新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月18日 その2 我が街のアジア化が一層進んだ

2021-07-18 11:33:21 | コラム
新宿区百人町に本格的な四川料理店が出てきた:

つい先日、我が新宿区百人町では既存のベトナム料理店が、路上でドリアンの目方での販売を開始したことを採り上げた。更に、料理の国籍に関係なく絶対に当たらない場所に新たにケバブのスタンドと、何を意味するのか私には解らないハラルフードを売りにした焼き肉屋が開業した事にも触れた。それだけでも十分に低次元の国際化が一層進んだと思って見ていれば、今度はJR山手線・新小窪駅の反対側に「四川料理」の看板を掲げた店が出てきた。その前を通過したときに中から出てきた男の顔付きと髪の毛の生え具合では、間違いなく中国人だと判定した。

そこで、今週はどのような料理を提供するのかと、ランチ¥880の立て看板に惹かれて家内と共に地下に降り立っていった。店内は想像以上に広く、赤を中心にした飾り付けは紛う事なき中国風だった。11時半頃だったが未だ客はいなかったにも拘わらず、厨房には中国語が飛び交って数名が忙しく働いていた。

客席にはニューは置いてなかったので「矢張りか」と妙に納得させられた。そこには「華為」(Huawei)のタブレットだけがあった。ICT化というのかデイジタル化が我が國よりも進んでいると聞かされている中国人の店であれば、当然だろうと思わせられた。メニューはチャンと日本語の表記にもなっている辺りも「凄いな」などと感心なしたくなかった。そこで、典型的な四川料理である「麻婆豆腐」と「ジャージャー麺」を注文してみた。

注文して料理が来る間待たされて解ったことは、厨房の忙しさは配達と持ち帰りの注文が非常に多いという点だった。電話は鳴り続けていたし、UBERではない多くの配達人が次々と降りてきては駆け足で階段を駆け上がっていくのだった。察するに、中国人からの注文が多いのだろう。

そこで料理の味である。これまでに我が国で所謂「四川料理」を都内や横浜の南京町(我々の年齢層では中華街とは言わない)で味わってきたものとは全く違っていた。麻婆豆腐の辛さは痛烈なんていう生易しいものではなく、家内と共に歯が立たなかった。ジャージャー麺の辛さも強烈だったが、家内は何とかこちらは制覇した。私は何とか粘って辛い豆腐を3分の1ほどは食べたが、結局は諦めて残す事にした。少量でも口に入れたときには確かに美味さは感じるのだが、次の瞬間に例えようもない辛さが襲ってきて、美味だったことを忘れさせてくれるのだ。

我々の隣の席に座った中国の青年は全く何事もないように麻婆豆腐を食べ進め、アッという間もなくご飯をお代わりし、辛い料理を征服して帰って行った。店内は瞬く間に多くの客も入ってきたが、あれほど配達と持ち帰りが繁盛しているということは、この界隈にはどれほど中国人が多いかということの証明のように思えるのだ。少し疑問に感じたことは、中国全土に住む者たちは、皆四川料理を好むのだろうかということ。我と思う方はここまでお出でになってお試しあれ。


外側から見た日本と日本人 #3

2021-07-18 10:35:22 | コラム
文化比較論:

年功序列:

この点は企業の世界だけを見ても、アメリカを始めとする諸外国と我が国とは大いに異なっている。近年は多少能力主義であるとか、先日採り上げたjob型雇用と成果主義賃金制度などが導入され始めた。だが、依然として基調には年功序列制度が支配しているかのようにしか見えるのだ。それが良いか悪いかの議論は措くとしても、近年の多くの大手企業の実績を見ていると「経営者の劣化」は否定できないのではないかと思う。これが年功序列の為せる業か、人材そのものの劣化かは断定できないが、経営担当者(オウナーのような経営者ではない)たちが小粒になった感は否めない。

