新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月4日 その2 電気自動車を見た

2015-07-04 17:05:22 | コラム
東京の都心に出て電気自動車(EV?)を初めて見た:

今日も先月の28日と同様に新宿という都会のようで田舎のような町を離れて都心に出た。先週は今年になって初めてで、これ即ち6ヶ月振りだったので、見るもの聞くもの全てに新鮮さを感じていた。とは言うが、テレビのニュースの画面で連日見慣れていたせいか、若者どものファッションなどにはそれほど感銘を受けず、違和感を覚えなかったのは何故だろう。

今日はJRと小田急線を利用して移動したのだが、どれに乗っても報じられていたように洋の東西を問わず外国人が多かったのには恐れ入った。しかしながら余り高級ではないというか、富裕層と思われる外国人はついぞ見かけなかった。確かに中国人は多く、何処に行っても何かを買っている風景は目立った。これをマスコミは嬉々として「爆買い」などと形容するが、私はこれは余り適切な表現ではないと思う。

それは今時日本に来なければ良い値段で我々が当たり前のことで買うか、これまでに常備していたような物が、中国では手に入らないということだろう。その辺りを私流に分析すれば、中国のあのような層の連中が漸く資金を蓄えることが出来て、それらの物資が入手可能となってだけのことではないのか。それ即ち、中国がただ単に先進工業国に一歩近付いた段階に達しただけことの証左ではないのか。

その中国をマスコミも何処も「世界第二の経済大国」と讃える。だが、それは飽くまでも13億という人口に支えられGDPの総額が大きいと言うだけのことではないのか。現実的には街には中国語を話していた者は多かった。新宿駅西口のデパートでも色々と物色していた。ある意味では結構なことでは二のか、何分にも国民の消費支出は十分に伸びず、中には買うものか買いたい物がないと嘆く連中もいるのだから。

興味ある現象にも出会った。それはそのデパートの前の道路をクビから「English」という札を下げた目立つヴェストのようなものを着た中年の男女が2人歩いていたことだった。私はひょっとして彼等は「英語の通訳のお手伝いが出来ます」という言葉の障壁に悩む外国人と売り手を助けるための人たちなのかなと考えていた。そうだったならば、如何にも我が国らしい親切さであると思った。これは皮肉で言っているのではない、念のため。

今日の一大発見は3時間半という短い間に、2台の電気自動車を見てことだった。最初が日産の真っ赤な”LEAF”で、次は駐車していたアメリカの”Tesla”だった。色々と喧伝されていたが、大都会の文明社会から半年も遠離っていた私は「本当に電気自動車は走っているのだ」と非常に新鮮な衝撃を受けた。

帰宅して早速検索してみると、日産車は新車で約260万円以上で、Teslaは中古でも980~1,350万円と高額だった。この価格を見て、何となくアメリカの自動車産業は未だしの感があるなと思わずにはいられなかった。

今日は合計で約3時間半の外出だった。来週の土曜日にも同じ目的で外出を予定している。これから先はこのようにして真の意味の社会復帰を目指して身体を慣らしていかねばならないと考えている。しかし、そこに待っている季節は夏。十分に水分を摂って脱水状態にならないように注意せねばなるまい。


7月4日 その1 女子W杯決勝戦の考察

2015-07-04 08:29:55 | コラム
異文化の衝突となった日本対アメリカの決勝戦:

私はこの決勝戦は「組織」対「個人の力」となる珍しい対決だと思っている。即ち、日米間の文化の違いが真っ向からぶつかり合うサッカーになるということだ。私は既にアメリカがドイツをねじ伏せた力対力の対決だった準決勝戦を見て置いたので、アメリカに長年慣れ親しんできた「各人の力と個性に依存するアメリカの(企業)社会の文化」の強さと弱点をあらためてサッカーでも見た思いがあった。

この「日米企業社会における文化比較論」はここ20年ほど機会があれば語り且つ書いて解説してきたもので、この場であらためて詳細に解説するまでもあるまい。だが、簡単に纏めれば「我が方が組織で纏まっていることを長所とする」のに対して、その対極にあるアメリカは「個人の力と主体性を極限まで活かして行く形の文化」なのである。

我が国にも嘗てこれと類似するような三菱商事と三井物産の比較論と言うか比喩があった。それは「組織の三菱、人の三井」というものだった。だが、中学・高校の同期で三井物産の常務だったNK君に同期会で、当時伊藤忠商事に関係していた当方に「どうだい、中に入って見た解っただろうが、俗に言われている人の三井・組織の三菱は誤りで、伊藤忠こそが人と真に個性に立脚する会社だと解っただろう」と言われた。誠に以て同感だった。

