たかたかのトレッキング

駆け足登山は卒業、これからは一日で登れる山を二日かけ自然と語らいながら自由気ままに登りたい。

野麦峠(2)

2020年10月09日 | 

続き

 

この峠にはお助け小屋と呼ばれる茶屋が在ります(現在の茶屋は下の村から移築したもの)。 茶屋の縁側に座り館内から流れてくる哀史に耳を傾けていますと寒さに震えながらも「ここで休める」と安堵する少女の顔がちらつき目頭が熱くなりました。 女工たちは稼いだ1年分の僅かな給金を懐に父母の元へと帰る途中、仮寝の宿とした茶屋でしたが大勢が泊るには狭すぎて表にムシロを敷いて野宿した者も居たとナレーションは伝えていました。

時刻は12時を回りました。ここで私達は「野麦そば」を戴く事にしましたが当時、少女たちが口にした物は何だったのでしょう。たとえ具は無くも暖かな蕎麦で体を温めて上げたかったですね。

 

何の花でしょうか、峠を吹き抜ける風に揺れる姿は、まるであどけなさが残る少女の様に見えませんか?

この花の名前はリナリアだそうです。ヒゲさん有難うございました。

あぁ 飛騨が見える

女工の給金は1年で20円貰えれば良い方だったそうです。そうした中で国外向けにならない糸を出した者は皆の前で罵倒されたあげく給金から引かれるという厳しい罰則が在った様です。

腕の良い「みね」は3年で100円工女に上り詰めましたが、無情にもその時「みね」の体は結核に侵されておりました。 使いものにならなくなった者に対する工場側の扱いは酷く「みね」は物置小屋へ放り出されていたと言いますから何と言う事でしょう。 知らせを受けた兄、辰二郎は夜を徹して工場へ引き取りに向かいました。 見送る者もなく裏門を潜る時、門番が目に涙を溜め「元気になって又、来いよ。心もしっかり持ってな」と言ってくれた言葉だけが人間らしい優しさだったと後に辰二郎は語ったと言います。

この時「みね」は既に腹膜炎を起こしておりました。お助け小屋に着いたとき力なく口にした「あんさ(兄)・・・あぁ・・・飛騨が見える」と言った言葉が「みね」の最後の言葉だったのですね。

広がる自然園には晩夏の名残花が散見されます

ヨメナ

マツムシソウ

ウメバチソウでしょうか?

木の枝には美味しそうなヌメリスギタケモドキが

 

最後に乗鞍岳にもう一度、目を向け野麦峠を後に、工女たちが歩いた道付近を通った時、行きには気付かなかったツタウルシが真っ赤に染まっておりました。

(続く)

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野麦峠

2020年10月08日 | 

 

山本茂美著「あぁ野麦峠」を読んだのは何時の事だったろうか。もう、30年、いや、もっと前だったか。とても涙なくして読めないノンフィクション小説でした。山本氏は、この小説を纏めるに当たって元女工さんだった明治生まれのお年寄りに聞き取り調査をしたそうです。 そうした声の中には苛酷な「糸ひき」よりも家に居る方が辛かったと言う声も少なからず有ったと言いますから日々の暮らしが如何に厳しく辛いものであったか・・・

(1)

 

(2)

 

(3)

野麦峠への途中、12歳そこそこの少女たちは、標高1672mの深い雪に覆われた道を綿入れ半纏に藁沓で身を固め互いの体を綱で縛り励まし合いながら2月の厳寒期、飛騨から岡谷までの長い道のりを辿った一部を見る事ができます。今、左に大きく迂回して峠に辿り着く舗装路が新しく開かれ私達は労せず数十分で峠に辿り着く事が出来ますが足を滑らせて(3)の沢に落ちた工女も、かなり居た様です。

 

「あぁ、飛騨が見える」 兄が担ぐ背負子に乗って飛騨に帰る途中、この峠で息絶えた20歳の政井みねの像が立っておりました。 私達にとっても懐かしい乗鞍岳の雄姿が、みねの目にどう映ったでしょうか。何とも悲しい、みねの最後の言葉です。

 

 

 

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何度か映画化もされましたね

 

 

この映画では、みね役を三原順子が演じました。中井貴恵、岡田奈々、石田ゆり等の顔ぶれもみえます。

 

石段を降りて資料館へ行ってみました。ところが火・水曜日は休館で入館できませんでしたので周辺に開かれた自然園を散策です。

紅葉真っ盛りには、もう少し待たねばなりませんが緑の中に染まっていたのは桜葉だけ。でも初の紅葉に心が浮き立ちます。

続く

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go to 信州

2020年10月06日 | 

   

 

 

 

富士額のピン、人たらしの米子、ベルサイユのバルさんよ、貴方たち年中 我が物顔で家の庭へ来ては昼寝してるよね。 何時も目を瞑って上げてるのだからこんな時は留守番 頼みますよ

コメント欄お休みです

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(5)九州の山旅  松江観光~富山(彫刻師)

2020年09月14日 | 

続き

松江城内で、こんな箸置きを見つけました。土産用に陳列して有ったものですから、そう高額な物では有りませんが愛嬌ある形につい食指が動いてしまいました。

 

(左) 城山稲荷神社は松江城築城の際、他の寺社が全て移動させられた中で唯   一残された神社。小泉八雲は石狐が気に入り、しばしばこの神社を訪れたという

(右) 小泉八雲旧居(300石扶持の公録士族、根岸家の跡)  八雲が約7年間、新婚生活を送った場所

 