では、アメリカはどうかと言えば、指導者層に先の大統領トランプ氏と言い現職のバイデン大統領と言い、私の在職中には考えられなかったような70歳を超えた者たちを多く見かけるようになってきた。ウエアーハウザーではファミリーの4代目の当主で、8代目の社長兼CEOだったジョージは39歳でその地位に就き65歳で引退した。私が転進した1970年代には“40 out”という言い方があって「40歳になってもウダツが上がっていない者は将来がないのだから潔く去れ」と言われていたものだった。

我が国の多くの企業に見える傾向に「地位が上がるにつれて現場と現業から遠くなって、ただハンコを磨いているだけの管理職が増えるので、一時代前の経験と知識で現代に対処するから、企業の成長性が損なわれるのだ」という見方がある。そこには年功序列の影が見える。そういう実力の伴わない時代遅れの管理職たちは、それを見せないように「鬼面人を威す」ような威張った顔付きになると、私は見ている。

新卒の定期採用と人事制度:
これは我が国独得の制度で、最近までは大学で現実に即応できないことばかりを学んできた者たちを集めて「自社の色に染めるための訓練をすること」を少し回避して、大学院出身者や、中途入社や、転職者を受け入れるようになってきたようだ。しかし、そこには私のような者が苦しんできた「同期入社間の競争と比較」がある。そこでは、人が人を感情まで入れて評価する長所と欠点があるのは仕方がないことだろうと思う。そこでは協調性や長幼の序があり、全体の和を重んじているので、ともすると個性豊かな者が弾かれる嫌いがあるのは否定できない。私は日本の組織の中にいた頃には自分が個性的な奴だという自覚が一切なかったが、後になって知ったことで、万人受けする奴ではなかったようなのだった。

日本人は会社に対して忠実であり献身的でありloyaltyが高いのだ。アメリカ人たちは「会社は生活の糧を稼ぎ出す手段」程度にしか看做していないから、会社に対する忠誠心などは希薄である辺りが日本人と大きく異なっている。

一昔前までは我が国には「何とか定年まで勤めて、退職金と年金で」というような考え方があったと言えるだろう。私は終身雇用の美点でもあると思って見ている。アメリカ人たちは「何とかして若いうちに実績を積み上げて年俸を高くして、早期にリタイアして可能な限りの多額なペンションを取って余生を笑って過ごそう」と考える傾向がある。

恥の文化と謙譲の文化:
諸外国というか西欧の連中に「謙り」と「恥」は通じないということ。「詰まらないものですが」と言って贈り物を渡す謙りの精神は、彼らには理解されないと知るべしだ。同様に「外国人に恥をかかせてはいけない」と配慮しても感謝しては貰えない。

「顔を立てて差し上げる」という配慮も評価されない。英語には“face saving”との表現はあるが。私が上司の無理無体な命令に「そんなことをお客に言いに行けば、私の業界における顔が潰れる」と反論すると「君の顔が潰れる事よりも、事業部の実績を優先する」と一蹴されたことがあった。

これらの優しさと慮りは国内だけで通用することなのだ。彼らは「この世界最高の技術で作った世界最高の品質を誇る我が社の製品を買わないのは、御社のmistakeになる」とごく当たり前のことのように言って売り込みをかける。我が国の会社間でこんな事を言えば、即刻「一昨日来い」と追い払われるだろう。そこに我が国だけで通用する謙りの精神を、諸
外国との交渉に持ち込んでいる場合が多いので、上手く行かないことがあるのだだと思う。

性善説の國:
私は広い世界の中でも、性善説を信奉している國は我が国だけだと確信している。人の性は善であると信じて疑わないのだ。その正反対にあると言える国の一つがアメリカだった。1972年に生まれて初めてアメリカに出張する前に「ホテルにチェックインの際にはリセプション(フロントのことである、念の為)に必ずクレデイットカードを提出せよ」と教えられた。理由も訊かずにその通りにした。アメリカに馴れてきてから現地人に「何の為か」と尋ねてみた。

答えは「あのようにして泊める前にカードナンバーを取っておけば、もしも『泊まり逃げ』をされてもカード会社の請求できるのだ」だった。即ち、最初から「お客は宿泊料金を払わずに逃げる」と看做しているのだった。見事な程の性悪説だ。

