新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月17日 その2 ウガンダの選手が合宿から脱走した

2021-07-17 08:04:16 | コラム
私には現時点での脱走とは想定できていなかった:

昨日から大阪の泉佐野市で事前合宿を張っていたウガンダの選手団の選手団の1人が行方不明とは報じられていた。本17日には名古屋に向かったとの報道になった。私は以前に何処かのオリンピックでは終了後に亡命を希望して帰国しなかった例があったという程度の記憶があったので、もしかすると今回のオリンピックでもそのような事態が発生するかも知れない辺りまでは、ボンヤリと想像はしていた。いや、開幕前に抜け出すとまでは想定出来なかった。問題はこの脱走者の取り扱いをどうするかではないのか。

今朝から報道を聞いていて「これはもしかすると面倒な先例となるのかも知れない」と考えるに至った。私はIOCが設定したと聞いた気がする「プレーブック」なる選手たちの行動を規定したものの内容など知る訳がないが、まさかその中に『脱出』や『亡命』をするなかれ」との条項があるとは思えない。思い浮かんだ事柄は「オリンピック選手としての特別なヴィザがあるのだろうか。滞在期限の設定は?彼を入管が拘束できるのだろうか。我が国で働きたいとの書き置きを残したそうだが、不法就労で拘束して送還できるのだろうか等々」だった。

報道によれば、新幹線の名古屋駅でそれらしき人物が監視カメラに写っていたそうだが、彼を入管なり警察が追うべきなのだろうか。外交上の案件になるのだろうか。組織委員会なり監督官庁はそこまでの想定をしてあったのだろうかとも考えた。これ以外に考えたことは、このウガンダの例が他の何処かの自国の政情なり経済状態などに不安を抱いている者たちに、格好のヒントを与えるのではないかという辺りだった。

そのウガンダの脱走者は泉佐野市の駅で「名古屋」と叫んだと言うから、何か事前に手はずを整えてあったのかも知れない。ここから先に事態がどのように展開されていくの予想などできないが、オリンピック選手団の入国後に「想定外」の事例が良くもこれほど短期間内に出てくるものだと、寧ろ感心している。こういう案件を担当される方はさぞかし苦労されることだろう。この脱走者は陽性者だったのか、それとも濃厚接触者?そういう心配もせねばならないのではないのか。


外側から見た日本と日本人 #2

2021-07-17 07:16:11 | コラム
日本望見:

「恥の文化」と「謝罪の文化」:

このような文化が存在し、しかも我が国独得の美徳であり尚且つ美風である点は、余程我が国に慣れ親しまない限り、アメリカ人及びヨーロッパの人たちには容易に理解できないのは当然だと思う。我が国の人たちは余程アメリカとヨーロッパの文化を認識できているか馴れていない限り「論争と対立」を怖れる傾向が濃厚である。交渉事では常に「落とし所」か「妥協点」を探る議論を展開しようとするのだ。そこには「折角遠方から来て頂いたのだから、論争で不快な思いをさせては申し訳ないし、何かお土産でも差し上げないと恥をかかせてしまうし、顔を潰すようなことになってしまっては不本意だ」と配慮する傾向がある。その為に、「双方の主張を足して二で割って中間を採る」ような方向を模索しがちだ。

しかし、アメリカ人たちの考え方は二者択一で「我が方の主張を通す事」以外はあり得ないのだ。しかも、彼らはこの日本的に見れば強硬姿勢を貫く裏には、議論をする前に準備してくることがある。それは「逆櫓」とでもいうか、英語で言う“safety valve”であり、話が決裂した場合に備えて、二の矢か三の矢を準備して交渉の席につくのである。彼らには玉砕戦法はないのだ。一方の我が国では、三段論法的な論旨を予め組み立てて交渉に席に臨んでくることは極めて希なのだ。これが教育の問題か民族性なのか断定できないが、アメリカ人たちが言う“contingency plan”を準備するという考え方はないようだ。

