新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

欧米の予算の使い方に見る文化の違い

2014-11-10 17:32:08 | コラム
錦織君の豪華な待遇に思う:

今回のロンドンで開催されているテニス世界王者決定の予選で錦織君がUKのマレー(Murray)を破ったのには恐れ入ったし、彼を過小評価していたのだったらお詫びせねばなるまい。これから先も勝ち上がっていくことを期待しよう。

それにつけても各テレビ局が世界の8強がロンドンで特別待遇をされていることを「凄い」だの何のと驚いて見せ、一泊90万円もする五つ星ホテルのスイートルームを宛がわれていると羨ましがっているのは、私には見苦しいか聞き苦しいとしか思えない。それは如何にも自分たちは庶民だと強調しているかのようでもある。彼等は本当に知らないのか。それだったら困るぜ。

私にはスポーツ選手、それも最高の実績を誇る者たちがどのような階層に属しているかは知らない。しかし、年間に稼いだ賞金が億円の単位であれば、そのような選手を束ねる協会が報じられているような待遇をするのは当然であるかと思う。各選手たちがMercedes Benzを1台宛がわれていると驚いてみせるのも態とらしくてイヤだ。運転手を付けたレンタカーかも知れないじゃないか。(まさか!)

欧米にはそういう文化があると解説するのが賢明ではないのか。彼等は必ずしもそういう世界を目指してテニスを始めた訳ではあるまいが、たどり着いた先にはそういう世界があっただけのことで、主催者にすれば3万円以上最高2人席で100万円の入場料を取るのだから、そういう待遇は出来るだろうし、予算も確保してあるのは当然ではないか。

私も知らずに入ってしまったアメリカのビジネスの世界では、我が国では一寸考えにくいような贅沢と言うべきか、その世界ないしは社会における格というか知らないが、凄いお金の使い方をするし、それだけの余裕があるのかと驚かされた。私は今でもこれは「企業社会における文化の違いであり、予算の使い方が違うだけだ」と考えている。

1973年に初めて我が国の代表的なメーカーの常務さんをご案内して、Meadのオウナー兼海外担当副社長の夕食会に参加したことがあった。それはレストランではなくオウナーが入っている豪華なクラブの個室で開催された。その雰囲気だけでも初めて経験される常務さんは圧倒されて、要求したかったことの半分も言えずに終わった。

アメリカでは副社長以上ともなると、その本社がある市内で最も高級な部類に入るクラブの会員であり、重要なお客様との夕食会などはクラブにすることが普通である。我が事業部の豪腕副社長もシアトル市内で西海岸で最も背が高いビル(Columbia Tower)の個室を活用していた。そこでは曇りの日などは下界が見えないことがあって驚かされる。

この副社長と私の間に一度在職していた販売担当副社長は、シカゴの527メートルのWillis Tower(旧Sears Tower)に次ぐ高いビル内のシカゴ市内で最高のクラブの会員だった。私が日本からのお客様と夕食会をする時は、そこの個室を予約して貰ったので、お客様と共にシカゴの夜景と豪華な食事を楽しんだものだった。

大手企業で一定以上の地位にある人たちは自前か会社の経費か知らぬが、皆こういうクラブでの会員で、そこで食事会もすれば会議にも会合にも活用している。私が言いたいことは、プロのテニスの世界だろうと何だろうと、文化の違いを驚いてみせるよりも、普通に「文化の違い」を解説する方が視聴者の為になるだろうと言うことだ。

そこにはアメリカやヨーロッパに行けば誰でもがそういう世界に入っていけるものではないことも知らせておくべきだろう。私は自分とは関係ない世界の出来事だと思うしかないと考えていた。そういう世界には入れない層にいる人たちがそれを羨んでいるかどうかなどは知らない。妬んでも詮ないことだろうと思うが。

念のために、予算の使い方を違いの例を挙げておこう。私がいた業界では1年置きに主にシカゴで酪農と食品業界のExpoに出展者として参加していた時期があった。その際には全世界から取引先の方が見学にやってこられるし、事業部を挙げてシカゴに出向きRitz-Carltonに宿泊し、幹事役はその最高級のホテルのスイートルームに泊まるのだった。それは贅沢をしようというのではない。

その部屋には持ち込みで日本酒を含めた世界の銘酒を並べ、ルームサービスでアッペタイザ-も用意してある。それは自分たちで呑もうというのではなくお客様に自由に出入りして頂いて、一杯飲みながら商談をしようという商魂(魂胆)すらあるのだ。しかも、遠来のお客様にはアメリカの一流ホテルのスイートルームの雰囲気をも味わって頂けるのだ。東京でも三大ホテルを使って何度かそういう接待の仕方をしたが、ロンドンのように90万円ということはなかったと記憶する。

こういう予算使い方を「アメリカの会社は儲かっている」とか「儲け過ぎぎでその一部を還元するのか」というような声もなくはなかった。それは違う。お客様をおもてなしをする為の最高の手段を考えて予め予算を計上してあるだけで、利益が挙がっているかいないかの問題ではない。それはその予算を活かして、これから先に投資した分を回収する為のものである」と私は聞かされているし、そうだと思っている。

