まりはな屋

地方都市で、清貧生活  

今日の短・歌

2002年12月31日 20時56分00秒 | 57577または575
「男なんて108のひとつ そばを食べたら忘れてしまえる」
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今日の不幸

2002年12月30日 19時15分00秒 | 日々雑感
買ったばかりのプーアール茶を飲もうと、つながっているミシン目を引っ張ったら

全然違う所が破れて中身がさらさら。

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ひとりっ子

2002年12月29日 21時28分00秒 | 日々雑感
先日の日記にも書いたとおり犬が死んでしまったので、とうとう残りは一頭になってしまった。

思えばおよそ13年間の間、ウチでは四頭の犬を飼っていたのだ。

犬も家族も若かったんだなぁ。

散歩なんて二時間がかりだったもんね。

医療費もわたしの数十倍。

物心ついたときから犬と暮らしているわたしだが、ハッキリと思い出すことが出来るのは

小学一年生くらいのときに父が山から拾ってきた『チビ』という犬からである。

拾われた時はすでに成犬で小さくもなかったのに、なぜかわたしは『チビ』と名付けた。

この犬はおとなしく頭が良く優しい目をした犬だったが、わずか数年で死んでしまった。

夜中になぜか両親とわたしだけが死に際に立ち会った。

ヨロヨロとどこかへ歩いて行こうとして力尽きたのを見て大泣きするわたしに

「面倒見てたわけじゃないのになんで泣くのよ」と随分クールなことを言う母だったが

「面倒見てなかったから泣くんだよ!」と答えたのを覚えている。

その前にわたしは一頭拾っていたので(太郎と名付けた)すでに二頭体制だったんだな。

で、太郎が死んだときは(その頃はフィラリアの予防を知らなかったのでみんな短命)

自分が拾ってきて可愛がっていただけに悲しみも深かった。

もう犬はいいや、と思っていた一週間後に父が知り合いから柴犬の雑種をもらってきた。

この犬が可愛いのなんのって。

コロコロしてるから『コロ』、安易だ。

それから五年くらいして母について来た子犬を飼うことになって、こいつが『カンタ』。

名付け親は母だが1月に拾ったので「北風小僧のカンタ」だそうだ。

こいつはもう暴れん坊で落ち着きがなくて言うこときかなくてちょっと馬鹿で茶色くって

散歩に連れて行くのが一番大変であったが、無邪気で可愛く大好きだった。

急に増えるのが翌年である。

年末、ちょうど今頃。

出かけた父が「クマ、こっちこい」と呼んだら来たからと拾ってきたのがそのまま『クマ』。

体中に草の実を付けて可哀想だったから拾った、と言い訳したが

その実を一個一個ハサミで切ったのはわたしである。

クマは雑種ながら毛足が長くスピッツみたいな顔をしていて白と茶色のブチ配分も可愛く

子供や女子高生にキャーキャー言われるほどだった。

本人も撫でられるのが好きで、誰彼なく撫でさせてはご満悦だった。

ぬいぐるみのような容姿と裏腹にずるがしこくワガママなところもあったクマだが

年を取ってからは大人しく、言うことを聞くいい子であった。

その二日後に姉に拾われてきたのが小さいわりにみっしりと重く

足がぶっとい、真っ白な子犬。

なぜか『パロ』と付けたのはわたしである。

幼犬と成犬の中間くらいだったクマに対して、『パロ』はハイハイし始め、というくらい。

「学校の中をフラフラしてたから思わず」連れて来た姉の気持ちも分かる。

こうして、四頭になったとき母は

「もう、みんな上向いて歩いて!」と怒った。

そりゃそうだ。みんな仕事や学校に行ってしまう。実際に面倒を見るのは母である。

しかし四頭もの犬を母ひとりで見られるわけもなくウチはいつでも犬を中心に回っていった。

今日は、誰が出かけて誰がいるから散歩は誰それ・・・といった具合。

家族全員で家を空けたこともないし。

さて、とうとう一頭になってしまったわけだが

この残ったパロという子は実は長生きするとは思っていなかった。

足が太かったので大きくなるとは思ったが想像以上に大きくなった。

しかし図体のわりに気弱で大人しく怖がり。

クマと違って知らない人が大嫌い。子供の声がすると動かなくなってしまう。

そんな性格の上に耳だれがひどく、何度か病院にかかっているのだが

薬をつけられるのを嫌がり小屋から出てこなくなってしまう。

無理に出すと耳を地面につけて絶対に見せない。だから完治しない。

こういう粘膜の弱い子は長生きできないだろうなと思っていたのだ。

しかし、もう16歳だ。良かったなぁと思う。

他の子の分も長生きして欲しいと思う。

何頭もいた頃は一頭ずつにあまり手をかけてやれなかったが

一頭になってしまった今は手のかけ放題である。

わたしは三人姉妹なのだが、ひとりっ子ってこんななのか~と思う。

羨ましいような、鬱陶しいような。

母に「一匹ってさびしいね」と言ったら

「柴の子犬飼いたいね!」

この人って・・・。







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持てばカイロの日より愛(誤)

2002年12月28日 21時49分00秒 | 日々雑感
お昼に休憩室に向かう途中、久し振りにM君と会った。

彼は別のテナントのバイト君(高校生)なのだが

ウチのバイトの娘の彼だったので懇意にしている(今は別れてしまった)。

このM君、背が高くやせ型、短髪、黒髪。

笑った顔が可愛く礼儀正しく、わたしのお気に入り。

背はともかく、わたしは細めの男が好きである。

髪も短い方が好ましいし、茶髪の男は好きじゃない。

どこまでもわたし好みの彼、お気に入りのはずである。

その彼が「外寒いっすね~」と言う。

年末のイベントで外で何か売る仕事をしているらしい。

「カイロ買おうかな。でもたくさんはいらないな・・・」

ん、待てよ。ごそごそ。

「ハイ、一個持ってたわ(ニッコリ)」

「えっ、いいんすか。ありがとうございます!」

ふふ、何でも持ち歩くもんだわ。

わたしの印象ア~ップ!

