知人と『名前を書いた人が死ぬというノートを手に入れたらどうするか』
という、中学生のような話をした。
わたしはきっと、何もしないと思う。
そこまで憎い相手がいないというのもあるし
たとえ、瞬間的に憎悪が芽生えたとしても
生殺与奪の権利を握っていると思えば余裕ができて
相手を許すことができると思うのだ。
もちろん、憎しみの理由にもよるけれど。
そう考えると、生きていくのに必要なのは
「可能性」なのではないだろうか。
100%近くないとは分かっていても、わずかな可能性を感じることができれば
なんとか希望を失わずにいられるのではないか。
まあ、この場合は「いつでも相手をひどい目に遭わせられる」という
ちょっとどうかと思う可能性なわけだけど。
今は貧乏だけど、いつか宝くじが当たるかもとか
出した企画が社長の目に留まって、急に出世するかも
とかいう、他愛もない夢みたいなことから
今日は嫌なことがあったけど、明日はいいことがあるかも・・・という
わりと現実的なことまで
意識するしないにかかわらず、絶えず可能性を感じているから
生きていけるのではないか。
信じている、というのとは違う。
そこまで強い期待はない。
もっとあやふやだけど、だからこそ落胆もせず
生きていけるのではないかしら。