教育の問題:
今更言うまでもないかも知れないかと危惧するが、敢えて極端な表現を用いれば「我が国の教育の基本的な在り方は受動的で、教えられたことと教師に言われたことしか予習も復習もせず、一つの答えしか求められていない試験での優等生を育成しようとしている」と思っている。更に敢えて言えば、受動的なのだ。お断りしておくが、これが悪いと言っているのではない。だが、アメリカやヨーロッパ式の教育は受動的ではないのだ。

彼ら教育は教えられた範囲内だけ勉強していたのでは評価されない仕組みになっていて、自分から言われなくとも学習か研究の範囲を拡大していくことを心掛けていなければならないのだ。このアメリカとヨーロッパ式の中に入って連日のように膨大な宿題とレポートの提出を求められる世界では、受動的な世界で育ってきた我が国からの留学生たちが、容易に優等生になれないのは仕方ない事だと思う。これは人としての能力の優劣の問題ではなく、飽くまでも文化の違いによるものだと断じている。

団体行動の重視:
「テイームワークの重視」とする方が適切かも知れない。我が国では各人に飽くまでも集団の一員としての行動を求め、その点を非常に重んじているので、個性を抑えてまでも全体の方針乃至は団体か会社の色に合わせていくことを重要視して新卒で採用した社員を育てていく。その為に、どちらかと言えば個性豊かな者よりも、全体との調和を重んじて没個性的な人材が評価される傾向なきにしもあらずだ。それは「組織の中にあっては、可愛らしく上司と年長者に対して従順な者が高く評価されることになって行く」のだ。

故に「テイームワーク」が優先され「全員打って一丸となって事に当たる」文化が確立されている。換言すれば、皆で相互に助け合う美しい精神が重んじられていると思う。一方のアメリかでは、飽くまでも個人の能力と主体性が尊重され、他人に依存する精神は希薄である。究極的には「頼りになるのは自分だけ」という世界なのだ。私もその世界に入って間もなくは、私個人の判断と都合だけで行動しなければならない難しさを味わっていた。

機会と出生の均等:
男女平等、同一労働同一賃金などというのはアメリカの専売特許の如くに思われていないか。私は寧ろ我が国の方が分け隔てなく実行されているのではないかとすら言えると思っている。アメリカのように一旦労働組合員となれば、生涯その身分から抜け出せないこえあるとか、銀行で言う“clerk”(=事務員)という中間層に採用されれば、そこに勤務している限りそこからは出られないような人事制度は、我が国にはないと思っている。

そこには学歴の問題もあるが、出自も大きく関係しているのがアメリカである。例えば、アメリカの州立大学出身者のように、将来に身分の垂直的昇進があり得ないような、学歴による明らかな差別がない辺りは、実に平等で機会均等だと言って良いと思う。私が在籍したアメリカ有数の大手製造会社では、周囲及びその上に労働者階層(トランプ前大統領は“working class”と表現した)や少数民族(minorities)の出身者がいることなどあり得ないのだ。その辺の平等と公平さは我が国だけのことと認識すべきだ。

この辺りは前回取り上げた「支配階層」の存在と大いに関連していると思う。即ち、アメリカでは自分が生まれつき所属している階層からは、余程の事情が無い限り、上下であろうと横だろうと他の階層に移動していくことは先ず考えられないのだ。いや、最初に労働組合に所属した者がそこから会社側に転じ、更に管理職に上がっていくことなどは想像も出来ない社会なのである。この辺りを我が国と比較して考えて見て頂ければ、我が国が以下に機会均等であるかが見えてくるだろう。

日本人には独創性が乏しいのか:
私は平生では如何に論旨を組み立てようかと事前に熟考することなく「これと思う主題」を思いついたときに、頭の中に浮かんでくる事柄をPCに向かって打ち出していくだけなのだ。妙な喩えになるが「通訳をする際には、耳から入ってくる言語を全く無心に聞き且つ記憶して、それが自然に他の言語になって出てくるだけ」の作業だった。10~20分くらい話し続けてられても、頭の中の記憶容量を超えないで済んでいた。

