新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月28日 その2 少しだけオリンピックに近付いた話題も

2021-07-28 16:45:09 | コラム
アメリカの国歌を聞いて一人で懐かしさに浸っていた:

昨27日に横浜スタジアムで行われた、女子のソフトボールの試合を見ていた。途中から気が付いたのだったが、台風で中止か延期だと勝手に決めていた女子のサッカーは予定通りだったのだった。そこで両方を見るはめになった。このソフトボールのアメリカとの決勝戦が開始される前に、如何なる根拠があったのか知らないが、アメリカの国歌が流されていたのだった。勿論と言うべきか何とすべきか、言わばカラオケのように音だけだった。

しかし、20年以上もの間にアメリカMLBの野球場、NFLのフットボール競技場、NBAのバスケットボールの室内競技場等で、何度も何度もアメリカの国歌を聞かされていた。お陰で何時の間にか歌詞の冒頭の部分である“Oh say can you see by the dawn’s early light“辺りまでは直に覚えてしまっていた。

そして、何時もその場内で満員の観客が皆一斉に立ち上がって声高らかに、しかも楽しげに国家を歌っているのを聞いて、1980年代末期までは「何故、我が国ではこれと同じような場合に誰も合唱しようとは思わないのだろうか」と、残念であると同時に非常に遺憾であると感じていた。その頃までは、我が国では日教組だか何だか知らないが国歌と国旗を蔑ろにする傾向が顕著だったので、アメリカ国民が嬉しそうに“Oh say can you see ~”と歌うのを羨ましいかのように感じていた。

アメリカに行くようになってから、方々を回って気が付いたことがあった。それは、何処に行っても大きな星条旗がはためいているか、主な公共の施設には必ず国旗が置かれていることだった。我がウエアーハウザーの本社ビルの外には、アメリカで最大であると聞かされた星条旗が常に掲揚されていた。これが何を意味するかを考えて見た。それは「多くの民族と人種が集まって構成されている合衆国であるのだから、皆の拠り所となる国旗を置いて統一感を味合わせ、ことある度に国歌を歌って“USA”と唱えて一体感を味合わせているのでは」などと考えていた。

私は戦時中の育ちであるから「愛国心」を強調して植え付けるような教育を受けてはいた。だが、それほど徹底した愛国者ではないだろうと思っていた。だが、アメリカ人の中に入ってあのように国旗を敬い、皆で楽しげに国歌を歌っている様を見せつけられては、上記のように「何で、我が国はこのようにならないのだろうか」と考えるように変わってきた。

その思いが高じたのか、何時だったか上司にワシントン大学(University of Washingtonで、州立である)の構内にある7万人収容のフットボール競技場に試合を見に連れて行って貰う機会があった。そのUWのHuskiesの試合開始前に7万人の観客による国歌の斉唱があった。それが始まったと同時に起立していた私は「何故、我が国ではこうならないのだろう」とも思いが襲ってきて自分でも驚いたことで、涙が出てきたのだった。それを上司に見られてしまい「君もとうとう我が国の国家のために泣いてくれるほどアメリカに馴染んでくれたか」と感動されてしまった。

昨日はこの一件を思い出して「そう言えば、俺も当時はあれほどアメリカに親しんでいたのだったな。そのアメリカの会社を離れて27年も経ってしまったのか」と、一人で些か感傷的になっていた。言うなれば、何と形容すべきか解らなかった「何とも言えない懐かしきアメリカ」を思い出していたのだった。

という次第で、オリンピック関連の話題からは少しは離れていたつもりだ。だが、あの試合で解説していた宇津木妙子元監督が、7回の裏に宇津木麗華監督が逃げ切りように上野由岐子投手を再度起用したときに、非常に心配しているような声で「良いのかな」と言ったのは非常に実感がこもっていた。私も同感で「大丈夫かな」と見ていた。だが、上野由岐子投手は見事に3人で片付けて優勝して見せてくれたのだった。

宇津木妙子元監督の嘗ての教え子たちを気遣う一言が印象的だったが、杞憂に終わって本当に良かった。上野由岐子投手は偉かった。しかしながら、結局はオリンピックの話題になってしまった。


