わたしは異常に涙もろい。
悲しい話や感動的な話など、すぐに目が潤んでしまう。
だが、そのとき本当に悲しんでいるか、感動しているかというとそんなことはないのだ。
むしろ「お涙ちょうだい」とか「感動の安売り」とか醒めた気持ちでいることが多い。
ところが脳のどこかに、わたしの気持ちとは裏腹に条件反射で目を潤ませる場所があるらしく
え、こんな話で泣けるの?という話でさえ泣けてしまう。
例えばドラマの途中から見て全く筋がわからないのに、
人が泣くシーンを見ただけで涙ぐんでしまうし
森三中の大島美幸が再現ビデオ(ギャグ仕立て)で泣くシーンがあったのだが
それでもらい泣きしてしまったことさえある。
話の内容よりも、人の泣く姿にもらい泣きすることが多い気もする。
わたしの父もどうでもいいドラマで涙ぐんでいるから遺伝かもしれない。
母はそういうのにドライな質で、父やわたしが涙ぐんでいると
「なに泣いてるの」とバカにしたように言うのだが
ふと、30年前にチビという犬が死んだときのことを思い出した。
チビは父が山から拾ってきた。
すでに成犬でかなり大きかったのだが、なぜかわたしはチビと名付けた。
大人しく利口な犬だったが、病気にかかっていたのか年を取っていたのか
数年で死んでしまった。
死んでしまう夜に首輪を外すと、よろよろとどこかへ行こうとし途中で力尽きて倒れた。
大泣きする、当時小学二年生のわたしに母が言い放った。
「面倒も見てなかったくせに、なに泣いてんのよ」
普通のお母さんだったら
「チビは天国に行ったのよ」とかぎゅっと抱きしめてくれるとかありそうなもんだが。
しかし、こういうドライさがわたしを強くしたと言えるかもしれない。
泣きじゃくりながらわたしは言い返した。
「面倒見てなかったから泣くんだ!」
このときの気持ちが、それから後に動物と接するときの原点になっている気がする。
動物の世話というのは、正直億劫なときもある。
散歩行くの面倒臭いな、とか小屋の掃除やりたくないな、とか。
しかし、やらなければ自分が後悔することになるという気持ちが
そういう怠け心を吹き飛ばすのだ。
動物と暮らすには愛情はもちろんだが、義務感や責任感も必要だ。
もしかすると、結婚や子育てや介護にも同じことが言えるかもしれない。
悲しい話や感動的な話など、すぐに目が潤んでしまう。
だが、そのとき本当に悲しんでいるか、感動しているかというとそんなことはないのだ。
むしろ「お涙ちょうだい」とか「感動の安売り」とか醒めた気持ちでいることが多い。
ところが脳のどこかに、わたしの気持ちとは裏腹に条件反射で目を潤ませる場所があるらしく
え、こんな話で泣けるの?という話でさえ泣けてしまう。
例えばドラマの途中から見て全く筋がわからないのに、
人が泣くシーンを見ただけで涙ぐんでしまうし
森三中の大島美幸が再現ビデオ(ギャグ仕立て)で泣くシーンがあったのだが
それでもらい泣きしてしまったことさえある。
話の内容よりも、人の泣く姿にもらい泣きすることが多い気もする。
わたしの父もどうでもいいドラマで涙ぐんでいるから遺伝かもしれない。
母はそういうのにドライな質で、父やわたしが涙ぐんでいると
「なに泣いてるの」とバカにしたように言うのだが
ふと、30年前にチビという犬が死んだときのことを思い出した。
チビは父が山から拾ってきた。
すでに成犬でかなり大きかったのだが、なぜかわたしはチビと名付けた。
大人しく利口な犬だったが、病気にかかっていたのか年を取っていたのか
数年で死んでしまった。
死んでしまう夜に首輪を外すと、よろよろとどこかへ行こうとし途中で力尽きて倒れた。
大泣きする、当時小学二年生のわたしに母が言い放った。
「面倒も見てなかったくせに、なに泣いてんのよ」
普通のお母さんだったら
「チビは天国に行ったのよ」とかぎゅっと抱きしめてくれるとかありそうなもんだが。
しかし、こういうドライさがわたしを強くしたと言えるかもしれない。
泣きじゃくりながらわたしは言い返した。
「面倒見てなかったから泣くんだ!」
このときの気持ちが、それから後に動物と接するときの原点になっている気がする。
動物の世話というのは、正直億劫なときもある。
散歩行くの面倒臭いな、とか小屋の掃除やりたくないな、とか。
しかし、やらなければ自分が後悔することになるという気持ちが
そういう怠け心を吹き飛ばすのだ。
動物と暮らすには愛情はもちろんだが、義務感や責任感も必要だ。
もしかすると、結婚や子育てや介護にも同じことが言えるかもしれない。