まりはな屋

地方都市で、清貧生活  

そのうちなんとかなるだろう?

2015年09月25日 23時49分52秒 | 日々雑感
居間でなんやかやしていると、母がワイドショーを見始めた。

ワイドショーを嫌いな人は多いが、子どもの頃からなくならないところを見ると

いつの時代もワイドショー好きがいるのだろう。

芸能人の恋愛沙汰とか、見知らぬ誰かの不幸な話を

のんびりと見ていられるのは幸せな状態なのだから

ワイドショーを見る人が大勢いるということは、平和な世の中の証明になるのかもしれない。

下世話なことだと思いつつ、全く興味がないと言い切れないネタを持ってくるところも

ワイドショーが長生きしている秘訣だろう。

自分一人だったら決して見ないけど。

こういう番組の司会者やコメンテーターが

無責任で無意味なコメントをしがちだというのは

今更、驚くことでもないけれど久し振りに見ると呆れるほどだ。

青少年の徘徊(この言葉もどうかと思う)がテーマだったのだが

『こういう居場所のない未成年をどうしたらいいのかと考えたときに

親や学校だけではなく、地域でなんとかしなければいけないと思いますね』

なんとかって、どうするのかについては一言もない。

そもそも、地域って誰なのだ。

町内会か?

PTAか?

わたしは、近所のどの家に子供がいるのかほとんど知らない。

あの家には中学生がいる、と知っている家の子とも顔を合わせたことがない。

もちろん話をしたこともない。

これが地域の現実だろう。

うかつに声をかけると不審者扱いされる世の中で、

現に知り合いによって犯罪に巻き込まれる子供もいるわけで

地域の誰を頼りにしろというのだ。

日頃の信頼関係が大事というのはたやすいが、いつどうやって信頼関係を結べというのだ。

わたしが子どもの頃だって、地域の大人とかかわることなどほとんどなかったのだから

地域と子供の関係が希薄なのは今に始まったことではない。

そもそも、夜中にさまよっている子供に地域の大人が出会うわけないし。

わたしは中学生の頃、家にも学校にも居たくなかったが

乗り物酔いがひどく、バスにもろくに乗ったことのないわたしにとって

どこかをさまようとか、家に帰らないという選択肢はなかった。

徒歩と自転車で移動できる半径1km程度が生活のすべてだったといってもいい。

そんなわたしが学校帰りに、素敵な門構えの家の前を通っては

『この家の優しいお姉さんが声をかけてくれる』という空想をした。

その家にお姉さんがいるかどうかは知らない。

困っていると親切な大人が助けてくれるのは物語の中だけだと知ってはいたけれど

絶対にないとは限らない…

いつものようにとぼとぼと一人で帰るわたしに、キレイでおしゃれなお姉さんが

『なんだか疲れてるみたいね。家でアップルティーでもいかが?』

そう言ってくれたら嬉しいな、と空想した。

なんだか少女漫画のようだけど。

子どもにとって、親や先生以外の大人との関わりは大事だと思うのだ。

少なくとも、当時のわたしはそれを望んでいた。

大人になった今、わたしのような子に自分が望んだようなことができるかと言えば

無理だ。

未婚で子供のいないわたしが、子どもと接触するのは不自然であるし、接点そのものがない。

子供と自然に接触できる大人は、学校の先生と塾の先生、習い事の先生(先生多いな)

それから同級生の親、である。

中学生のわたしが望んだ大人とは接触不可能なのだ。

しかし、仮に接触できたとしてもどこまで関わるか肚がくくれないだろう。

テレビのある番組で、子供の貧困がテーマになった際、

子供の同級生が家でご飯が食べられないというので夕飯に誘ったら

毎日来るようになってしまい、その子から逃げるために引っ越したという経験が寄せられた。

この人のことを責められないだろう。

食費というよりも、精神的な負担が大きかったのではないだろうか。

可哀想だと思う気持ちと、どこまで面倒見ればよいのだろうという困惑。

子供を放置しているその子の親への不安。

もしかしたら自分は冷たい人間か、という葛藤。

個人や非営利組織でこういう子供達と真摯に向き合っている人もいるけれど

肚をくくった人しか向き合えないとなると、やっぱり他人の子供とは関われなくなるのだ。

これは相手が、一人暮らしの老人であったり落ち込みやすい友人であっても同じじゃないか。

深く関わりすぎると重くなる。

重いと感じる自分を責めて、関わらなくなる。

オールオアナッシングになってしまうと、人と関わることは難しくなるだろう。

全部は面倒見きれないけど、少しだけ手伝うという人が増えれば

一人の負担は大幅に減るんじゃないか。

無責任かもしれないけど、中途半端でもいいじゃない?

テレビだって無責任なこと平気で言っているんだし。

そう思うと「日本無責任時代」って、先見の明があったんだなー。

と、適当に話を終わらせる、それこそ無責任なわたし・・・
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幻想

2015年09月22日 23時16分48秒 | 日々雑感
知り合いの若造が(わたしの半分程度しか生きていないのだから若造でいいだろう)

「家族がいたら、もっと仕事を頑張れる気がするんです」と言う。

家族や母が重いという本の市場が活況を呈しているというのに

奇特で純朴と褒めるべきだろうか。

(居もしない誰かのために頑張れるのなら、今、自分のために頑張れよ)と

心の中で毒づくが、口に出したりはしない。

そう思うのは本人の勝手だし、本当に家族のために頑張るタイプかもしれないし。

頑張らなきゃいけないなんてこともないし、

どうでもいいことだ。

誰かを支えたいとか誰かのためになりたいという気持ちは

たいていの場合、優越感や劣等感や征服欲からきてるんじゃないかなんてこと考えるよりは

よっぽど健全な気もするし。

健全・・・鈍感で無神経で排他的でいつでも大勢で異端者をないがしろにする。

そのくせ異端者を気の毒そうに気遣ったりするのだ。

異端は自分が異端であることに傷ついたり絶望したり、誇りを持ったりするが

健全は自分の健全を意識もしないし、当たり前だと思っている。

まったく健やかだ。

健やかな幻想を抱き続けることができるのなら、それが一番幸せなのだろう。

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