(塩見縄手)松江城、北側の堀沿いに並ぶ武家屋敷。塩見縄手とは、ここに住んでいた塩見小兵衛の功績を讃えて付けられた通り。 電柱もないこの通りは江戸時代の雰囲気に浸れる所だ。

鳥取、名和町辺りで昼時になりましたので「あんこう」の看板に魅かれここで昼食をとる事にしました。箸袋の右に「あんこう定食 刺身の盛り合わせの中に、たった二切れ」と記して在ると言う事は期待外れだったからだと思います。

又、「大山はここから15kと近い。晴れていれば右にその雄姿が望めるはずなのに今はその片鱗さえも伺えない」や、白兎海岸、砂丘、夢千代の湯村温泉の事など、つらつらと記して有るのは近くに在りながら行くには時間的に厳しく諦めざるを得なかった残念な気持ちが有ったからなのでしょう。 この日は「ふじつ温泉」泊

釣りのメッカ「三方五湖」

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私達はここで津幡の森田氏(彫刻家)を訪ねます

姿を見せた森田氏は作品から受ける印象そのままに、口はそれほど上手くはないが穏やかでどこか兄に似ている様な気がして親しみを覚えた。反面、奥様の明るさはとても好印象で盛んに「初めてお会いする様な気がしない」を連発していた。 「蛇はあまり好きではないので火箸で挟んで水槽に入れ観察している」「トカゲは自分の腕に乗せ観察するが時々肩に這い上がってしまうので又、腕に戻す、そんな事を繰り返している内に可愛くなってくる」のだそうだ。

個展用に私の家にあるトカゲと同じ物を彫ったが胴長になってしまいボツにしたと言うエピソードや手持ちの作品、今までの作品のアルバムなど見せて頂いている内に1時間はアッと言う間に過ぎてしまった。

帰り、奥様お手製のお煎餅、筍ご飯のおにぎり、加賀の和菓子まで戴き小矢部ICの方が戻らなくても済むからと、わざわざインターまで送って下さった。

この作品は白山登山の帰り立ち寄った砺波彫刻展で購入した森田氏の作品です。材料は桜の木を使用したそうですが朽ちた竹の感じが上手く表現されていますね。蛙の作品の裏を返すと蜘蛛が隠れております。

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立山連峰と越後三山

   

飯士山と大源太山

風格ある南アルプスの山並みを正面に進むうち私は何時の間にか寝てしまい起きた時には関越道に入っていた。小出を過ぎると南アルプスには負けじと肩をいからす越後三山や金城山、巻機山、アップダウンに苦しめられた飯士山、大源太山と次々に現れて、これで長かった旅も終わった事を、しみじみと思った。

九州で戴いた激辛煎餅(罰ゲームに良く使うそうだ)その辛さと言ったら・・・辛い物に強い雄さんも、さすがこの辛さには参った様で加賀の和菓子と交互に食べていた。

夜、さっそく森田氏と九州に電話をいれると平さんは留守だった。カーラジオで博多どんたくは200万人の人出で、これは日本最高だと言ったいたが、もしかしたら「のぼせもん」になっているのかもしれない。

後日、明太子や菓子などが届いた。九州を出る時、そっと「食事でもして下さい」と書いて2万円置いて来たので恐縮しての贈り物の様だ。そしてそれから数日後、安さんから花の株・数種と忘れて来たポットが届いた。

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(4)九州の山旅 福岡~松江へ

2020年09月13日 | 

いよいよお別れの朝「玄界灘を見せたい」と女性陣。 「(笑)名残惜しいとみえて中々帰して貰えないですねぇ」と山さんの御主人。と言う事で一路玄界灘へ。

蹲踞に敷く石を幾つか拾っていると、記念なので5~6個で良かったのだが皆も拾いだしビ二ール袋はみるみるイッパイ。 浜には朝鮮の匂いのするペットボトルの残骸やらがたくさん打ち寄せられ地図上でしか考えた事も無かった朝鮮の近さを感じた。

玄界灘を後に交通を司る宗像大社を外からお参り、爽風庵で博多ラーメンを戴いていよいよ今度こそ本当のお別れだ。

   

若宮ICで見えなくなるまで手を振る姿に涙が止まらず九州を後にする関門橋は涙に霞んだ。右のガラス製の鳩の置物は平さんよりの戴き物(今でも大切に棚に飾って有る)

途中、気が変わって米子道へと入った。追われる様に近づく分厚い雲に「それ逃げろ」と走って来たが雲の流れの方が早くとうとう雨が降り出した。

21時半ころ 何時、行けるか?と思っていた松江についにやって来た。その夜は松江城の駐車場で車中泊

ラジオのニュースで「其処に山があるから」の名言を残したイギリスの登山家、ジョージ・マロリー氏の遺体が75年振りにエベレスト山頂近くで見つかった事が流れた。 この事によって登頂後で有るか前で有るか謎であった事が解明される様だ。 初登頂はマロリーか?ヒラリーか?

  

周囲に車のエンジン音が煩くなり目が覚めた。雨は未だ降り止まない。 「あの白い花は?」まるで雪が降り積もったかの様だ。 説明書によれば昭和15年に植えられたナンジャモンジャの木との事。 料金所で受付を済ませ、いざ松江城へ(松江城400円、小泉八雲記念館200円、武家屋敷200円=共通券300円お得)

350年の時を生きてきた城、力強い存在感が在る

天守閣より雨に煙る宍道湖を望む

松江城は全国に現存する12天守の一つで山陰では唯一の天守閣であり大きさでは2番目、高さでは3番目、古さでは6番目との事。

未だ近辺をウロウロしております。    コメント欄は閉じました。

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