まりはな屋

地方都市で、清貧生活  

疲れる

2016年10月28日 18時41分43秒 | 日々雑感
アメリカのドラマを見ていると、カウンセリングを受けるシーンが結構ある。

内容は、夫婦間のことであったり身内を亡くしたことであったり

かなりシリアスな状態があるかと思えば、軽い愚痴みたいなものまで含めると

アメリカではカウンセリングは珍しいことではないのだろうと思う。

日本でも、企業がカウンセラーを置いたりスクールカウンセラーが常駐する学校がある。

でも会社のカウンセリング室に、学校のカウンセリング室に気軽に入ることができるだろうか。

わたしの勤務先は、電話と面接の両方のカウンセリングを外部の業者に委託している。

電話したこともあるけれど。

ダイヤル回して手を止めた・・・って今は回さないけど。

見知らぬ人に話してどうなる、って気になる。

でも知ってる人に話してどうなる、とも思う。

結局どうにもならないのだ。

アメリカでカウンセラーが盛んなのは個人主義というのも関係するのだろうか。

親子や友人であっても、踏み込める領域と踏み込めない領域がある。

家族や友人に相談しないことを寂しく感じる人もあるだろうし

そもそも、友達いないの?などと言われてしまいそうだが

家族や恋人や友人でも、愛情があっても友情があっても

重いものは重いのだ。

聞いてくれるだけでホッとする、という悩みもあるが

それは依存しがちで、いつも友人から悩みや愚痴を聞かされて嫌になるという人もいるだろうし

家族だからといって悩みのはけ口にされるのにも限度がある。

相談する側も、家族だからこそ親しい友人だからこそ聞かせたくないという悩みもあるし。

プロのカウンセラーにも当たり外れはあるだろう。

でも、仕事と割り切って聞いてもらうほうがなんだか楽だとわたしは思う。

家族だって友人だって、心をこめて聞いてくれるとは限らないし

そんなことをどこかで期待する自分に嫌気がさす。

なぜならわたしは、誰の悩みも聞きたくないから。

自分の悩みだってくだらないと思ってるのに、人の悩みなんか冗談じゃない。

自分は聞く気ないくせに、他人に聞いてもらおうとする浅ましさを感じるくらいなら

お金払っても、仕事としてプロにまかせたい。

これって、風俗のようなものだろうか。

性欲を愛情のある相手と処理したいのか

性欲は性欲と割り切って、プロに委ねるのか。

話がずれてきた。

職場で、イタズラ電話を受けることがある。

「変態」と笑えれば楽なのだが

(この人も普段は、ちゃんとした勤め人なのだろうか)とか

(寂しい人なのだろうか)

なんて思ってしまう。

感情移入してる場合か。

カウンセリングに電話しようとする自分と、イタズラ電話する人に

どんな違いがあるのだろう。

でも、かける気があるうちにかけたほうがいいとは思う。

自分は最近変だと思っているうちにどうにかしないと

そのうち変だとも思わなくなり、周りが変だと思い始めるかもしれない。

今だって周りのせいにしたい気持ちでいっぱいなのに。

それでもまだ、今は自分に問題があると思っている。

自分でどうにかできると思っているけど本当は限界なのかも。

パワハラでもなくセクハラでもなくまして、ブラック企業でもない。

ブラック企業かも知れないけど、並外れた残業させられるほど

大した仕事していない。

だからこの、イライラやモヤモヤがどこから来るのかと言えば

誰しも頭に浮かぶのは、そうです、あれです。

「更年期」

そうなのか。

検査で分かったら、余計嫌な気持ちになるのだろうな。

薬でイライラがおさまるのだとしたら怖いな。

でも、引き寄せ本とか座禅とかでおさめるのも怖いな。

一体わたしの脳は、何に支配されてるんだろう。

育ちだろうか、環境だろうか。

最近のひがみっぽさは被害妄想なのではないかと、自分が怖くなる。

でも、年取るとひがみっぽくなる人、多いよね。

「いじわるばあさん」とか。

きっとわたしは、年取ってひがみっぽくなった自分というものにもイラついてるんだと思う。

自分はそんな俗な人間じゃないとうぬぼれていたのだろう。

どっぷり俗な人間なのに。

そもそも俗とか俗じゃないとか、どっちが偉いとか偉くないとかなのか?