カタカナ語と英語の関係の考察

2014-11-10 07:50:03 | コラム
カタカナ語は英語の勉強に悪い影響を与えていないか:

いきなり本筋を外すが、ここでは「英語」ではなく「科学としての英語」または”English”とする方が適確かも知れない。

私は英語の勉強だけではなく自国語であろうとなんだろうと「耳から入ってくる言葉の影響が最も大きく且つ効果があることが多い」と固く信じている。ところが、何事につけても「全ての硬貨には両面がある」ので、耳から入ってくるだけで学習効果があるが、効果はそれだけに止まらず日常的に読まされているカタカナ語には悪影響もあり、我が国における正しい”English”の学習と実力、就中自分が思うことを英語だけではない自国語=日本語で言う力の成長を妨げているのだと考えている。

テレビで多用されるカタカナ語:
ここから思い付くものを挙げることから入っていこう。下記をご参照願いたい。
コンパクト、シンプル、オープンするかさせる(応用編にリニューアル・オープンやグランド・オープンがある)、プライベート、スタッフ、キャプテンシー、スリッピー、ゲットする、チョイスする、ジューシー、フルーテイー、クリーミー、スパイシー、プラ-べーと・ブランド(PB)、バトンタッチ等々枚挙に暇がない。

私は「こういう言葉を使うことを止めよと言わないし、使うことは勝手だが、本当の英語ではこのようには言わないと認識した上で使って欲しい」と繰り返し指摘してきた。さらに本当の英語ではどういう言葉が使われるかも述べてきた。そして、こういう言葉を使うと、我々の国語での思考力と表現力が弱まる危険性も指摘してきた。故に、ここで上記のカタカナ語を英語にすればどうなるかの解説はしない。

カタカナ語の表記の難しさ:
この点は、先日”security”と”fury”を挙げてジーニアス英和とOxfordの間に存在していた発音記号に混乱とでも言いたい違いがあったことも指摘した。私はこの違いを見て、我が国で最初にカタカナ表記をした人(会社というか法人も入るか)がどのような基準で大胆にもカタカナを使ったのかが解らなくなってきた。即ち、私はこれまでにこういう表記をする人は英和辞典も英英辞典も見ていないのかと皮肉っていたのだった。

私は彼等はただ単に素直に英語の言葉を見て「ローマ字読み」をしていただけで、それ以上でも以下でもなかったのだろうと思い込んでいた。だが、「フューリー」と「セキュリティ-」のUKとUSA間の違いを知って、些か混乱させられてきた。

そこに何気なく聞いたテレビのCMで、恐らく何とか言うデイズニーのアニメ(これだってカタカナ語だ)の主題歌(なのだろう)を松田聖子と松たか子が歌っていて、”I will follow you .”を「フォロー」と言っていたのを聞いた。これは「ローマ字読み」だと思って聞いた。彼女らは学校で”O”は「オ」と読むとしか教えられていなかったのか、早い時点で親しんだローマ字読みをしているので、罪はないと解釈した。

同様な例に”holiday”がある。これは我が国では躊躇うことなく「ホリデイ」とカタカナ表記され、且つ発音されている。だが、ジーニアスでもOxfordでも「ハラディ」であり、USA式では「ハーラディ」に近い記号が出ている。話しを”follow”に戻せば「ファロー」と「ファーロー」である。細かい揚げ足をとるなと言いたい向きもあるだろうが、私にはそんな考えなどなく「何でこうなるのかな」という疑問があるだけ。

私自身でこの疑問に答えれば「彼女らと一般に我が国の学校で英語を教えておられる先生方、特に中学で”O”は「オ」と読めて教えているだけのことで、一般の生徒と同様に素直に従っているだけではないのだろうか」である。念のために付け加えておけば、「フォロー」だろうと「ファロー」だろうと「ホリデー」だろうと、恐らく我が国で最も関心が高いという気がする「外国人に通じるのか」という点では問題ないだろう。

自説を曲げるかの如きことを言えば「実際にはフォローでもファーローでどちらでも良いのであり、自分が思うことと言いたいことを正確に文法を間違えることなく表現出来る力を養うのが肝心なこと」なのだ。だが、発音が正確であるのにこしたことはいのは言うまでもない。

私が言いたいことは「だからと言って、おかしなカタカナ語を作って普及させて良いものなのか」という点と「学校教育では正しい正しくない点もさることながら、UK式とUSA式の違いを教える気はないのか」なのだ。同時に未だに「アメリカ語下品」で「クイーンズ・イングリッシュが最高」と思い込んでいるんではないかと疑っている。私は少なくとも何処かの時点で「両社の間には明らかな違いがあること」を明確に教えるべきだと思っている。

何れ近いうちに最初に挙げたカタカナ語表記と、英単語の後に「する」を付けた弊害を論じてみようと計画している。