Koreatown視察記:
21日は解散も何も忘れて、4人の方々を案内して新大久保駅を出発点として約1時間、私が勝手に名付けたイスラム商店街までを含めて大久保通りから職安通りを一回りした。このうち2人の方は3年前の3月11日に観察(視察?)に来られ、新大久保駅前の風月堂の2階であの大地震に遭われたのだった。あの破壊されかけた2階から全ての客が脱出した後で勘定を払ったのは、我々3名だけだったのは今では思い出話だった。
午前10時半過ぎの新大久保駅の改札口前は最盛時の4分の1の人もおらず、自由に動き回れるのも大きな変化だ。私は先ずHalal foodを売るイスラム教徒向けの特殊な商店街から案内を開始した。と言っても、最早店舗は3軒になっているが、午後にもなれば外交官ナンバーの車が何台も路上駐車する賑わいである。最初に入った店ではネパール人が売り子だったのは意外だったが、輸入品のインド産のカレー粉を買われた方が約2名。
トルコのKebabを売るスタンドには早くも数名の客がいたし、その先の日本語学校にはその時刻でも多くの青年男女が忙しげに入っていく光景はビジターには珍しいようだった。だが、中国人が何故日本語をという疑問が残ったようだった。私は何度も言ってきたが「漢民族よ、何を企むのか」である。ここで皆を驚かせたのは、中国からの日本語で印刷された袋に入った輸入米が10キロで¥800で売られていたことだった。まさかイスラム教徒が見込み客ではあるまいが。
さて、大久保通りである。経験者のお二人は「彷徨う客の数が減ったが、何故女性ばかりになったのか」という印象だった。他の方々は「それでも結構な人出ではないか」という感想だった。私は何年前だったか明治通りの方から旧友、を案内して逆行してきた際には群がる女性をかき分け押しのけだったことが、大袈裟に言えば夢のような激変であると同時に激減であるが。
それでも本日は好天も手伝ってかかなりの数の女性が韓国産化粧品店に群がっていたが、往年の活気はない。11時を過ぎた辺りから既に行列が出来始めていたヴァイキングの韓国料理店もあったとは言え、全般的は閑散としていたと言って良いだろう。最大の規模と思う韓国産食料品店にも入って見たが、現在のようなウオン高では最盛時の賑わいはなかった。
私はこのKoreatownが寂れていくのはある意味では歓迎する向きがあるだろうと思うが、廃れた後がどうなるかは大いに気懸かりである。お客様方も現在ほど日韓関係が悪化すれば見捨てる人が増えても不思議はないと言われた。だが、「あれだけの数の店舗に家業を放棄して貸店舗業に転向した地元の商店街の方々の短期的将来が非常に気懸かりである」と解説した。家賃収入が消滅したらどうなるかということ。かと言って、中華街に変わられるのは如何なものかということでもある。
途中で右折して韓国化粧品店が両側を埋める路地に入って職安通りに抜けた。お客様方にはその圧倒的な店舗数が印象的だったようだ。しかし、私には韓国産化粧品に対する人気は根強いものがあるという感が深い。正直に言えば「好い加減に韓国産愛用を辞める考えはないのか」なのだ。でも、「自分の好みのものが偶々韓国産であっただけで、そこまで愛国心を発揮せよというのか」と反論されそうな気もする。
と言うのは、30年近く前にシアトルで知り合った一家言ある船社の営業マンが日本車に乗っているので「日米貿易バランスや通商問題を考えないのか」と尋ねた時に「自分の好みに合う質の良い車を買っただけだ。それが日本製だったということ。車を買うのに貿易バランスを心配する気などない」と断言されたのを思い出したくなるような事態かも知れない。
職安通りで大きな変化だと驚かされたのが、日韓共催W杯サッカーの際にパブリックヴィユーイングで有名になった駐車場を持っていた韓国料理店・大使館が取り壊し工事の真っ最中だったこと。再建するのか廃業かは確認できなかったが、もし廃業だったらビッグニュースの部類かも知れず、Koreatownの終わりの始まりかも知れないと思わずにはいられなかった。
それから四角形の4辺を廻った形で新大久保駅近くのタイ・ベトナム料理店に入った。言うまでもないが、今更韓国料理でもあるまいという精神の発露。皆でトムヤムクーンの激辛さにむせて、3人がタイのシンハ・ビールで喉の渇きを癒やし、タイ式焼きそばとチャーハンを楽しんだ。誰もが自分が何処にいたのかが解らなかった様子で、直ぐそこに新大久保駅があったので驚いていた。そこで解散し「では、来年また」ということになった、楽しい一時だった。