他の例を挙げてみれば「靴の売り場」がある。アメリカの靴の専門店でもデパートの靴売り場でも、靴は片方しか展示されていない。この現象も最初は「何故か」と訝ったが、ホテルのカードの件などから類推すれば、一足全部展示しておかなければ万引きに遭うこともないのだと分かった。ここでも、お客は万引きするものだとの前提に立っているのだ。「なるほど、この國は性悪説を固く信じているのだ」と分かった。

中国でもインドネシアでも「性悪説」を経験したことがあった。両国とも買い物をする際には担当している店員に現金なりカードなりを渡すのではなく、その店員に「売り渡す」という事を示す伝票を切らせて、自分で品物を持ってレジに行って支払う方式なのだ。この意味は「迂闊に店員に現金を渡せば、持ち逃げする機会を与えることになるから」と解説された。ここまで言えば、最早説明は必要ないだろうが、我が国の業者にはこのようなお客を頭から疑うような考え方はない。それ即ち、性善説に準拠しているのだから。

服装学:
私には海外で何処の国にいても我が同胞と出会えば、それが個人だろうとパック旅行であろうと、一目で「あっ、日本人だ」と解るのだ。その理由は簡単なことで服装が非常に特徴的というかその場の雰囲気から浮いているからだ。これは我が同胞に見える傾向で「外国に行くという緊張感からか精一杯着飾って来ておられるか」あるいは「気軽な旅だから寛いだ服装(ナリ)にしようと考えたのではないか」の何れかだろうと思う。「寛いだ」をカタカナ語にすれば「カジュアル」となるのだ。

先ずはこの奇妙なカタカナ語の「カジュアル」の方から。外国慣れした私の目には申し訳ないが非常に地味であり暗いなという印象なのである。特にアメリカでは現地人は原色を好み、細かい模様が入ったものを着ているのは極めて希であり、普段着ともなれば精々ポロシャツにジーンズという程度の出で立ちで街中を歩いているのだ。そこに対照的に地味な色彩で細かい模様が入った服などを着た日本人が現れれば、どうしても目立ってしまうのだ。別な視点から見れば、アメリカ人には「高齢者になっても控え目で地味なナリはしない」と言う服装学があると思って見ている。

次にビジネスの分野を駆け足で語って見よう。私がアメリカ人の世界に入って「ビジネスマンの服装学」の聖典である、ジョン・モロイが著した「出世する服装」(A New Dress for Success)から学んだ基本というか、原則的なビジネスマンが準拠すべき服装学がある。その発祥の地はウオール街等のFinancial districtと言われる場所だと聞かされている。

即ち、「スーツは濃紺か濃灰色(チャコールグレーのこと)、ワイシャツは白のみでボタンダウン、ネクタイはスーツが無地であればストライプ柄でも良い、ベルトと靴は黒のみ、靴下は当然黒のリブ折りでデザイナーのロゴマーク入りなどは御法度である。ビジネスの場には石が入ったタイバー(カタカナ語では屡々「タイピン」などとなっているのは誤り)やカフリンクス(「カフスボタン」のこと)は着用しないこと」となる。概要はこんなところだが、これ以外にも未だ未だ色々な決め事がある。

こういう文化があるからと言って、我が国でも誰しもが従う義務などないと思うが、多くの国会議員や企業の経営者の方々や、テレビに登場する有名人や芸人たちのように「濃灰色のストライプのスーツに色物のストライプのワイシャツ、ストライプのネクタイに加えて茶色の靴を着用では、まるで道化師だと言わざるを得ないのだ。ズバリと言えば「このような基準は我が国には未だに浸透していない」のである。また、このような服装に対する厳格さは、我が国では「紳士の國」として尊敬されている英連合王国においてよりも、アメリカの企業社会の方が余程厳しいのであると聞く。

この分野については、何れ稿をあらためて詳細に語って見ようと思う。

終わり)