本論に戻そう。対ドイツ戦に見せたアメリカのサッカーは確かに全員が体力・体格・身体能力・技術に優れ、同様な資質を持つドイツを圧倒していたのだった。その手法はと言えば各人がその持てる力を活かしてドイツの守備陣を切り裂いてゴールに向かってまっしぐらに進んでいくのだ。その際に確かに巧妙にパス回しを展開はするが、それは飽くまでも個人としての能力を遺憾なく発揮するために周囲を活用するのが主眼であって、組織を活かす為のものではないと見た。

何故そう言えるのかと言えば、長年慣れ親しんできたアメリカの大手企業の中では各人が「職務内容記述書」(job description)に従ってその者のみに課された職務をこなしていくのである。そこでは先ず直属の部下を与えられることもなく、アシスタントなどを付けて貰えることは極めて希である。それは「各人が課題を個人の力と能力で十分に全う出来る」との前提に立っているからで、各人も他人に依存するなどとは考えてもいないのだ。

私はアメリカの女子のサッカーを具に観察して、あれほど高い能力を備えた者たちを集めてある以上、飽くまでも個人が全体を自分のために活かしていくことを目指すのは当たり前であり、指導者もその点に指向していると見たのだった。その典型的な例が我が国の解説者や一部のマスコミが怖れる俊足の点取り屋のモーガン(Morgan)であろう。これまでに何度か見た彼女は自力で、単独で、我が国のディフェンスを突破していった。

アメリカはピッチ上にいる11人のどれを採っても身体能力と技術に優れ、何れもがその持てるものを最大限に活かすべく走り回り、動き回り、相手を圧倒して結果的にティーム全体を勝利にもって行こうと努力、即ち求められている”結果”を出すようにしている。この辺りはビジネスの世界でも同様で、即戦力として雇用した者たちに細かい指示や指導などすることなく、最善を尽くしてけ”結果”を出すことだけを求めるのである。

一方の「組織の日本」はどうかと言えば「結果を求める」ことは同じでも、そこに至るまでの手法は大いに異なる。指導者も各構成員も常に「一丸となって」を目指すし、ティームワークが強調されるのだ。私はアメリカの会社で一丸となろうとかティームワークを求められた記憶も経験もない。ここに明らかな「文化の違い」を見出すのだ。

失礼を顧みずに言えば我が女子代表選手たちにはアメリカのような体格(身長)も、体格も身体能力も持ち合わせはないだろう。だが、身体の大きな者たちにはない素早い細かな動きが出来るし、優れたパス回しの技術を習得してあるし、何と言っても皆で助け合うティーム一丸となる一体感を創り出す能力があるのだ。モーガンはワンバックのような個人としての能力が頭抜けた者はいないが、そこを総合力で補ってなお余りあるのだ。

私の予測するところではアメリカは各個人の力を活かして4年前の屈辱を晴らすべく(アメリカ側では何と”revenge”と表現していた!)我が方の組織を破壊しようと挑んでくるだろう。特にあの素早い寄せで、我が方が後陣で展開するだろう横と後ろ向きの安全策であるかの如きパスが緩いと見るやインターセプションを狙ってくるだろう。モーガンが縦か横の突破を図るだろうし、縦一発の長いパスも蹴り込んでくるだろう。

それに対抗するのが、イングランドのキック・アンド・ラッシュ戦法には流れの中から得点させなかった強力というよりも賢明で堅実な岩清水以下の身を挺しても防ぎきる守備陣がいる。攻める方にはMVP候補の1人に挙げられた宮間の沈着冷静なパス出しもあるし、大きな欧米人に対しても容易に当たり負けしないポイント・ゲッターの大儀見もいる。いざとなれば神通力を発揮する澤も、準決勝戦を避けて温存してある。

私は勝ってくれることを切望するが、帰趨は全員の顔が見られて試合が始まるまでは予測出来ないというか閃いてこない。実力は拮抗しているだろう。但し、長年(フットボールを含めて)多くの試合を見てきた経験から言えることは、正直に言えば余り言いたくはないが、勝つ時は誠に僅差で、万一その反対の場合があるとしたら、2点ほどの差が出るかも知れない。実は、今回も延長戦からPK合戦にまで行くような気がしてならない。