今回はそういう思い付きというか自然発生的な纏め方ではなく、自分で思いつくままと記憶にあるままを先ず書き並べてみた上で、幾らかでも余所様に読んで頂けるような論文めいた形にしようと考えた。何分にも記憶力が頼りなので、学会等の正式な論文のように出展というか、“bibliography”を付けようがないとご理解のほどを。

そこで今回は「日本人の創造性」について考えて見た。何時の頃までだったか、松下電器産業(現Panasonic)は「真似した電器」と揶揄されていた。また、我が国が海外に輸出した多くの製品が海外の諸国による既製の製品の模倣であること、即ち俗語に言う“copycat”とも非難されていた事くらいは承知していた。

しかし、我が国の産業界の知性と教育水準の高さと、弛まざる勉強と、研究・開発への努力の成果で、何時の間にかその人真似の域を脱して、自力で研究開発した製品を製造するようになったのだった。その頃かまたはその前からかに、“R&D”、即ちResearch and developmentという標語?が流行するようになり、研究開発への投資の重要性が叫ばれるようになった。私がアメリカの会社に転出する前の1960年代の事ではなかったか。

1960年代にはアメリカ等の先進工業国から多くの新製品や特許やライセンス(製造か使用の認可)が入って来るようになった。ところが、我が国ではある程度以上に工業力が進み、均一的な教育による均一で優れた労働力が備わってきた結果で、原産国乃至はライセンスを降ろした國の製品よりも、遙かに優れた斬新な製品を作ってしまう業界と業者があちこちに出現したのだった。自動車などはその典型的な例だと思う。即ち、copycatではなくなってきたのだった。

だが、一部の評論家は「我が国の製造業が成し遂げた事は、原産国の技術と製品をより高い水準の質に仕上げただけなのに、如何にも我が国のR&Dの能力が向上した賜物であるかのように自画自賛してるだけでは」と酷評していた。私たちの業界にもそういう例は多々あったと思う。大前研一氏もそのように批判している。しかし、唐津一氏は「それこそが、我が国の技術陣の創造能力であり独創性の表れだ。何ら恥じるべきものではない」と主張。

一方には、私の年来の経験から来る持論である「アメリカに存在する多くの階層の中でも最下位に位置する労働者階級の、初等教育すらまともに受けていない者が多いこと、識字率が低すぎること、難民等の合法・非合法の移民が多いこと等々の原因で、労働者階級の質が低いことの為に、まともな製品が出来ない確率が高いのである」という事がある。この現象はアメリカの製造現場を知らない政治家やジャーナリストたちが把握できる事柄ではないだろうと信じている。第一に、多くの製造工場では、マスコミ等の部外者の見学(参観)を先ず許可しないのが普通だ。

私はその許可しない側のアメリカの会社の一員として、20年以上もの間、英語もろくに解らない組合員の労働者と接してきたのだ。彼らと比較すれば、例え大卒でなくとも、我が国の現場の課長級の人たちの質の高さは、アメリカのそれと比較するのも失礼なほど高級で優秀なのである。それは学校教育の質が違うし、社員である事による会社への帰属意識と忠実性及び忠誠心が違うのだ。皆なのため全体のために働こうという意識が高いのだ。

彼らの経験と鍛え抜いた技術力があれば、創造能力というか研究開発の能力は、アメリカに勝るとも劣ることはないと言っても誤りではあるまい。私は我が国の政治家、ジャーナリスト、学者、大学教授等々の方々が、本当のアメリカの現場の気の毒なと言いたいほどの諸問題の存在を、ご存じだとは思えないようなのだ。その労働者階層の限界を知った知恵者たちが「自社では物を生産しない」GAFAMに向かったのだと見ている。その辺りの知恵は一握りの支配階層の者たちが如何に優れているかを表していると思う。私は「GAFAMに置いて行かれた現状を批判してみせるマスコミやジャーナリストの連中に、何が解るのか」と言ってやりたいのだ。彼らがアメリカの製造業界の現場や、労働者階層と本格的に接触するか交流して語り合ったことがあるのかと言いたいのだ。

次回で完結