新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

日米企業社会における文化比較論

2015-07-23 14:55:34 | コラム
私が文化比較論を語るようになった切っ掛けは:

私は1980年代半ば頃から日本でもアメリカでも相互に文化(ある特定のグループなり集団なりの言語・風俗・習慣・思考体系を指す)に正反対と言っても良いほどの大きな相違がありながら、その事実をほとんど認識していないことに限りない不安を感じ始めていました。その一部は既に我が国でも「逆さの文化」=”reversed culture”等と揶揄するかの如き表現が存在していたのも事実でした。

それはビジネスの世界では自国だけの考えで相手国を押していくという恰も「目隠ししてボクシングをしている」かのような不毛な取引であり、話し合いであり、交渉を繰り返し、時間とエネルギーの浪費を続けている事を見聞きするにつけても、この流れを何処かで止める為にも相互理解を推進する必要があと認識し始めました。しかも我が国では何故か「アメリカ人は国際人で我が国は・・・」等と無用で自虐的な考え方が蔓延っていました。

私はこのような風潮は打破するべきだと真剣に考えました。このような状況下では、アメリカ側は日本市場に進出を試みては失敗を続け「買わない日本が間違っている」と唾を吐いて撤退するような所業を続けました。私はこれを当時はアメリカ側が雇う日本人社員の文化の違いに対する認識不足で本社を正しくリード出来ていないことが原因だとも見ていました。

そこで、ここに「大いに問題がある」と我がW社本社の事業本部長にも指摘していました。同時に解ってきたことがありました。それは、何人もの外国の製紙会社の日本支社の代表者が「アメリカ人は英語ができれば有能だと思い込んで、市場と文化の違いを弁える能力に疑問の余地がある日本人を信じ込んでしまうので・・・・」と慨嘆していたのです。

そこで私は意図的にこの「日米企業社会における文化と思考体系の相違点」を研究し始めました。その頃リタイヤー後にシアトルで大学院大学の教授に就任した学者肌の人に言われた「自国の文化を知らずして他国の文化は語れない」が大いに参考になりました。そして、1990年4月に15年勤続で本社で表彰されることになった際に、副社長兼事業部長に「是非とも文化の違い論のプリゼンテーションを部員全員を集めてやらせて欲しい」と訴えて実現しました。

原稿は入念に練り上げて、製材品の東京駐在のアメリカ人のマネージャーにも意見を求め、丁度90分間のドラフトになりました。彼の助言で最も有り難かった点は「日本人の社員は得意先の代弁をする傾向がある。これが大きな誤りで彼らは本部の意向を得意先に伝えて承認させるのが仕事だと言って起こる者が本社には多い。これが誤認識で得意先の主張に耳を傾けて初めて日本市場を理解出来るのだ」でした。即ち、これが文化の違いの最も重要なポイントの一つだったのです。

お陰様でこのプリゼンテーションは大成功で、ワシントン州南部の工場では2~3度繰りかえして語る機会があったほどでした。また社外の日本文化に関心がある人たちにも語りましたし、Bellevue Community Collegeでも生涯学習部の部長教授にも進講しました。今にして思えば、当時ではそれほど斬新な分析であったのです。

その後W社を引退した後では紙パルプ連合会の広報誌にも光栄なことに、少し異なった表現で三部作で連載される機会も与えられました。また、幾つかの大学でも私独自の英語論と勉強法とともに、この私流比較文化論を語る場を与えられるまでになりました。その後出会う機会があった生涯最高の上司だった副社長には”Cultural difference specialist”だと揶揄されたほどでした。

私は在職中に彼に向かっては「日米間の企業社会の間には文化の違いというデコボコ道がある。そこを自分の努力でボスは恰も平坦な道を歩いているのだと思うほど綺麗に均すのが私の仕事だ」と言っていました。「その責務を果たすことが出来ない日本人社員を雇ってしまった企業は成功が覚束ないのだ」乃至は「我が社ほどの、我が事業部ほどの成功は難しい」とも言って良いと確信しております。

実は1994年に東京都の中央区と千代田区の大手紙商の社長さんたちの任意の組織でも、より具体的に紙パルプ業界における文化の違い論を語って、当時大変な脅威の如くに見なされていた輸入紙を「恐るるに足らず」と解説しました。(この根拠は機会があれば別途解説しますが、担当だった私が言うことです)

最後に私は未だに日米相互にこの「文化の違い」を完全に理解しきっていないのではないかと密かに憂いています。と言うのも、その理解の為の有効な手段であるはずの英語が、我が国では未だに「科学としての英語」の域に止まり、”English”の域に達し切れていない有様ですから。