20代の頃、(ああいうおばさんになりたくない)というタイプに

もろになっている。

でもいいじゃんか、ステロタイプのおばさんで。

無理に素敵なおばさんにならなくてもいいじゃんか。

そもそも要素がないし。

不幸じゃないから、しあわせが見えなくなるんだね・・・

安っぽい歌か!








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それでも明日はやってくる

2016年10月25日 18時08分00秒 | 日々雑感
自宅と勤務先と合わせて、4紙の新聞に目を通す。

もちろん、じっくり読んだりしていない。

興味のあるところだけ斜め読み。

連載小説が合わせて4編。

うち2編を欠かさず読んでいる。

前回の「会社達」という言葉遣いに引っかかった小説とはまた別の小説は

途中から読み始めたので全体のあらすじは分からないのだけど

主人公の男女のうち、男性のほうがブラック企業に勤めていて

やる気も能力もあるのに、上司からは理不尽な叱責を受け、

信頼していた部下からも軽んじられているのを知ってしまい

追い詰められている・・・というところで

現実に若い女性の過労死が報道された。

こういうとき作家はどうするのだろう。

もうストーリーはある程度決まっていたと思う。

だが、もし彼が過労死してしまうという展開ではリアルタイムすぎる・・・と二の足を踏むかもしれない。

遺族感情を逆撫で・・・などとネットに書かれるかもしれない。

そういう空気を感じつつも書きたいことを書く、という選択をするかもしれない。

作家がこの小説を書いたから過労死が起きたのではなく

もともと過労死があって、作家がそのことを書いたのだから

書いているうちにまた過労死が起きてしまったことに

作家自身が驚いているかもしれない。

過労死にしろいじめにしろ

「死ぬくらいならがんばらなければよかったのに」という人がいる。

「死ぬ気になればなんでもできる」という人がいる。

違うのだ。

がんばっているうちに、自分が疲弊していることももう気力がなくなっていることも

分からなくなっていくから恐ろしいのだ。

真面目な頑張り屋こそ、もっと自分はできるはずだと頑張り、

周りの期待に応えようと思い、応えられない自分を責める。

過労による自死といじめによる自死はちがうけれど

追い詰められて絶望し、気力をなくす点では変わらないと思う。

わたしは、絶望の果てまでいったことはないのだが

絶望の入り口くらいで、ひどく面倒くさいと思った。

なにもかもが面倒くさい。

例えば、悔しさとか悲しさとか怒りが湧いてくるうちは

まだ気力があるのだ。

絶望し始めると、感情が機能しなくなり面倒くさくなる。

精神と肉体はかならずしも同調しないけれど

体調が悪ければ気持ちも落ち込むし、気持ちが不安定なら体調も悪くなることが多い。

まして、どちらも追い込まれれば、抜け出すのは困難になる。

自死をする人が遺書に、自分を死に追いやった人のことを書かないのを不思議に思ったことがある。

が、死を選んだ時点でもう他人を恨んだり名を書き残して復讐するというような感情も

大抵はなくしているのではないか。

『もう、そんなことどうでもいい』という気持ち。

絶望の果てに死を考えたとき、安堵の気持ちを覚えるのではないか。

あくまでわたしの推測にすぎない。

自死をした人がこうだったろうとか決めつける推測ではなく

もしかしたら自分は絶望の果てに、安堵を見てしまうかもしれない・・・と思ったのだ。

生きてるって素晴らしい、という言葉がある。

それは否定しない。

誰もがいつかは死んでゆくから、生は輝いている。

だが時に、生きてゆくのは疲れる。

他人だけではなく、自分と向き合うのも疲弊する。

つらければ逃げていいんだよ、と言うけれど

逃げられるならとっくに逃げている。

逃げるタイミングを見失い、逃げ方が分からなくなる。

そんな自分に絶望する。

死にたいとまでは思わないけれど

明日、目が覚めなくても構わない・・・

そんな風に思ったりする。

「ぼんやりとした不安」という言葉がなんだかリアルに感じられるとき

どうしたら頭から振り落とすことができるのだろう。

開高健の著書にあった言葉を思い出す。

「本当に絶望した人間は、何も書かない何も話さない」

こうやって見知らぬ誰かに何かを書いている限り、絶望はしていないのだろう。







