新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

私がカタカナ語の濫用を嫌う理由(ワケ)

2015-12-01 08:46:54 | コラム
何故シンプル!に「故障」と言わないのか:

ご存じの方がおられるとの希望的観測で言うが、当方はカタカナ語排斥論者である。簡単に(シンプルに?)その理由を言えば「英語本来の意味を取り違えたか、その中の一つだけを採り上げて漢字の熟語に引き当てていれば、その表現が適切出ないばかりではなく、本来表現したかったことが正確に伝わらないことが多々あるから」である。

これでは未だ具体性を欠くので実例を挙げてみよう。今朝はテレビも新聞も「山手線の新型車両がトラブル」とカタカナ語を使って伝えている。これで批判派の私にも何らかの故障があったとは解る。しかし、信頼するジーニアス英和には「①心配、苦労、悩み、心配事、やっかい(困り)者」が出てくる。②では「[・・・に]関する迷惑、面倒;困難」とはでてくるが「故障」はない。「ご近所トラブル」というのもあり、これは「揉め事」の意味であろうが、ジーニアスには三番目に出てくる。

実際には自動のブレーキがかからなかったことと、ドアが閉まらなかったことではないか。それならば新聞は何故字数も少ない「故障」と何故言わないのか。私には不思議に思えてならない。Oxfordには「1. a problem, worry, difficulty, etc. or a situation causing this」とある。”problem”は”a thing that is difficult to deal with or to understand”とあるから、今回の山手線の新型車両の故障乃至は事故がこれに最も近いように思える。それならば漢字の熟語を使え。それとも漢字では理解されなとでも思っているのかな?

ここで早めに結論のような心配事を言えば「カタカナ語を濫用していれば、何時かは日本語で事象を正しく且つ正確に表現出来る能力が退化しはしないか」なのである。だが、これだけでは例が不足するだろうから、多用されているカタカナ語からシンプルに”simple”=「シンプル」を採り上げよう。このカタカナ語は「単純」、「簡単」、「容易に」、「手軽に」等々の意味で濫用されているようだ。

そこで、以前にも採り上げたが本来の英語では如何なる意味かを考えてみよう。先ずはOxfordから。最初に”1. not complicated; easy to understand or do”とあって、カタカナ語のどれにも当てはまらないような気がする。同義語に”EASY”とあるが、これは”not difficult; done or obtained”であるから、「容易に」が近いようだ。ジーニアスには「①単純な、簡単な;わかり[扱い]やすい[・・・するのが」容易な」とあるので、これはまるでカタカナ語の解釈のようで思わず笑ってしまった。

他に例を挙げればキリがないが、「ノミネート」というのも気に入らない。即ち、「~が流行語大賞にノミネート」という類いの表現を指しているのだ。これは明らかに「~が流行語大賞にノミネートされた」という意味だと解釈している。であれば「誰が何を推薦したか」の「誰」が欠落している。ここら辺りが英語と日本語の大きな違いで、行為の当事者を言わなくても文章が成り立ってしまうし、読者も視聴者も「何処の誰が何を推薦したか」が解っているか、解らなくても気にしないのであろう。英語ではそうは行かないのが辛いところだ。

この文章を英語で考えると「何とか言う会社が(例えば)五郎丸を流行語大賞に推薦した」という平叙文にするか、「五郎丸が何とかいう会社に流行語大賞に推薦された」という受け身の形の何れかにならねばならない。私は「~が流行語大賞にノミネート」は後者の受け身の方だと解釈している。恐らくテレビも新聞もご担当の方たちは「英語」を良く理解されておられず、カタカナ語の格好良さに酔っているのではないかと邪推したくなる。

因みに、”nominate”はOxfordには”1. ~ (for/as)to formally suggest that 何とか should be chosen for an important role, prize, position, etc.”となっている。ジーニアスには「〈人が〉〈人〉を[・・・に]指名する、推薦する[for, as]、〈映画・歌など〉を[賞に]推薦する、ノミネートする」とあってカタカナ語か出てきている始末で妙に納得させられたのだっだ。

何でこんな屁理屈みたいな事を言うのかと言えば、ここが重要な点であるからだ。即ち、TOEICの改訂版を出したり、「社内の公用語を英語に」などという思いきった会社が現れるのは結構だが、このように省略を嫌うと言うべきか事細かに「主語と述語と目的語をキチンと並べないと意味を為さないか理解して貰いないか評価されないのが英語である」という、当然あるべき認識が出来ていない英語使いが増えるだろうと危惧するからだ。

結局のところ私の結論は「英語を普及させて国際人を養成しよう」等という惚けたことを小学校から強制しようという我が国なのに、カタカナ語を濫用するマスコミがいては、私が何時の間にか習得していた世界中何処にいっても恥ずかしくないだろうと思ってる「支配階層の英語」に到達することなく、「単語を並べたら通じた。やった-」という域に止まってしまうのではないかと、真剣に憂いているのだ。最後に「恐らく異論出てくるだろう」と危惧していると申し上げておく。