21日は解散も何も忘れて、4人の方々を案内して新大久保駅を出発点として約1時間、私が勝手に名付けたイスラム商店街までを含めて大久保通りから職安通りを一回りした。このうち2人の方は3年前の3月11日に観察(視察?)に来られ、新大久保駅前の風月堂の2階であの大地震に遭われたのだった。あの破壊されかけた2階から全ての客が脱出した後で勘定を払ったのは、我々3名だけだったのは今では思い出話だった。
午前10時半過ぎの新大久保駅の改札口前は最盛時の4分の1の人もおらず、自由に動き回れるのも大きな変化だ。私は先ずHalal foodを売るイスラム教徒向けの特殊な商店街から案内を開始した。と言っても、最早店舗は3軒になっているが、午後にもなれば外交官ナンバーの車が何台も路上駐車する賑わいである。最初に入った店ではネパール人が売り子だったのは意外だったが、輸入品のインド産のカレー粉を買われた方が約2名。
トルコのKebabを売るスタンドには早くも数名の客がいたし、その先の日本語学校にはその時刻でも多くの青年男女が忙しげに入っていく光景はビジターには珍しいようだった。だが、中国人が何故日本語をという疑問が残ったようだった。私は何度も言ってきたが「漢民族よ、何を企むのか」である。ここで皆を驚かせたのは、中国からの日本語で印刷された袋に入った輸入米が10キロで¥800で売られていたことだった。まさかイスラム教徒が見込み客ではあるまいが。
さて、大久保通りである。経験者のお二人は「彷徨う客の数が減ったが、何故女性ばかりになったのか」という印象だった。他の方々は「それでも結構な人出ではないか」という感想だった。私は何年前だったか明治通りの方から旧友、を案内して逆行してきた際には群がる女性をかき分け押しのけだったことが、大袈裟に言えば夢のような激変であると同時に激減であるが。
それでも本日は好天も手伝ってかかなりの数の女性が韓国産化粧品店に群がっていたが、往年の活気はない。11時を過ぎた辺りから既に行列が出来始めていたヴァイキングの韓国料理店もあったとは言え、全般的は閑散としていたと言って良いだろう。最大の規模と思う韓国産食料品店にも入って見たが、現在のようなウオン高では最盛時の賑わいはなかった。
私はこのKoreatownが寂れていくのはある意味では歓迎する向きがあるだろうと思うが、廃れた後がどうなるかは大いに気懸かりである。お客様方も現在ほど日韓関係が悪化すれば見捨てる人が増えても不思議はないと言われた。だが、「あれだけの数の店舗に家業を放棄して貸店舗業に転向した地元の商店街の方々の短期的将来が非常に気懸かりである」と解説した。家賃収入が消滅したらどうなるかということ。かと言って、中華街に変わられるのは如何なものかということでもある。
途中で右折して韓国化粧品店が両側を埋める路地に入って職安通りに抜けた。お客様方にはその圧倒的な店舗数が印象的だったようだ。しかし、私には韓国産化粧品に対する人気は根強いものがあるという感が深い。正直に言えば「好い加減に韓国産愛用を辞める考えはないのか」なのだ。でも、「自分の好みのものが偶々韓国産であっただけで、そこまで愛国心を発揮せよというのか」と反論されそうな気もする。
と言うのは、30年近く前にシアトルで知り合った一家言ある船社の営業マンが日本車に乗っているので「日米貿易バランスや通商問題を考えないのか」と尋ねた時に「自分の好みに合う質の良い車を買っただけだ。それが日本製だったということ。車を買うのに貿易バランスを心配する気などない」と断言されたのを思い出したくなるような事態かも知れない。
職安通りで大きな変化だと驚かされたのが、日韓共催W杯サッカーの際にパブリックヴィユーイングで有名になった駐車場を持っていた韓国料理店・大使館が取り壊し工事の真っ最中だったこと。再建するのか廃業かは確認できなかったが、もし廃業だったらビッグニュースの部類かも知れず、Koreatownの終わりの始まりかも知れないと思わずにはいられなかった。
それから四角形の4辺を廻った形で新大久保駅近くのタイ・ベトナム料理店に入った。言うまでもないが、今更韓国料理でもあるまいという精神の発露。皆でトムヤムクーンの激辛さにむせて、3人がタイのシンハ・ビールで喉の渇きを癒やし、タイ式焼きそばとチャーハンを楽しんだ。誰もが自分が何処にいたのかが解らなかった様子で、直ぐそこに新大久保駅があったので驚いていた。そこで解散し「では、来年また」ということになった、楽しい一時だった。