オリンピックの話題から離れてみよう

2021-07-28 09:15:44 | コラム
やれやれローマ字読み:

今回は私の好みであるカタカナ語の話題は一般受けしないと承知の上で取り上げてみよう、オリンピックの話題から離れたいために。その中でも「ローマ字読みには英語の正確な発音を身につけるのに対して弊害がある」と思うので、女子のソフトボールにおけるオーストラリアの選手の名字の英語の発音を正確に表示していないカタカナ表記から入っていこう。

彼女はLeigh Godfreyという人だった。だが、テレビの画面に表示されたのは「ゴッドフリー」だった。これを見て直ぐにGodfreyさんのことだと解った。辞書に出ている発音記号をカタカナ表記すれば「ガッドフリー」が最も近いかと思う。だが、本音では「ガードフリー」としたいのだ。以前から論じ続けてきたことで、英語では”o“をローマ字式に「オ」と発音することは少ないと思っていて良いだろうし、同様に”a”も先ず「ア」とはならない例が多過ぎるのだ。今回は“a”の関連は論じない。

このガドフリーさんの名字の前半のGodにしても、如何なる辞書を見ても「ゴッド」とはなっていない。既に指摘したように「がッド」か「ガード」に近い発音記号になっている。だが、我が国のカタカナ語製造業者たちは躊躇せずに“o”は「オ」としたし、“a”は「ア」にしてしまった。余り芳しくない例を挙げれば芸人たちが好む嘆きの台詞では「オーマイガー」となっていて「オーマイゴー」ではないのだ。彼らの耳にもGodは「がード」と聞こえているらしい。

この“o”絡みでは他にも“holiday”を取り上げたい。我が国では堂々と「ホリデー」となっているが、Oxfordだって「ハラデイー」に近い発音記号で表示されている。ボクシングの「ボディーブロー」だった「バディブロー」が英語に近いのだ。勿論、「それが日本語として通用しているのだから、放っておいてくれ」と言われるのは百も承知だ。ここは永年言って来たことで「本当の英語の発音とカタカナ語とは別物だ」と承知していて貰えれば良いのだ。

次は、先日オリンピックの開会式を採り上げた際に採り上げた「ジオラマ」を。英語の綴りは“diorama”なのである。この“di”を「ジ」とするのはまるでポルトガル語のようだが、正確な発音は何と「ダイアラマ」に近いのだ。ここでの英語のイヤらしさはといえば“i”をローマ字式に「イ」とはせずに「アイ」にしているところだ。カタカナ語製造業者の苦心のほどは「デイオラマ」とせずに「ジオラマ」にして逃げた辺りで解る。

この“d”が関連する単語に「デユース」または「ジュース」がある。これはテニスの用語にある。英語の綴りは“deuce”であり発音は「デユース」が近い。だが、ある説によれば、デユースという発音が出来ない人が出てきたので、易しくして「ジュース」になったのだそうだ。英語のイヤらしいところは“schedule”だと「スケジュール」となる辺りにある。

“d“絡みでは他に”diazo“がある。これはICT化やデイジタル化が進んだ現代の方々には通じないだろうと思う。それは「ジアゾ」乃至は「青焼き」と呼ばれていた「コピー」の方式である。コピーして出された書類や図面が青く出てくるので「青焼き」と呼ばれていた。英語の発音はといえば「ダイエゾ」なのである。またしても“i”は「イ」とはなっていないイヤらしさだ。他にも“dilemma”がある。これは「ジレンマ」ではなくて「デイレマ」となっているのだ。

このような英単語の不規則さを「ローマ字読み」にして切り抜けようとした先人の知恵と努力は大変なものがあったとは思う。だが、カタカナ語排斥論者の私には「本当の発音を恣意的に変えてしまう表記の仕方が、正確に英語を学ぶというか発音を覚える妨げになっているのではないかと思える」のだ。「いや。そんなことになるのはインポッシブルだ」などと言わないで欲しい。“impossible”の正確な発音は辞書を見て頂きたい。