M君、わたしの愛であったまったかしら。

悪寒感じてたりして。




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かなしみのスイッチ

2002年12月27日 22時12分00秒 | 日々雑感
以前に読んだエッセイに「悲劇と喜劇は紙一重」といったようなことが書かれていた。

悲劇の中に喜劇が、喜劇の中に悲劇が・・・

一例としてチャップリンの映画のワンシーンが紹介されていた。

『男が葬式の参列中に通りの向こうで太ったおばさんが滑って転ぶのを目撃してしまう。

男はおかしくて仕方ないのだが、場所が場所だけに笑うわけにもいかない。

しかし、こらえればこらえるほど笑いが込み上げてくる。

仕方なく葬式の場から離れ、安心して笑える場所、喜劇映画の上映館に入る。

おかしな場面が繰り広げられるスクリーンを見た途端、男は深いかなしみを感じる・・・』

ちょっとうろ覚えだが、こんな内容だったと思う。

それを読んだときは、そんなもんかねぇと思ったわたしだが

先日、まさにそのままの出来事を体験したのだ。

少し前から具合の悪かったウチの犬が、先週息を引き取った。

前の日から急に食べなくなり、夜には立てなくなってしまったので危ないな、と思った。

その晩は玄関の中に入れ、わたしは玄関から一番近い居間に寝た。

30分から一時間おきに辛そうに鳴くので様子を見に行くと

引っくり返ってるわけでもなく、ただ鳴いているだけである。撫でてやると鳴きやむ。

そんなことを夜中まで繰り返したが、4時を過ぎるともう駄目である。

鳴いているのが分かっていても起き上がれない。

「はいはい」と返事をするだけだが鳴き止んだりするからけなげだ。

前に、19歳で死んだ犬のときは悪くなってから長かったので

正直、面倒を見るのがつらいときもあった。

知り合いが病気の犬を「可哀想で見ていられなくて」安楽死させたと言っていたが

本当のところは看病が大変だったのではないだろうか。

わたしが犬を安楽死させないのは、犬が自殺という選択を持たない生き物だからだ。

そして、わたしにとって犬は家族だから

たいがいの親が子供の世話を放棄しないのと同じく、犬の世話をするのは当たり前なのだ。

ただ、家族とはいえウチの親は「犬は犬、人は人」という昔気質である。

前の犬の時は玄関に入れるのは許されなかったので

真冬の夜中、オシッコなどさせに行くのはちょっとつらかった。

今回は玄関に入れてもらえたので全く楽だった。

そして、鳴き通しの翌日、仕事から帰ってくると全く鳴かなくなっていた。

もう鳴く力も残っていなかったのだろう。ただ、深く呼吸をしているように見えた。

そして22時頃に見ると、横たわって目を開いたまま昏睡していた。

わたしはまた、居間に寝た。恐らく夜中のうちに死んでしまうだろう。

死ぬ前に多分、鳴くだろうから近くにいた方がいいと思ったのだ。

3時半くらいに一度、短く鳴いた。見に行くと投げ出した両手両足が上がっている。

体を撫でるとそれが、すーっと下がった。

その後、もう一度鳴いたのだがわたしは起きられなかった。

5時半ごろハッとして見に行くと既に息はなかった。

これまでに何頭かの犬と猫のなきがらを見てきたが、一番きれいな死に姿で

死んでいるのが分かっているのに、寝ているんじゃないかと思えるほどだった。

大概わたしはなきがらを見て泣くのだが、今回は泣かなかった。

はっきりと死期が分かっていたからかも知れない。

いつも、飼い犬や猫を失ったときはもっとしてやれることがあったのではないか、と

悔やまれるのだが、してやれることはあり過ぎてキリがないのだから悔やんでも仕方ない。

さて、犬が死んだとき、以前は庭に埋めたのだが(違法?)さすがに近年は火葬場に行く。

中学生のときからわたしは、葬式なんて意味がないと思っていて

死んだ後は粉になるまで焼いてその辺にまいてくれりゃいいと思っていたが

犬は霊園で焼いて供養してもらうんだからおかしいよね。

だって、保健所に引き取りにきてもらう気にはなれないんだもん。

さて、霊園に着くと男の人が出迎えてくれて、犬をうやうやしく棺に入れてくれる。

「最後のお別れでございます」と言われながら用意された線香に火をつける。

なんだかなぁ、と思っていたらとんでもない間違いをしてしまった。

あの、名前は知らないけどチーンって鳴らすのが用意されてたんだけど

なに考えてんだかわたし、線香立てを叩いてしまった。

お父さんもお母さんも呆れるやら笑うやら。

「それ叩いてどうすんだ」

わたしも大笑いである。

大笑いした途端、ボロボロと涙が出てとまらない。

なんなんだ、一体。

それまで泣きそうにさえならなかったのに。

思うに、感情のスイッチというのは複雑に交差していて

片方が入ったついでにもう片方も入っちゃうんでしょうかね。

不思議な体験ではありました。

それにしても。

長患いもせず下の世話もかけずひどく苦しみもせずきれいに死んで、いい子でした。















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