新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

NFLスーパーボウル観戦記の番外編

2014-02-03 16:04:32 | コラム
アメリカ国歌斉唱に感動し且つ残念に思った:

アメリカのニューヨーク州で開催されたスーパーボウルの開始前に、確かグラミー賞を貰ったと聞こえた Renee Fleming(ルネ・フレミングと表示されたと思う)という女性歌手がアメリカ国家を独唱した。彼女独特の解釈で歌ったと聞こえたが見事だった。

在職中にこういうスポーツの場でアメリカ国歌を聞く度に、観客全員が一斉に立ち上がって大きな声で国歌を歌う場面に会って、「何故、我が国ではこうならないのか」と、非常に残念に思わせられていた。その情けない思いが高じたのか、何時だったか不覚にも落涙したことがあった。

それを見ていた一緒に観戦に行った同僚が「我が国の国家で泣いてくれて有難う。我々と同じに君が働いている会社の国を思ってくれたのだろう」と言われてしまった。遺憾ながら、私にはその場でこの抑えきれなかった感情を説明することが出来なかった。

本日もフレミングの独唱をかき消さんばかりに観客は「オー・セイ・キャン・ユー・スイ~」と声高らかに歌っていたのが聞こえて、この落涙の件を思い出してしまった。サッカーの国際試合などを見ていても我が国の代表選手たちの中には、国歌を歌っている口の動きでないように見える者がいる。

こういう事態になっているのは、多くの新聞の姿勢や何とやら言う組合の偏った教育のせいだろうかと、今朝も誠に残念なことだと思いながらアメリカの国歌を聴いていた。私は別に国粋主義者等ではなく普通の愛国者だと思っているが、そういう意識をするようになった切っ掛けが、アメリカ国歌斉唱を何度も聞いたことだったということだ。

お断り

2014-02-03 13:13:37 | コラム
昨日エントリしましたカタカナ語についてのものは、連続ものだったのですが手違いで「承前」と「続く」の表示をしないままに終わりました。次回は3回目で具体的にカタカナ語の例を挙げていきます。

何卒宜しくご了承のほどを。
真一文字拝

第48回スーパーボウルの中継とカタカナ語

2014-02-03 13:11:51 | コラム
懐かしきシアトル・シーホークスがデンヴァー・ブロンコスに圧勝:

と言っても、我が国では未だにマイナースポーツの域にあるアメリカのNFL(プロのリーグ)の王座決定戦に、関心や興味を持っておられる方は少ないかと危惧する。本3日は朝からNHKのBSの中継開始を今や遅しと待機していた。特に、長年親しんできたSeattleのSeahawksが優勝候補とあっては期待は高まっていた。

試合は意外なほどの大差でシーホークスが勝ってしまったのは大変結構だった。長い年月その弱さを見てきたファンとしては、最後まで「まさかの逆転」を怖れてハラハラしながら観戦していた。しかし、試合開始直後のブロンコスの大きなミスで僅か12秒で思いもかけぬ2点を貰ったシアトルが、そのモメンタムを失うことなく圧勝してしまった。試合なんてそんなものだということを、今更ながら痛感させてくれたシアトルの勝利だった。

ここから先は中継に使われていたカタカナ用語とマスコミが用いる妙な英語名のカタカナ表記の揚げ足取りである。とは言っても、大半は完全にフットボール業界でも戸籍を得ているので、何時ものことだが「本当の英語表記はこういうものとご承知置き願いたい」という程度のものである。使うのを止めよ等と言う気はない。

カタカナ表記:
シアトル・シーホークス→Seattle Seahawks、
解説)元の発音に近く表記すれば「スィアトゥル・スイホークス」となるだろう。Seattleは「スィア」の「ア」にアクセントを置くのだ。また"Sea"と書いて「シー」はないだろうよ。解説者の輿も何度か「スィホークス」と言っていたが、大部分は「シーホークス」で通していた。

レーベンズ→Ravens、
解説)スーパーボウルお直接の関係はないが、このオオガラスというニックネームを持つティーム名は、屡々「レーベンズ」と新聞に表記されている。彼等は英和辞典すらお持ちでないらしいのが残念だ。オオガラスは「レイヴン」であってその複数形は「レーベンズ」ではない。

専門用語:
インターセプト→intercept、
解説)相手のパスを奪い取ることである。これは動詞形であるから奪い取った後であれば「インターセプトしました」ではなく、"ed"を付けて過去形にするか、"interception"のように名詞にせねばなるまい。揚げ足とりと言う理由は「~にノミネートされた」がおかしいと言うのと同じ理屈だ。
インターフェアー→interfere、
解説)パス攻撃を妨害した時に「パス・インターフェアー」と言っているが、アメリカ人は"pass interference"と叫ぶ。ここでもインターフェアは動詞形だし、過去のことだから、"interference"と名詞にしておかねばならないのだ。

この両者は何れも国内で動詞形で通用しているからそれで良いのだが、ここにも独特の文法を忘れた形でカタカナ語化した現象が見えるので、揚げ足取りと承知で敢えて採り上げた次第だ。

高山正之は言うが

2014-02-03 08:07:41 | コラム
コラム「変見自在」に思う:

週刊新潮の2月6日号のこの高山正之の「易しい英語」と題したコラムで「米国人と分かる男と日本人女が3人(中略)それはいいが男の声がでかすぎる。(以下略)」と書いている。彼は更に支那人の声もけたたましいと指摘している。

私はこれまでに電車の中に外国人(アジア系も含めて)が乗って語り合っていると、どんなに混んでいても「外国人がいる」と解ったことが無数にあった。譬え私がいた場所よりも遠く離れていても「うるさい」か、異邦人がいるなと直ぐに察しが付いた。

当初はそれは「彼等は田舎者の集団で衆人環視(環聴?)の中でも広い野原の中で連絡するかの如くに大声で喚き散らしているので、私に聞こえてくるのだ」と思っていた。しかし、その後何かで読んだのだが、日本語と彼等の言語の間で最も違う点の一つが「音域の違いであり、彼等は高い音域で語り合っているだけ」と知って、ある程度納得した。

だが、その後に考えてみると「英語では発声法が日本語とかなり異なっていて、言うなれば腹の底というか喉の近くの声帯を揺らしているだけではなかったことを思いだした。経験から言えば「その発声法を真似ると、言わば音吐朗々の如くになってクラシカル音楽の歌い方に近い」のだった。

偉そうなことを言えば、アメリカに行って2~3日後にはそのような発声になっていて、アメリカ人と語り合う際に思い切って大きな声を出していないようになっていたのだ。それ即ち、知らず知らずに彼等の発声法を真似ていたのだった。故に、彼等のうるささが、発声法による音域の違いではないかと言うのだ。

だが、中国語は学ぼうとすら志したことがないので、発声法がどれほど違うか知らない。しかし、彼等がいるとうるさく聞こえるのは確かだと思う。更に言えば、北京語と広東語では明らかに違って聞こえるが、そこに発声の違いがあるかどうかなどは全く判断のしようがない。

高山正之は「でも英語は難しい。話せないという日本人は多い。それは誤解だ。英語は支那語と同じ、粗雑で幼稚だ」と断じているが、良く解らない。もしも難しいと痛感し話せないと言っている方がおられれば、その原因の大半が教え方の問題だと断じたい。私には易しいかどうかは解らないが、英語は不規則極まりない言語であり例外が余りにも多く、日本語と同じだろうと捉えて学べば結果が出ないのは間違いないと思っている。それに学校では発声法の違いまで教えているのだろうか。