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お前もか・・・

2016年10月18日 23時00分39秒 | 日々雑感
今のわたしたちが、平安時代どころか100年前とでさえ違う言葉を使っていることを考えると

「ら抜き言葉」や「させていただく」にいちいち目くじらを立てるほうがおかしいのだろう。

そうは思うが、違和感を覚えるのも仕方がないだろう。

今やNHKのアナウンサーでさえニュース以外では「見れますか」と言う時代だ。

「させていただく」も、一番へりくだっているのだと思えば便利な言葉だ。

ただ「言わせていただく」を「言わさせていただく」とか

「聞かせていただく」を「聞かさせていただく」とか、やっぱり受け入れづらいし

「やらさせていただく」にいたっては、もうへりくだってるのかどうかもわからない。

料理番組の「ニンジンをこういう風に処理してあげると、後が楽です」のような言い方は

もう慣れてしまったが、気になるのは「野菜たち」とか「花たち」という言い方だ。

「こういう雑貨たちが好きなんです」とか。

「花々」や「雑貨類」でよくないか。

今、新聞の連載小説を楽しみにしていて

朝はどのページよりもそのページを開くほどなのだが

「会社達は」と書かれた場面があって、がっかりしてしまった。

意図的なものなのだろうか。

いくつもの会社のことを指したかったのなら

「それらの会社は」と書けば複数の会社を示せるのに。

なんて。

他者を批判するほど、正確な文章書いてませんね。

反省・・・
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そういう言い方、苦手なの!

2016年10月11日 22時54分17秒 | 日々雑感
テレビを見ていると、アナウンサー出身のタレントが街歩きをする番組に出演していた。

街の人たちとの会話も素敵で、好感度が高いわけだ・・・と思いながら見ていた。

とある食べ物をレポートする場面で、あれ?今なにか違和感が・・・

それは、食材の匂いが気にならなくなる、という説明の時だったのだが

「これならXXが得意じゃない方も大丈夫ですね!」

こういうときは「苦手な方」って言わないか?

体育が得意だとか不得意だとかいうけれど

肉が得意って言うだろうか。

虫が嫌いな人は虫が得意じゃないって言うだろうか。

この後、別の番組で別のタレントが、やっぱり本来は「苦手」というところを

「得意じゃない」と表現していたのでなんとなくわたしなりに推理してみた。

「苦手」というとネガティブに響く。

「嫌い」と同じネガティブさを感じ、誰かを傷付ける恐れがある。

視聴者の反感を買う危険がある。

でも「得意じゃない」といえば、それが緩和される・・・

なんだか面倒くさい。

目の前に、その食物の生産者がいるわけでもないのに。

もっと無神経なこと、テレビはいっぱいやっているのに。

ちょっと本筋から外れるけど、面倒な言い回しを丁寧な言い方と誤解している人がいる。

ある化粧品店で、販売員が60代くらいの女性に何度も聞き返されながら

「店舗でお渡しできるサンプルもご用意がございますので」と繰り返している。

しまいに、そのお客さんから「なんておっしゃってるの?」と聞かれてもなお

「店舗でお渡しできるサンプルも・・・」と繰り返していた。

優しそうな販売員で、意地悪から分かりにくい言い方をしているわけではないらしい。

「サンプルがあるので、お渡ししましょうか?」でよくないか?

「店舗にサンプルがあるので、お持ち帰りください」

「サンプルご利用になりますか?」

いくらでも相手の分かりやすいように伝えられただろう。

たぶん、そのお客さんにしてみれば

店舗って、どこの?ここの?

あなたがくれるの?

お渡しできるって、ここで?どこで?

お渡しできないサンプルもあるの?

結局サンプルはくれるの、くれないの?

文章にしてみれば分かる言葉も、話し言葉では分かりづらいことがある。

もったいぶって遠回しな言い方するのは、言い切ることへの心配だろうか。

そういえば最近周りでも「XXです」と言い切らずに

「XXという形になります」と言う人が増えた。

どんな形だよ。









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