まりはな屋

地方都市で、清貧生活  

未来の年の瀬

2012年12月05日 19時57分19秒 | 日々雑感
老醜とか老害という言葉がある。

年を取って判断力が鈍くなり、周りに迷惑をかけることを主に言うのだろうと思う。

以前、とある人が「自分が年を取って、そういう風になったら家族に注意してくれるように言ってある。本当のことを言ってくれるのは家族だけだから」と言ったのを聞き

立派な心がけだと思った。

それはもう何年も前、わたしが今よりも若かりし頃の感想だ。

愚痴や自慢ばかりの年寄りの話を聞くのは苦痛と迷惑以外のなにものでもないと思っていた頃だ。

若さというのは傲慢である。

若くなくても、老いてはいないというだけで「老いてみっともなること」に怯えるのも傲慢じゃないかと最近は思うのだ。

年を取って、同じ話ばかり繰り返しても自慢話をしてもいいじゃないか。

愚痴や自慢話は年寄りだけのものでもない。

おじさんの無神経さ、おばさんの図々しさ、若者の傍若無人さ。

どの年代だって害のある人間はいる。

自分もまた、誰かにとって厄介な人間なのだろうし。

「空気を読む」なんて言葉があるけれど、年を取ったらそういうことから解放されてもいいじゃないか。

我慢や遠慮を多少忘れてもいいんじゃないか。

時折両親に、強い口調で意見してしまうことがある。

よその人に迷惑かけないでほしいという気持ちからだが、しかし両親は

なんてひどいことを言う娘だろうと、老後になってなぜ実の娘に怒られなければいけないのだと思っていることだろう。

家族が注意して分かるくらいなら、その人は老害など撒き散らしていないのだから、

家族が注意したいような状態になった時点で、すでに注意は無駄である。

わりとろくでなしであるわたしに親を注意する資格などないし。

正解はなんなのだろうと思うのだ。

自分は一体どういう年寄りになるのだろう。

今のわたしは、年寄りの話を聞くことが苦痛ではない。

ちょっとくどいなと思うことはあるが、内容は案外と面白いのだ。

わたしは年を取った時に、どんな話をするのだろう。

そもそも、話し相手がいるのだろうか。

年末になると考えるのだ。

わたしが両親と同じ年になった時、正月はどのように迎えているのだろうか、と。
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