新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

1950年代に来日したアメリカのジャズバンドのプログラムが出てきた

2021-07-09 11:19:59 | コラム
1950年代にJATP、BG、ジャック・テイーガーデンが来ていた:

別段、終活したのでも近頃流行りのような「断捨離」とやらをした訳でもなかったが、止むを得ず整理した書類と印刷物の山の中から、当時では我が国でも有名なアメリカのジャズの演奏家たちがやって来た際のプログラムが3部も出てきた。自分から「保存して置いたとは知らなかった。意外だった」とは変な言い方だが、懐かしかった。同時に「あの当時の我が国でも、これほど立派な塗工印刷用紙(アート紙のことだが)があり、それに美しく印刷したプログラムを製作出来ていたのも印象的だった。

JATP:
2021年の現在、ジャズ愛好家にJATPと言って「彼らが来日していて、そのプログラムが残っていたとは凄い」と褒めて貰えるかどうかは疑問に思う。簡単に言えばNorman Granzが主宰した言わばオールスターのバンドのことで、フィルハーモニックホール(Philharmonic Hall)で演奏したので、そのホールに因んでJazz at the Philharmonicの頭文字を取ってJATPとしたと記憶している。当時は未だ大学3年生だった私は、アルバイトの稼ぎを投資して最も低額だった日劇の3階席を確保して駆けつけたのだった。1953年11月8日だったと、プログラムの表紙に印刷されている。

兎に角大感激で、巨漢のオスカー・ピーターソンが興に乗りすぎたのか椅子を破壊してしまった様子が遙か彼方の3回からも見えたし、エラ・フィッツジェラルドの生の歌も聴けたし、ジーン・クルーパのドラム演奏も見えたのだから。後になって教えられたのは「音は上に上がっていくものだから、1階席で間近に聞くよりも上の方の3階の方が遙かに綺麗な音が聞けるのであり、3階席を買ったのは正解だった」ということだった。言わば、慰められたのだった。

上記以外の顔ぶれは名前だけ挙げておくと、レイ・ブラウン、ハーブ・エリス、ビル・ハリス、チャーリー・シェイバース、ロイ・エルドリッジ、フリップ・フィリップス、ベン・ウエブスター、ベニー・カーター、ウイリー・スミスで、ノーマン・グランツが冒頭にメンバー紹介をしていた記憶がある。現代の1950年代のジャズの愛好者にとっては、堪らない顔ぶれだろう。

BG:
年代順にすると、次に古いのがBG、即ちBenny Goodmanのフルバンドだった。プログラムによれば、演奏は4日間で1957年1月12~15日となっていた。そのどの日に聴きに行ったかの記憶はない。1957年では社会人になって3年目だった。会場は当時の大手町の産経ホール。

何しろベニー・グッドマンは彼の1938年のカーネギー・ホールでの歴史に残るコンサートの2枚組のレコード(当時はCDなんてなかった)を、再生装置まで作ってしまう程の”mania“(正確には「メイニア」で「マニア」はカタカナ語)だった級友のT君と協同で買った程傾倒していたので、この機会を逃すわけにはいかなかった。12日が土曜日だったので、当時は恐らく13日の日曜日に聴きに行ったと思う。フルバンドなので、誰の演奏が良かったかの記憶はないが、ボーカルのDotty Reid(リードと読む)が下手だったという印象が残っている。

最後がJack Teagarden(ジャック・テイーガーデン):
デキシーランド・ジャズである。これは産経新聞社の主催で1959年(昭和34年)1月11~17日間に演奏会が開かれていたが、東京以外にも名古屋、広島、大阪でも開催されていた。テイーガーデンはトロンボーンの奏者として有名だが、その「擦れた声」とでも形容したいボーカルに何とも言えない味があり、中でも“St. James infirmary”が最も評価が高かった。プログラムにも載っているが、私が聴きに行った日に歌われたかどうかの記憶はない。

以上の他には1963年に大阪でSonny Rollinsの演奏を聴きに行っていたが、この時のプログラムは残っていなかった。このような、我が国のジャズ界にとっては歴史的な演奏者たちのプログラムをこの儘私が持っていては後世に伝わらないような気もする。冗談半分に「mercari」にでも出品するかと言ったが、当方はスマートフォンを持っていなかった。また、これまで気が付かなかったが、programはhotelと同様に、そのまま「プログラム」とカタカナ語になっているだけで、日本語というか漢字を使った訳語がないのだった。