
建てられた当時は見渡す限り野原だったと言うから
ナポレオンが今の街並みを知ったらきっとこんな顔をしたのではなかろうか
写真は壁面のレリーフだが市街戦で血を流しながらも戦った雄々しい戦士を描いたものだ。



                       凱旋門が見えるシャンゼリゼの一角で昼食
                       ピザを一皿頼んだのだが二人でも食べきれない量だった。

ここから再びコンコルド広場方面に少し戻り途中で右折してジョルジュ・サンクス大通りを抜けアルマ橋を渡ってエッフェル塔に向かった。
アルマ橋と言えばダイアナ妃がトンネル内で事故死したところで、このニュースを知らない人は居ないだろう。



「もう、そろそろ曲がった方がいいだろうか」
「いや、もう少し行ってから曲がろう」
私達は塔を常に視野に置きながら特に目立った建物も無い通りをノンビリ歩いた。
ライン川を渡ったこちら側一体は昔、湿地帯で人も集まらない寂しい所だったという。
しかし人間の力を褒めるべきか嘆くべきか分らないがここも大きく変貌した街となったのである。
エッフェル塔が段々近づいてその真下にやって来たとき東京タワーすら見た事の無い私はその巨大さに立ち尽くした。
高さ320Mのこの塔は1889年の万博の為に建造されたパリの象徴の一つである。
この塔が照明で夜空にキラキラ輝く様はオテルですでに楽しませて貰っている。



時刻はすでに16時を過ぎていたが観光客の波は耐えなかった。
イエナ橋でセーヌ川を渡り返しエッフェル塔と向かい合うシャイヨー宮へ。
この建物は1937年のパリ万博のパビリオンとして建てられた半楕円形の博覧会場である。
その広場の一角で黒人の民族楽器が奏でる音色に耳を傾けた。

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(22)フランス・スイス紀行(20日間) パリ(2)

2011年01月28日 | 旅行
シテ島に建つコンシェルジェリーへ


              (民衆に捕えられ王の処刑から9か月後に断頭台の露と消えたマリーアントワネットの肖像)

ドナウ川とライン川を渡りフランスの王妃となったマリーアントワネットは船を降りた時から栄光と没落の運命を背負って歩み始めるのである。
もし、マリーアントワネットに焦点を絞って小説にしたならば「悲劇の王妃」という事になるのだろうか。
しかし、その陰で課税の重圧を背負わされた民衆の悲痛と憎悪はどう書き記せば良いのだろうか。
現代社会にも言える事だが、もう少し民に目を向けていたら平穏に障害を終える事が出来たはずなのに・・・


              (現在も収容所で有るため中を見学するには所持品検査を受けなければならない)



              (余りの素晴らしさにカメラを向けた。するとセンサーが働き ピィ~~。ドキッ
               でも、撮ったもん勝ち。  それ逃げろ~~


              (壁ではメドゥサが睨みを効かせていたので有りました)・・・関係ないけど


            
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(21)フランス・スイス紀行(20日間) パリ(1)

2011年01月27日 | 旅行
Mが山田さんに連絡をとってくれたところ再発行して下さるという事で搭乗券の件は一件落着。
とは言え山田さんには大変な迷惑をかける事になるのでお詫びの電話を入れると
「何も心配しなくていいのよ。折角フランスに来たのですから今日はパリの街でも観光してきたら如何ですか」
と言って下さった。
私達もオテルでジッとしていても、どうなるものでも無かったので
お言葉に甘え今日は嫌な事は総て忘れてパリの街を楽しむ事にした。
オテルの近くのメトロで10枚綴りのカルテを買い先ずはサン・ルイ島とシテ島を目指す。

セーヌ河の中州はパリ発症の地、すなわちパリの心臓部に当たる。
ガイドブックによれば2000年前、ローマ人とゴール人の神殿が有り、その後にロマネスクの聖母寺
更に12世紀の初め現在のノートルダム大聖堂の建立が始められた。
ルイ十四世は1660年にこの寺院で結婚式を挙げナポレオンの息子レグロンはここで洗礼を受けている。
ナポレオン自らの手で帝冠を頂く戴冠式の絵は私も教科書などで目にした事が有るが、それも此処で行われたのである。
又、ド・ゴール将軍の葬儀もその功績が認められ此処で行われた。


                         ノートルダム大聖堂


                         フランスを救ったジャンヌ・ダルクの像


                         シンプルなステンドグラスが印象的


                         聖母子像


                         大聖堂の裏で見かけたポリス
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