教会で英語を教えてもらっている。ボランティアの牧師さんだ。彼が、インドや災害地にボランティアに行くとき以外は毎週決まった時間に、彼が用意してくれる資料で授業が行われる。参加は自由、費用は1ドル、払ってもいいし払わなくてもいい。
学校教育から、間違った答えをみんなの前で発言することは、恥をかくことだと思ってきた。長い学校生活の中で、心のなか、体の中に沈殿している。
彼の授業のなかで、発言をし間違いを犯すことはある。しかし、彼は絶対に違うとは言わない。惜しい、いい意見だね、近い、面白い、様々に言葉をかえ、表情も変える。その表情からは、発言してくれたんだね・・という、喜びさえも感じられる。
私も自分でボランティアの日本語授業を始めて、彼の気持ちが少し分かるようになってきた。私も、その場に居て、発言をしてくれた人が、間違っていようが居まいが、全く気にらない。よし、がんばれ!その調子だ!いい直せばいいし、自分でそれを探してくれる過程がなんとも楽しいやりとりになる。点数が出ない学習の面白いところかな。発言の内容は実は、自分が教えてきたやり方をフィードバックできる最良の手がかりになる。
間違った答えの呪縛から開放されると、語学力は伸びるかもしれないと、感じる。